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第14話

夏衣は良く笑ってくれるようになった。もしかしたら半分以上気を遣ってくれているのかもしれないけれど、何でもないことでその唇を湾曲させることが最近は多く見受けられて、それに葛西はひとりで勝手に満足していた。あんなに遠いと思っていた夏衣は、気付けばいつも葛西の手の届くところ目の届くところで無防備にぼんやりしている。少しでも自分が夏衣の安息の助けになれれば良いと思った。その手や体を繋いだり抱き締めたりすることが例え許されなくても、夏衣が少しでも自分の側にいてそれが心地良い時間だと感じてくれているのなら、そんなことは自分のそんな愚かな欲望など簡単に二の次になる。信じていた。今は無理でもいつかこのひとを完全にここから救い上げる術を、いつか自分は見つけることが出来ると、それは何故か当然のように葛西の中に存在していた。その根拠など誰も突き止めなかった。勿論それが無かったからだ。突き詰めれば無に繋がっている糸を、誰も手繰り寄せようとはしなかった。夏衣でさえ、葛西でさえ。結局それが一番大事なことだったのに、ふたりとも目隠しをしてそれを見ようとしなかった。もしかしたら夏衣は知っていたのかもしれないけれど。 静かな夜だった。夏衣がお疲れさまと小首を傾げながら言うのに、何故自分はこんなに幸せなのだろうと思いながら頬を緩めた。襖を閉めて人気の無くなった廊下を歩く。明日もあのひとの側にいることが許されている。それが一体どんな巨大な面積を持って、葛西の中を占めているのか夏衣は知っているのだろうか。考えながら滑るように廊下を進む。長い一日が終わって疲れているはずの体は、今日も同様に浮かれっ放しだった。何度目か角を曲がったところで女中と擦れ違う。景気良くそれに頭を下げた次の瞬間、目の前に人影を見つける。 「あ、斉藤さん。お疲れ様です」 「お疲れ様です、これからお帰りですか」 「えぇ、はい。今日はもうこれで」 自棄に快活な葛西の声は、やはり白鳥に馴染む気配が一向に見られなかった。狐目の男は今日も妙な笑みを浮かべて、そうですかと呟くように呼応する。 「それじゃぁ、俺、失礼しますね」 葛西が斉藤の側を擦り抜けるように通って、玄関を目指し歩き始めようかという時だった。 「すいません、葛西さん」 後方で静かに斉藤の声がする。それに条件反射のように振り返る。その視界の中で斉藤はこちらに背を向けていたが、ゆっくりと葛西のほうに向き直り、もう一度その笑みを深いものにした。それにぞわりと背筋を撫でられたような嫌な気分になる。それが何故なのか、葛西は思い出すことが出来なかった。しかし脳は危険を察知し、カンカンと煩いほどの警鐘を鳴らし続けている。しかしそれが一体何故なのか、何なのか、葛西には分からなかった。 「はい?」 「夏衣様にお伝えしたいことが」 「・・・―――」 「当主様がお待ちなので寝室までいらっしゃる様、伝えて貰えますか」 勿論失念していたわけではない。しかし最近夏衣は比較的平穏に過ごしているように見えた。もしかしたら葛西の目の届かぬところで、当主とのその残酷な逢瀬は行われていたのかもしれない。一度は手も目も届くと考えていた。しかし夏衣は永遠とも思えるほど遠い隔たりの向こうの少年に、違いなかった。葛西はそれを愕然としながら感じ、またそれに絶望せずにはいられなかった。あの子はどうして、あんな風に笑うことが出来たのだろう。一体誰に理解して貰えているのだろう。あの小さい肩が震えるのを、誰が抱き締めてやるのだろう。分からなかった。一体自分が夏衣の何の助けに救いになっているのか、そんなのは何でもないただの自己満足だった。 斉藤は葛西が返事をしないことを特に咎めるでもなく、頼みましたよと念を押すと廊下を歩いて行った。葛西はその背中をぼんやりと見送っていたが、不意にはたと気づいて慌ててそれを追いかけた。