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第15話

酷い隈だ。 鏡を見ながら溜め息を吐く。結局一睡もすることが出来なかった。頭がぼんやりしているのは、考えたくないからだろうか。どうも現実を上手く咀嚼することが出来ないのは、自分の力量が足りていないからだろうからだろうか。夏衣は笑っていた。笑ってさえくれれば良いと思った。だって笑顔は幸せの象徴ではないのか、その奥にどうして悲哀など抱くことが出来るのだろう。分からなかった。けれど軽率だと思わされただけだった。結局自分はいつか夏衣が言ったように、何も出来ないに決まっている、決まっていた。自分というこの小さな存在は、白鳥の指の形ひとつでどうにでもなる、そうしてどうにでもされるべき、弱い存在なのだとどうして忘れていたのだろう。それを自覚しておくべきだった、そうすれば軽率な行動など取らなかった。しかしそれは現状から目を背けるという結論にしかならない。夏衣の忘れていた救いや助けを掘り起こしただけで、結局そこに手を差し伸べてやることも出来ない。葛西に出来たのは涙を零していることだけだった。自分は子どもだと思った。夏衣のことを常々子どもだと思っていたけれど、子どもなのは自分のほうだった。疲れた体を引き摺って、夏衣の部屋まで辿り着く。誰かが掃除をしたのか、廊下に昨日流したはずの涙の痕は見当たらない。こうして葛西に錯覚させる。自分はその痛みを知らないから、目の当たりにしたことが無いから、もしかしたらそんなことはなかったのではないか、夢だったのではないか、簡単にそう信じ込ませる。どうしてなのだろう。ぼんやりした頭を冷えた板の間にぴたりとつける。夏衣を呼んだ声は自分でも可笑しいと思うほどに擦れていた。 「どうぞ」 対して葛西に向けられたそれは、いつもの夏衣の声に相違なかった。目の奥がじわりと熱くなる。嘘だった。何も無かったなんてどう考えても嘘だった。何にも無かったならこんなことで、こんな風に寂寥に支配されたりしない。震える手で襖を開いた。いつもの薄暗がりに立っていた夏衣は、既に制服をきっちりと身につけており、葛西のほうを振り返ると頬を緩めた。嘘だった、何もかも嘘だった。 「・・・葛西、どうしたの、その顔」 「・・・え・・・」 驚いたように目を瞬かせて、夏衣は葛西の頬にそっと触れた。それは昨日のことを簡単に想起させる。じわりと目の粘膜が濡れたのが分かった。 「酷い隈だよ」 眉を顰めて夏衣が言う。指先が離れる前に涙が頬を伝っていた。夏衣がまたもそれに吃驚したように、一瞬体を硬直させる。きっとこのひとはこんなことを何度も繰り返してきたのだろう。これはその延長に過ぎないのかもしれない。しかし葛西にとってははじめてだった。これが全くの希望のない、夏衣の諦めの世界だった。自分がこんな風に涙して良い範疇は、もうとっくの昔に過ぎている。この悲しみは夏衣のものであって、夏衣だけのものであって、葛西のものでは決してない。それでも葛西はそれに、嗚咽を漏らすことしか出来なかった。薄暗い部屋の中、夏衣が困ったように立ち尽くしている。馬鹿みたいだと思った。このひとの手を取って、一度は自分が平穏に導いた気がしていた。自分だけが自分こそが、このひとのために生きているのだと血を流しながら実感した。だけどそんなのは自己満足だった、悲しい自己満足の形に過ぎなかった。どうしてもどう頑張っても、そこから夏衣を救うことは出来ない。当主の言葉に葛西は決して反抗することが出来ない。当主の寵愛を受けているこのひとを、決して自分のものにすることは出来ないし、葛西もまた夏衣のものにはならない。白鳥である以上永遠に、そうして今後、葛西も夏衣も白鳥の檻から出ることは出来ない、永遠に。 「・・・葛西」 蹲ってひたすら嗚咽を漏らす葛西の側に、夏衣はそっと膝を突いてその震える背中に手をやった。きっちりと白鳥の買い与えたスーツを葛西は着ている。