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第16話

「お帰りなさいませ」 声は震えてなどいなかった。校門に横付けされた黒の高級外車が、きらきらと太陽の光を眩いほどに反射させている。ここに通っている生徒達は、それがもう日常の風景になってしまっていたので、夏衣にもそして中学にはおおよそ用はないと思われるツーピースのスーツを着て白い手袋を嵌めている葛西にも、特別興味を示すことなく淡々とした横顔のまま隣を過ぎて行った。頭を下げる葛西を何も言わずに見つめると、葛西は出来過ぎた無表情の中、その透き通った茶色の目の中だけに僅かな動揺を滲ませた。夏衣はそれを簡単には見過ごさない。しかし見なかったふりをしてやっている。そんな夏衣の努力も虚しく、慌てた様子で葛西が後部座席の扉を開ける。夏衣はそれにいつものように黙ったまま乗り込んだ。ひっそりと白鳥の空気を半分以上取り込んである車内、嫌な沈黙だと肘を突きながら考えた。ややあって葛西が乗り込んだ後、運転席の扉が些か乱暴に閉められる。いつもはもっと気を遣って閉める。葛西はそういうマニュアル的なところは自棄にきっちりとこなす男だった。それ以外の応用がどうも利かないあたり、余り器量は良くないのだろうと見受けられるが。一体どうしたのだろうと単なる興味で見やると葛西の手は微かに震えていた。途端にそれを見たことを後悔することになる。男がその手で無遠慮にしかし力強く、自分の体を抱き締めたとは思えなかった。もしかしたら思いたくなかった意思が、そんな幻想を夏衣に抱かせたのかもしれない。それはどう足掻いても事実に違いなかったのだから。それに自己嫌悪の意味を込めて、ひとつ溜め息を吐く。夏衣は葛西ほど、可愛らしくそして馬鹿な大人を知らなかった。依然葛西は俯いており無言のまま、車が発進させられる。こうしてふたりで黙っていると、今朝のことなど嘘のように思える。葛西にとっては嘘にしてしまったほうが、良いことなのかもしれない。誰もきっと許しはしない。葛西の気持ちなど、ここでは誰も優先してくれない。そんな悲しい気持ちなら、嘘のほうが幾らか良かった。幾らも救われる気がした。 「・・・今朝の、本当に・・・申し訳ありません」 聞き取れるか聞き取れないかの丁度ボーダーラインに位置する、自棄に小さい声で葛西が若干俯いたまま呟くのを、夏衣は聞きながら、やはりと心中で落胆しながら納得した。葛西は白鳥の人間だ。例えそこに似つかわしくない空気を放っていようが、それは白鳥の人間ではないことと何ら関係はない。ただ珍しいことは珍しかったが、そうである事実はまた事実だった。それに葛西が恥じることは何もない、いずれ葛西だって白鳥の空気に毒されていくのだろう。初見の時そう感じたそれは、依然夏衣の中に強固に居座り続けている。しかし、葛西はそんな夏衣の憶測を良い意味で裏切っており、まだその目は透明に澄み切っていて、それは夏衣ですら時々はっとさせる要素を持っていた。これが白鳥で暮らす大勢の人間が言う色持ちに対する発想なのかと思うと、自身のそれに納得がいく気がする。しかし葛西の目と白鳥の色を同等に扱って良い訳がなかった。他の人間が幾ら首を振ろうとも、夏衣はこの色に対す嫌悪感を拭えないでいる。これであるから白鳥で、だからそこから逃れられない。どうしてこんな色に生まれてきたのかと、唇を噛み締めてガラスに爪を立てても、虹彩は濁ったりしないのだった。 「良いよ、気にしてないから」 その時引き攣った葛西の顔を、夏衣は出来るだけ見ないようにした。そうしてそんな愚からしい感情など徐々に忘れていくから大丈夫だと、本当は葛西に告げたかったけれど、いつの間にか喉がからからになっていて、言葉は全てそこに張り付いて出てこなかった。腐敗させていくのだ、それは誰の手でもなく、自分自身の手で。