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第11話

雨が降っている。顔に当たる水の粒が、まるで雨のようだと思った。右手でボディーソープのポンプを押して、スポンジに含ませるとそれが泡立っていく。夏衣は手を伸ばしてシャワーの活栓を閉めた。途端に雨は止まる。簡単な仕組みだ。泡立たせたスポンジをやや乱暴に体を拭うように滑らしていく。皮膚が多少赤くなっても、夏衣は中々止めようとしない。退出が許されるとその格好のまま廊下を思い切り走って、浴室に飛び込む。そうして着物を全部脱ぎ去った後、おそらくそこで30分はずっと水を被っている。がちがちと奥歯が鳴り出し、体が冷たさを認知し始めたらようやく水を止めて、そこからスポンジで泡を立てて体を洗いはじめる。洗っても洗ってもそれが居なくなったような気には、全くならなかった。見えない手が夏衣の錯覚の中だけで、気持ち悪くまだ撫でている。それは自分の胸と言わず足と言わず、全身を這い回っている気がする。気が狂いそうになって俯くと、胃の中に残っている全てのものをそこにいつも吐き出していた。目の前がくらくらして、ボディーソープの甘い匂いに混じって、その吐瀉物に多く含まれる胃酸の匂いが鼻腔を突き、それにまた何も出ることはない口を目一杯開けて、涙が出るまで嘔吐している。ぽたぽたと自分の唇から、酸の匂いのする透明な液体が流れ出し、夏衣は浴室にぺたんと腰を据えたまま、閉じたはずの活栓を開ける。あぁ雨が降っている、雨のようだと考えながらその雨の粒を数える。ゆっくり数える。体を覆っていたボディーソープが全て流れ切っても、夏衣はまだそれを数えている。自分でも無意味なことをしていると思っている。けれどそれに意味などなくても良かった、そんなことは問題ではなかったから。それを数えている間は落ち着けて、呼吸を上手く続けることが出来た。ぼんやり真水の粒を数える。体の上を水が滑って流れていく、このままどうして溶けてしまわないのか、夏衣はいつも不思議だった。 その時浴室の扉ががらがらと開く音がして、夏衣はふいとそちらに目をやった。今が何時なのか正確に把握出来ていないが、おそらくは深夜か明け方に違いなかった。磨りガラスの向こうにスーツの男らしき姿が見えたから、一体こんな時間になんだろうと思いながら、どうしてここに居るのか尋ねられたら困るなと思っていた。考えながら膝を曲げてそれに額をぴったり付ける。見れば床の上の吐瀉物はいつの間にか流されてなくなっており、最早そこに残るのは胃酸の匂いのみとなる。目を瞑ってざぁざぁと偽物の雨が降る音に耳を澄ませる。頭を空っぽにして、寝る前のように意識を手放して、戻って来たらいつもの自分、二三度心内だけでそう唱えて、夏衣はきつく目を瞑る。自らをそうして呼び戻すために、一度全てを空にしなければならなかった。 「夏衣様」 ゆっくりと夏衣は目を開けた。一体何の用なのか、男はまだそこに居るらしかった。思わずそれに返事をしそうになって、口の中から出そうになった悲鳴を噛み殺した。男が誰なのか分からないが、自分がここにいることを知っている。何故知っているのか、がたがたと奥歯が鳴り出しても夏衣はシャワーを止めることが出来なかった。黒い影がゆっくりと脱衣所を過ぎるのが見える。 「お着替えをお持ちしました」 「・・・あ・・・ありがとう・・・」 自棄に落ち着いた声でそう言われて、反射的に言葉が零れる。小さいそれがガラスの向こうの男に伝わっているかどうか、夏衣は確かめる術がない。一体何だ、誰なのだ。がちがちと煩い奥歯を噛んで、無理矢理震顫を止めようとする。気付けば手も震えていた。寒いのか恐ろしいのか気味悪いのか、分からない。男はガラスの向こうで夏衣のそれが聞こえていたのか、いいえとはっきり返事をした。その声には聞き覚えがあった。 「・・・かさい・・・?」 震える唇で男の名前を呼ぶと、男の黒い影が扉の前でぴたりと止まった。葛西だ、男は誰でもない世話係筆頭の葛西だ。震える右手の手首を左手で掴むと、もうどちらが震顫しているのか分からなくなる。夏衣は浴室の床の上を、ずずっと体を後ろに後退させた。すると磨りガラスにぺたりと男の手が押し当てられた。他のところはぼやけて輪郭がはっきりしないのに、そこだけが切り取られたように鮮明になる。何故だか酷く怖くなって、夏衣は両手で頭を抱えた。良く分からなかった、葛西は無知で馬鹿で良く知りもしないのに、口ばかり達者なただの出来の悪い世話係だった。どうしてその葛西がここに居るのか。どうして物知り顔で着替えなど持って来ているのか。叫びそうになって口を押える。知っているのか、知っているとしたら何故、一体どうやってそれを知ることになったのか。