まさか馬鹿正直に、これを夏衣に伝えるために部屋になど戻れなかった。 「斉藤さん!待って下さい!」 夜中の白鳥本家に、葛西の声が響く。斉藤はゆっくりと振り返って、らしくも無く怪訝な表情を浮かべた。それに息が喉の奥でひゅうと音を立てる。気にしないふりなど出来なかった。 「どうなさったんですか」 「・・・斉藤さん、は・・・知っている、んですか・・・」 眉がピクリと動いた。しかしそれだけで斉藤の顔は依然無表情だった。 「当主様が、何のために夏衣様をお呼びになっているのか、知っているんですか・・・!」 だったらそんな酷いことを、一体誰が強いるようになったのだろう。あの小さい体に、どうして教え込むことが出来たのだろう。夏衣に諦めを覚えさせ、無機質に安定を求めさせたのは、一体誰だったのだろう。怖くて、ただその奥にあるのが恐怖だと知りたくなくて、葛西はそれを求められない。誰にも真意を確かめられない。斉藤は何も言わなかった。それは肯定とも否定とも取れる空白の時間だった。葛西は放っておくと震え出す奥歯を噛んで、必死に焦燥に耐えた。ややあって斉藤がその薄い唇を開いた。 「一体何のことを仰っているのか、私には分かりかねますが」 「・・・知らないんですか・・・」 「えぇ、それが何か」 「・・・―――」 とてもではないけれど、夏衣にこんなことを伝えることなど出来なかった。自分がその残酷な行為の歯車になっていると思うだけで、喉を掻き毟りたい衝動に駆られる。それなのに何故か、葛西の足は夏衣の部屋の前で止まっている。きっと勤勉なその人は、まだ机に座って勉強をしているのだろう。そんなことをただ考えていると、ついっと目から涙が零れてきた。どうしてそれを拒否することが出来るのか、葛西には分からない。それを拒否した自分が白鳥で生きていられるともまた思えない。夏衣の側にいるために、伝えなければならないと思ったが、それを伝えることで夏衣をまたあそこに誘うことになる。もうどうすれば良いのか分からなくて、葛西はそこに立ったまま途方に暮れていた。襖を開けるだけのことが、膝を突くだけのことが、ただ出来ずに涙を静かに零していた。こんなことをして、それでも貴方を強く思っているなんて、随分と軽薄な言葉である。だけど一方で葛西の心と体は白鳥のものだ。それは夏衣のものではない、ここで生きてここで息をしている限り、夏衣のものには一生ならない。けれどここ以外で夏衣の側にいることは出来ない。巡り巡った思考に振り回されて、廊下にまたぼたりと音を立てて葛西の涙が落ちていった。どうすれば伝わるのか分からない、こんな拙い方法しか知らないで、こんな浅ましい方法しか知らないで、葛西は漏れる嗚咽を噛み殺しながらそこに立っている。 不意に目の前の襖がすっと開いた。思わず顔を上げたところに、夏衣が別れたままの紺の着物を着て立っている。涙でぐしゃぐしゃになっている葛西を見ると、夏衣はその美しい桃色を三日月にした。嫌だと言った声は掠れて、ひとつも音にならなかった。夏衣がすっと手を伸ばして、葛西の頬を滑った。水滴が夏衣の指に吸い付く。葛西はそれを見ていた。瞬きをするのも忘れて、ただそれを見ていた。 「大丈夫だよ」 それが何を言っているのか分からなかった。けれど葛西に向けられたそれは、予想も出来なかった慰めだった。 「だって葛西は大丈夫だって言ってくれたでしょ」 指が離れる。それを繋ぎ止めておく術をどうして自分は見失ってしまったのか。夏衣はすっと襖を閉めると、そこに葛西を残したまま悠然と廊下を歩いて行った。どうしてそれを引き止めることが出来るのか。一体どんな権限で夏衣にここに居てくれと言えるのか。まさか言えない。自分はただ無力で、救いも助けも夏衣が何ひとつ諦めてしまっているのを、そんな形で知ることになるとは思っていなかった。夜明けまで葛西はそこに立っていたが、結局その日、夏衣が帰ってくることはなかった。

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