それが一体どういうことなのか、本人も分からぬままただそれに毎日手を通している。知っていた、葛西が自分の味方にはならないことなど、夏衣には分かっていた。そうしてなってはいけないのも、自ずと理解出来た。大丈夫だと繰り返せば、本当に大丈夫だと思える気がした。 「ねぇ、そんなに辛いんだったら、俺の側辛いんだったら、別の人と変わっても良いんだよ。辞めても良いんだ」 出来るだけ優しく囁いたそれに、夏衣の手のひらの下で葛西の体がびくりと痙攣した。見ていられなかった。この真面目で優しい人がこんな風に傷付いたり自分を責めたりすることが、夏衣にはとても耐え難いことのように思えて仕様が無かった。そっと葛西の背骨にそって手のひらを滑らせる。そもそも葛西は白鳥に居て良いような人間ではない、居れば居るだけきっとこの中に白鳥の悪質な空気を吸い込んで、葛西自身というものを内側から破壊することになるだろう。手遅れになる前が良い、出来るだけ遠い支部が良い。一体何処が葛西に平穏を齎してくれるのだろう、夏衣は考えていた。すると不意に葛西が嗚咽を止めて顔を上げた。それを心配そうに覗き込んで、夏衣はびりりと神経の痺れる思いがした。その顔には何も浮かんでいなかった。一番綺麗だと思ったその透き通った茶色い目には、黒い濁りが浮いていた。誰の爪痕だったのだろう、それは。葛西の表面に分かり易く傷を付けて、それに血を滲ませた。それは徐々に葛西が蝕まれていっている確かな証明に違いなかった。 「・・・葛西・・・―――」 「止めて下さい、そんなこと言うのは」 強いそれは拒絶の声だった。夏衣は思わず手を引っ込めて、一体どうしてしまったのか。頬だけ不自然に濡れている葛西の怒りに満ち満ちた横顔を見ていた。 「・・・だって、お前」 「止めて下さい!辛いのは俺じゃない、俺なんかじゃないんです!」 「・・・葛西」 「貴方の、あな、た・・・の・・・ほう・・・、が・・・―――」 透明の涙が葛西の目から零れて、つるりと生まれ変わったように、その奥の瞳は透き通った茶色をしている。それを見つけて夏衣はほっとしていた。葛西が乱暴に涙を拭う、しかし拭っても拭っても目から涙は生成され続けていた。まるでその淀みを吐き出すように、流れ続ける涙にその時確かに夏衣は安堵していた。それでもそれを擦ろうと手を伸ばす葛西の腕を掴んで、夏衣は首を振った。葛西の顔がだらしなく歪んでぼろぼろと目尻から涙が零れ落ちていった。葛西はそうではないと言ったけれど、どう考えても、葛西のほうが辛そうに見えた。そんな風に目の下に分かり易く疲れを滲ませて、一体彼にとって昨夜の時間は何だったのだろう。そう思うと居た堪れない気持ちになる。ひくりと葛西が喉を震わせた。 「な、なつい、さま・・・」 「なに、もう擦っちゃ駄目だよ」 「・・・お、お願いが、ありま、す」 「なに」 震える葛西の爪が、畳に食い込む。それが葛西にとってどの程度の決心だったのか、夏衣は知ることは出来なかった。しかし後から考えてみても、そこが葛西の裏切りのはじまりだった。 「だ、きしめてもいいですか・・・」 「え?」 「・・・だきしめ、させて、くださ、い・・・おれに・・・」 「・・・―――」 どうしてだとか、何故だとか、聞く暇など夏衣には与えられなかった。葛西の弱弱しい震えた声とは対照的に、その時夏衣に伸ばされた腕はひとりの大人の腕だった。それに捉えられて呆気なく葛西の腕の中に、夏衣はおさまっていた。葛西の肩が震えている。これは一体何の震えなのだろうと、夏衣は考えながらそこに顔を埋めていた。その時も変わらず葛西の体は熱を帯びていて、それが自棄に心地良かったのを覚えている。夏衣の体を葛西は掻き抱くように抱き締めて、そしてその耳元で擦れた声を響かせた。 「あなたが、すきです」 あぁ、これは何の崩れる音だろう。

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