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第13話

血を吐き出し続けた葛西の右手には、きっと一生消えないだろう傷が残った。脱衣所で転んでガラスを割ってしまったのだという葛西のあからさまな嘘は、何故か白鳥でそれらしく信じられており、それから葛西は治療とお叱りの意味を込めて二週間謹慎処分となり、夏衣の目の前に現れることはなかった。その間葛西は白鳥が管理する総合病院に強制入院させられており、そのベッドの上で寝返りを打つだけの生活を強いられた。それが解かれて再び葛西が白鳥本家の敷居を跨ぐ頃、季節は穏やかに変わりつつあった。 暫くぶりに訪れた本家は、相変わらずの重厚な空気を撒き散らして、人々の方に要らぬ重石を乗せ続けている。走り出したいのに、廊下を歩くことを余儀なくされて、仕方なく足を滑らすように奥へ向かう。右手にはまだ包帯がかかったままだった。擦れ違うどの使用人達も何処から漏れた情報なのか、葛西のそれを知っているのだろう。頭を下げながらも何処か目線は、見慣れない右手の白に集中している気がする。気のせいだろうか、自意識過剰だろうか、この際どちらでも良かった。気持ちが急くまま目当ての部屋に辿り着くと、襖に手をかけそのまま開いた。ベッドで同じ天井を見ながら、考えていたことは勿論夏衣のことだった。全くそれらしい味のしない病院食を咀嚼して、代わり映えのしない窓からの景色を見続け、考えていたのは俯いたまま氷のような体を震わせていた夏衣のことだけだった。どうしてこの時に側にいることが許されないのか、側に居ることだけで他には何も出来ないことが分かっているだけに余計、それは歯痒い思いを葛西にさせ続けた。やっとその悪夢のような日々が終わり、葛西は病院から抜け出すことが出来た。世話になった医者に頭を下げて、良くしてくれた看護婦に笑顔を見せて、それでも考えていたのは可笑しいくらいに夏衣のことだけだった。仕舞ったと思ったのは、弱い日差しが入り込んだ部屋の中、夏衣が驚いたように振り返ってからだった。本家の人間の部屋に入る時は、必ず順序通りに行っていた了承をただ取るという作業を、この二週間病院のベッドに縛り付けられている間にすっかりと忘れていた。さあと血の引く音がして、白い包帯に覆われた右手が小刻みに震え出した。 「す、すいません!」 がたがた音を立てながら襖を慌てて閉め、葛西は俯いたまま一度大きく息を吐いた。全く自分のこういう気の抜けたところは昔から一向に直る気配が無い、思いながら深呼吸はいずれ溜め息に変わる。葛西がそこで自己嫌悪していると、不意に中から声がした。 「良いよ、開けても」 少年の声だった。それは変声期前の高音を保ったままの少年の声だった。それに羞恥で頬を赤くしながら、葛西はゆっくりと襖を開いた。そこで夏衣はいつもの勉強机の椅子に制服のまま腰掛けており、ふたつの美しい桃色はこちらを見て笑んでいた。笑んでいるように見えた、少なくとも葛西には。その小さく頼りない肩には申し訳程度に紺色のカーディガンがかかっており、それが何故か夏衣を余計病的に見せていて、葛西はそれに口元を緩めながら何処か苦い思いをしていた。二週間ぶりに見たその人は、何の変化もなくただ美しいばかりの寂しい様相だった。それに喜んで良いのか悲しんで良いのか分からない。葛西は自分でも一体どんな顔をしているのか、良く分からないままに眉間に皺を寄せた。ずっと思い続けたその人は、手を伸ばせば触れられる位置に無防備に座っている。決して手を伸ばすことなど許されはしないが、ここで同じ空気を吸っているのは事実としか思えなかった。しかし何故だろう、それは少しも葛西を安楽には導いてくれなかった。久しぶりに見た夏衣の姿から発せられるその寂寞の雰囲気の理由を、自分はもう知ってしまっているからなのか。 「葛西」 ただその桜色の唇から発せられる音が、自分の名前を何処か情愛を持って呼ばれているのかもしれないと、葛西に思わせるほど柔らかくなっている。本質的にはどうか判別出来なかったが、兎に角葛西にはそのように思えたのだった。それに返事もしないで、ただ見つめていた。夏衣はこんな風に自分の名前を呼んでいたのだろうか、そう考えると迂闊にそれに返事など出来なくなっている。