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第12話

ガァンと一層酷い音がして、夏衣はぎゅっと目を瞑った。 「夏衣さ、ま!」 そんなことを望んだことがなかった、だって誰も助けてなんてくれなかった。はじめはきっと自分だって思っていたのだろう。しかし余りにも遠い過去のことのようで、夏衣はそれのはっきりした記憶を持っていない。いつからだろうか、結局そう思っていたことも忘れた。それは日を追うごとに夏衣の側を離れて、徐々に日常に埋もれていった。忘れていた、そんなことを昔自分は思い描いて、それに自分で裏切られていたことも。伸ばした手の前を大勢の人間が通り過ぎるのに、その誰も夏衣の声に気付いてくれないことも。自分がそんな、圧倒的孤独の中に投げ込まれていることさえ。思い出してはいけないと思った、それは自分を飲み込んで、そうすればきっと愁嘆の渦の中から出られなくなるだろう。届かぬその思いをそのまま口にしたら、それをはっきりと自覚してしまったら、一層自分の世界は漆黒に染まっていくだけだ。だから忘れていた、忘れようとして自分で消した。はじめからなかったことに出来た。それなのにどうして、今頃葛西はその記憶の名前とともに現れて、そこを開けろと喚いているのだろう。依然広い浴室の中は、葛西の拳が磨りガラスをガンガンと乱暴に叩く、その音だけに支配されている。葛西は一向に諦めようともせず、びくともしない頑丈に出来た浴室の磨りガラスを殴り続けている。それが自棄に象徴的に夏衣の中に、葛西の中に入り込んで来る。それは葛西に決して夏衣を助けることなど出来ないと簡単に信じ込ませて、夏衣に決して助かることなどないとあっさり分からせる。それはそういう意味と現実を持って、頑なに葛西と自分の世界を線引きしている。それを開けてはいけないと思った。葛西をこちらに引っ張りこむ唯一の扉を、何と責められようとも開けてはいけないと思った。開けたら最後、あの目がどんな風に濁るのか夏衣には想像出来ない。目を瞑って音に耐えて、葛西が諦めるのを待つしかない。何も出来ないのだ、葛西には。力のひとつもない一介の世話係が、自分の救いになどなってくれるはずがない。葛西は自分の味方などではない、言葉ひとつで祖父の足元に跪く、そういう種類の人間だ。信じるな、信じてはいけない、結局覆される運命にこれ以上翻弄されていたくない。 「開けて・・・開けて、下さい・・・―――!」 今までとは違うビシッという音が、唐突に浴室の中に響いて夏衣は思わず目を開いた。見れば浴槽の磨りガラスに、縦に大きく皹が入っている。止めろ、止めてくれ、夏衣は最早手遅れにも思えるそれに祈るように思った。しかし何故だろう、その時自分は葛西に命令という形でそれを振りかざすことをしなかった。何故か。そのやり方を夏衣は好まなかったが、決して出来なかったわけではない。葛西を止める唯一の方法は、もしかしたらそれだったかもしれないのに、夏衣は無力に両手を合わせて祈るように思うことしか、その時何故か選ばなかった。もしかしたら自分自身も気付いていないような深遠で、夏衣はそのことを望んでいたのではないか。ただそれは言わないという形で、表面化されただけなのではなかったのか。恐ろしいその想像を、今でも夏衣は半分以上受け入れられないでいる。唇は依然がたがたと震えて続けていたが、それが寒さからくるものなのか、恐怖からくるものなのか、それとも他の何かなのか、もう誰にも判別のしようがなかった。しかし葛西は容赦なく躊躇いなく拳を振り上げ、その皹の中心目掛けて振り下ろした。ガァンと音がして、途方もない結界に思えた磨りガラスは、自棄に単純に大きな破片になり浴室の床に散らばった。その上にぱっと赤色が散る。それは夏衣がはじめて目にする、余りにも美しい鮮血だった。思わず口から短い悲鳴が零れる。真っ赤に濡れた葛西の手が浴室の内ロックを開いて、危惧した以上に扉は簡単に開かれた。開かれてしまった。夏衣が声を無くしてそれを見ていると、葛西が肩を大きく上下させながら開かれた扉から姿を現した。夏衣は体を捻って後退させようとした。すると葛西の右手からぽたりと赤い雫が垂れるのが見えた。葛西の裸足の足がぱきりと音を立ててガラスを踏む。 「・・・葛西・・・お前・・・」 浴室の床に赤を撒き散らしながら葛西は夏衣のところまでやって来ると、唇を震わせて何か言いたそうにしている夏衣をそのまま抱き締めた。躊躇いのない動作だった。夏衣はそれに一瞬言葉を飲み込んでしまう。葛西の着ている高級なスーツの上にも、容赦なく真水が降り注いでいる。その水がどんどん葛西の血液を流しているはずなのに、辺りは未だ生臭い匂いで充満していた。 「何やってるの、葛西。