夏衣が震えながらそれを見ていると、不意に葛西の手のひらがぐぐっと歪んで、葛西はそれで磨りガラスに爪を立てた。がりりと葛西の爪が磨りガラスを撫でる音が、気味悪く浴室に響く。一体何事なのか、夏衣には分からない。葛西は黙ったまま、そこに爪を立てては引っ掻きを繰り返している。葛西は何をやっているのか、がりりがりりと嫌な音が辺りを埋め尽くす。流れている水音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。 「・・・すみません・・・」 弱弱しい声だった。ややあって葛西が次に口を開いた後出てきたのは、そんな弱弱しい懺悔の言葉だった。がりがりと葛西の爪が磨りガラスを掻き続ける。夏衣は不意にそれに自分を見た、そんな無意味なことをしていないと心のバランスを保つことの出来なくなっている、自分を見つけた。 「すみま、せん・・・夏衣様、すみません・・・俺・・・」 「・・・知ってるの、葛西・・・」 「すみません、すみま、せん、すみ・・・ま・・・―――」 知らないくせにと罵った自分が、どうしてそんなことを言ったのだろうと今更後悔している。これではまるで、その事実を誰かに分かって欲しいみたいだ。本当は包み隠しておきたいのに癖に、これではまるで自ら痴態を晒しているようだ。俯いたまま呻き声とも泣き声とも吐かない声を漏らしていた葛西が、唐突に磨りガラスにがつりと頭をぶつける。爪はその横で先ほどと同じ動作を繰り返している。殆ど涙声に聞こえるそれに、夏衣は妙な冷静さを取り戻していた。葛西を一体どうするか、上に移動を何と告げれば良いのか、夏衣の思考は瞬く内にそんなことに染まりはじめる。露見した以上、葛西をここにこのまま置いておくことは出来ない。がんがんと葛西は頭を磨りガラスに打ちつけ続けている。それを見ていられなくて、夏衣は無意識に眉間に皺を寄せていた。一体どうして知ることになったのか良く分からないが、葛西は一体何をそんなに取り乱しているのか、夏衣にはいまひとつ理解出来なかった。祖父である白鳥と夏衣の関係が、自分の思い描いた既存の親子関係を逸脱していたことだろうか。それとも良く知りもしないで適当な言葉を夏衣に掛けたことなのか。そのどちらも、もしかしたら他に理由があるのかもしれないが、だとしても葛西は夏衣の考えの中ではそんなに詫びる必要はないはずだった。それなのに何故、一体葛西は何をそんなに苦しんでいるのか、夏衣には分からない。葛西は傷付いたり苦しんだりする必要のない人間だった。葛西は夏衣のただの世話係のひとりである。時期が来ればまた部署移動する、そうすればもう夏衣の記憶の片隅にすら残らない、一介の使用人に過ぎない。それなのに何故、一体何故。 「葛西、もう良い、止めてよ」 「すみまぜん、ず、みませ・・・俺、俺何も、何も知らない、でっ・・・!」 「良いよ、もう良いよ。終わったことだよ」 「そんな、なん、で・・・何で・・・―――」 「葛西」 出来るだけ優しく呼びかけたつもりだった。すると葛西は何を思ったのか、突然ガラスを掻く手を止めてそれを拳にしてガラスをどんどんと強く叩いた。 「・・・なに・・・」 「開けて、ここ、開けてく、ださい・・・夏衣様!」 「何で、やだよ、何言って・・・―――」 「そこで、何してる、んですか、夏衣様!開けて、中に入れてください!」 時折言葉を詰まらせながら、葛西は更に拳に力を入れて磨りガラスを叩き始める。がんがんと音が浴室に反響している。葛西が殆ど怒鳴り声で夏衣の名前を呼んでいるのに、どうしてなのか、その時それが全く恐ろしいとは思わなかった。そうしてぼんやりと水音を聞きながら、自分はここに逃げ込んで一体何をやっていたのだろうと考える。足元にはスポンジが僅かな泡をつけて転がっている。そんなもので拭っても取れないことだって分かっていたのだ。だけどそうするしか他に方法がなかった。他にどうしたら良いのか思いつかなかった。飲み込むように指示された男の出した白い液体を、胃の中から掻き出すのに目の前が何度赤と白に染まっても止めることは出来なかった。ずずっと膝を立てて夏衣はそこに顔を埋めた。こんなところでこんなことをしても、事実は消えてなくならないし、記憶は都合良く流れていかない。感触までは拭い去れないし、全ては吐き出せない。真水を浴び続けた体が完全に冷え切って氷のようだと思ったけれど、何も感じない体が心地良かったので毎回ここで自分を氷付けにしようと試みた。そんなことを繰り返して、それが結局無意味に繋がっていても良かった。良かったと思っていた、思えていた。 (・・・たすけて・・・) その時までは確かに、そう思っていた。

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