思えば夏衣は子どもらしくもなく、何処か距離のある少年だった。扱く完璧に整った横顔は、全くといって良いほど隙がなく、その攻撃性をひたかくしにしてはいたが、それでいて自棄に野蛮なやりかたで全てを拒絶していた。幼い少年は幼過ぎるゆえに、おそらくは自分の敵と味方を区別することが出来ずに、目に映るもの全てを排除することで自身の安定を図っていたのではないかと思われる。そうまでしてそこに安息を求めた夏衣が、一体どんな絶望の中に居たのかということを、考えただけで身震いする思いがした。 葛西は夏衣の部屋に入ると、そこに膝を突いて後ろ手で襖を閉めた。それだけでこの部屋の中は妙な暗がりになる。夏衣はそれを、何処か懐かしそうに見ていた。もうその目には誰か他人を見るような冷たいものは宿っていなかった、そう信じていたかったから、その時それがそう見えただけなのかもしれないが。 「久しぶりだね、良かった、元気そうで」 「・・・はい、夏衣様も・・・―――」 本当にそうだろうか、頬が引き攣って上手く笑えない。 「・・・二週間・・・」 「え?」 「二週間、何も、ありませんでしたか」 愚かな質問には違いなかったが、葛西はそれをすることを躊躇わなかった。何故だろう。そうして夏衣はそれに驚いたように一瞬目を見張ったものの、次の瞬間にはその視線を葛西から僅かにずらしていた。口元には何故か微笑みすら浮かべている。それが一体何を意味しているのか、葛西には分からなかったが、否定しないということは暗にそれを認めていることなのではないかと思わずにはいられなかった。 「葛西、右手の傷」 目を伏せて夏衣は言った。それは回答ではなかった。 「傷見せて」 暗がりにそろそろと手を伸ばす。夏衣の細くて白い指が葛西の右手首に巻き付いて、右手が包帯に触れる。夏衣は自棄に迷いのない動作でそれを解くと、ゆっくり葛西の右手から包帯を自身の手に巻き取った。徐々に露になる葛西の肌色に夏衣が目を細める。はらりと包帯が解け落ち、夏衣の手からもぱらぱらと零れて葛西の右手が露になる。右手の丁度側面に、はっきりと手術痕が残っていた。夏衣の指がそれにそっと触れて、確かめるようにそこをなぞった。ちらりと夏衣の目が葛西を捕らえる。何故だろう、痛みは全くなかった。 「痛い?」 夏衣は無表情で聞く。 「いいえ、痛くありません」 それに強く、出来るだけはっきりと葛西は答えた。夏衣の唇がまた少し笑ったような気がする。 「そう、でも痛かったでしょ。馬鹿だね、葛西は。こんな傷作らなくても良いのに」 眉尻を下げて何処か寂しそうに、それでも夏衣はその目を三日月にして笑んだ。葛西の手がそうして解放される。分かり易い自己犠牲は、夏衣の心にどういう形であれ響いたらしい。それでなければこの少年が、ここまで自分に踏み込んで良いことを許すはずがない。だったらそんなことはどうでも良いことなのだと、葛西は言いたい唇をきつく結ぶ。こんな風にしなければ、夏衣の領域に全く入ることが出来ないなんて、夏衣自身理解しているわけではないのだろう。殆ど無意識に近しいそれを、態々表面化する必要など何処にもなかった。そうしてその意味や理由を、誰かが勝手に想像して良い筈が無かった。痛いはずの右手を握り締める。麻痺しているのか、神経は何にも捉えない。この傷は勲章だと病室で馬鹿みたいに考えたことを、夏衣はきっと笑うだろうが、笑ってくれるのならばもう何でも良かった。他に仕様もなかったから、それぐらいしか祈ることも出来なかった。この薄暗がりの中で眩しそうに目を細める彼のことを、抱き締めたいと思うけれど手を伸ばす勇気なんて何処にもない。あの時は本当に我武者羅だったからあの頼りない体を、折れそうな体を、あんなにきつく抱くことが出来た。夢みたいな感触だけが残った腕に、夏衣の僅かな芳香だけが残されてそれがやがて哀切となり、葛西の傷の中で不思議に疼いている。あれは現実だったのだと、あの時距離は完全にゼロだったのだと、葛西に知らしめるためにも、傷は形として残って良かったのだと、どうして夏衣に告げることが出来たのだろう。

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