お前、手、手が・・・―――」 「良いんです」 ぐっとより一層強く抱き寄せられて、言葉が途切れる。葛西の声はもう湿っていなかった、何かを決心したような、吹っ切ったような強い声だった。 「こんなの、全然、痛くありません」 ガラスの刺さった葛西の手の甲が、真っ赤な血液を夏衣の肩の上で吐き出し続けている。それがどんどん流れていって、夏衣の半身に水とともに伝って落ちていく。それをぼんやりと目で追っていた。そういえばこんな風に誰かに、抱き締められたことなどなかった。夏衣は母親を知らなかったから、父親を知らなかったから、こんな風に抱擁されることがこんなにも安息を齎してくれるのだと知らなかった。夏衣は殆ど白に埋め尽くされた頭で、葛西の低音を何度も繰り返していた。真水を被った体は完全に冷え切っているはずなのに、どうしてか葛西は自棄に高い体温を保っていた。いや、その時夏衣にそう思えただけなのかもしれない。ぐっしょりと水を含んだシャツに頬をそっと押し当てるとその下の皮膚の温度が伝わって、じんわりとそこだけ温もっていく。何でもないそのことに、夏衣は不意に目の奥が熱くなった。男は何でもない、ただの世話係のはずだった。夏衣のためにこんなに大量の血液を、流して良い筈のない人間だった、そして流す必要のない筈の人間だった。葛西が腕に力を入れれば入れるほど、その傷口がぱくりと開き血液の勢いが増していくのが分かったが、夏衣はそれを止めることは出来なかった。それよりもむしろ、何故かその時もっと見ていたいとさえ思っていた。それは余りにも分かり易い自己犠牲だった。流れれば流れるほど、夏衣は葛西の温度を強く感じた。ざぁざぁとふたりを濡らし続ける真水の雨は、未だに止まる気配がない。けれどそれはもう、夏衣の心と体を冷やすばかりで、慰めてくれるものではなくなっていた。そんなものに救いや安定を求めていた頃の自分は、この強い腕を知らない。知らないだけの夏衣は、誰にも手を伸ばすことが出来ない。出来ないからここでひとり膝を抱えては震えてばかりいた。 「俺は確かに何も出来ないかもしれないけど、そんな風に俯く貴方のことを俺は放っておけません」 「諦めないで下さい」 葛西が耳元で囁くように、それでいて必死に言葉を繋いでいる。夏衣は体を全て葛西に預けた格好のまま、ぼんやりとそれを聞いていた。 「俺にひとつでも、貴方が幸せになる方法を教えて下さい」 違うと思った。その時はっきり、夏衣は違うと思った。葛西のことをずっと白鳥の役人らしくないと思ってはいたものの、一方で一介の使用人に過ぎないと考えていた。しかしやはり葛西が白鳥で生きている他の誰とも違うのは、こうして見れば明らかな事実だった。夏衣はそれに返事をする代わりに、そろそろと葛西の体に腕を回してぎゅっと抱き締め返した。腕の中で葛西の体がびくりと脈打つのが分かった。それに何でもないのに、夏衣は唇を緩ませていた。馬鹿で鈍感な男だと思っていた。今まで夏衣に付いたどの世話係よりも、若いだけで能力の劣る下らぬ存在だと思っていた。葛西の前に分かり易い壁を作って、葛西のことを酷く露骨に遠ざけていた。だって誰も夏衣の話を聞いてくれようとしなかった。本質的な意味で夏衣のために何かしてくれようとしなかった。だから葛西もきっと白鳥の従者のひとりに過ぎないと思っていた。幾ら口では夏衣に忠誠を誓っても、彼が契約しているのは白鳥という巨大組織だ。誰も信じられなかった。信じる選択など、そもそもその時の夏衣にはなかったのかもしれない。 葛西がその時言った幸せの意味を、夏衣はずっと考えている。今でも考え続けている。その時葛西に抱きしめられた自分が、そこでいかに幸福だったのか、葛西は少しでもその事を感じ取ってくれていたのだろうかと考える。だからその絶対的な安息を、夏衣は忘れない。 「・・・なつい、さま・・・?」 「葛西の体、温かいね」 「・・・え・・・?」 「温かい、ね」 知らなかった。人間の体がこんなにも温かいのだと、夏衣は知らなかった。葛西は黙ったまま夏衣の肩をより一層強い力で抱き締めた。傷が開いて血が流れる。辺りはその生臭い匂いで敷き詰められる。ふたりはそこで黙っていた。黙って体をこうして突き合わせているだけで、充分過ぎるほど理解していた。誰も言ってくれなかった。誰も夏衣のことなど本当には気に掛けてくれなかった。それ以上に白鳥はここに暮らす人々にとって驚異的な存在だったから、夏衣もその他大勢に助けを求めることをいつしか放棄していた。そんなことはとてもしてはいけない、大罪に思えてならなかった。 本当は葛西だけが、葛西こそが、夏衣のずっと求めていたものを与えてくれた人だった。

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