それは多大な痛みを伴うかもしれないが、それはその時だけのことだ。いずれそれを促した夏衣に感謝することになる。白鳥のことを葛西は良く知らないのだ。だからそんな命知らずなことが出来る。そんなことを考えている夏衣ですら、その時白鳥の本質というものを正確には把握出来ていなかった。今でも考える。もしあの時もう少しでも白鳥に対して夏衣が踏み込んでいたならば、結果は変わっていたのかもしれないと。しかしその時一時の気の迷いに振り回されている余裕などなかった。少なくとも夏衣には、それよりも大事なことが、重要視しなければならないことが目と鼻の先に見えていた。けれど葛西の抱擁は何処か心地良かったと、思えばそれだけが気がかりで残念なことだった。抱擁とは誰とでもあんな風に温かいのか、抱き締めてくれる腕を知らないので夏衣には分からない。しかしここで全てを嘘に幻想にしてしまったなら、もう二度とそれには出会えないのだろうと夏衣は自棄に確信的に考えていた。その後夏衣は幾人かに抱き締められるという経験をするが、葛西ほどの熱を持った人間は現れなかった。そうして今後も現れないのだろうと、もう殆ど感触のない自らの腕を抱いて思う。 不意に車が停止した。ふと窓の外を見やると、見慣れないそこは何処かの庭園の中のようだった。帰り道にこんなところなどあっただろうか、考えながらシートにすっかり凭れていた夏衣は、体を上げて窓の外を覗き込むようにしてみた。辺りは自棄に閑散としており、鳥の声がするばかりで人気が全くない。公園なのか、それにしてもその辺りの雰囲気から車で進入していい場所だとは思えなかった。葛西に声をかけようと運転席に目を向けると、葛西はそこでハンドルに額をくっ付けるようにして体を半分に折り、その肩を酷く分かり易い方法で揺らしていた。思わず夏衣はかけるはずだった言葉を飲み込んで、宙に浮いた何も掴めない手を下ろした。夏衣は葛西に何も出来ないといったけれど、誰かの悲しみの前で他人は結局何も出来ないのだと思わされただけだった。それは夏衣だけに限ったことではなく、おそらく万人共通の心理なのだろう。そんなことを今更痛感していた。しかしそこに考えが至ってもまだ、そんな風に葛西が苦しむのは、不当だとしか思えなかった。だから自分の側を離れろと言うのに、葛西は何故かそれを了承したがらない。夏衣にはその意味が分からない。それは先刻ふたりの間で嘘になった事実だったから、夏衣はそれを思い出すことは出来ないし、しない。鼻を啜る音がして、また葛西はそこで泣いているのだと思ったけれど、夏衣にはもうそれに一体どんな言葉が似つかわしいのか分からなかった。殆ど途方に暮れていた、おそらくふたりとも。静かだった。余りにも静かで、時計の音すら聞こえるほどだったが、何故か時間の感覚が抜け落ちたような妙な感覚だけが、嫌に鮮明だったのを覚えている。 「・・・す、いま、ぜ・・・ん」 「葛西、良いんだよ。そんなに辛いなら、もっと別の支部に移して貰いなよ。何なら俺が手を回してあげても良いよ」 擦れた声で悲痛に嘆く葛西のことを、もう見ていられないと思った。言いながら夏衣は、その台詞には何処か聞き覚えがあると思った。するとそれに瞬時に反応して、葛西が今朝と同様ぐちゃぐちゃに濡れた顔でこちらを振り返った。悲痛に歪められた顔を、ずるい夏衣は直視出来ない。 「嫌です、それだけは・・・絶対に・・・!」 「・・・どうして」 「貴方と離れるなんて、そんなこと、出来ない!」 「・・・―――」 自棄に強い語尾とは正反対に、ぼろりと葛西の目から繊細な涙が零れて、夏衣はその美しさに何も言えないで黙っていた。顔はぐしゃぐしゃで所々赤く染まっており、お世辞にも美しいとは言えなかったけれど、その時夏衣の目に映っていたのは、自棄に透明度の高い涙の粒だった。知らなかった。人間はこんなにも美しく涙することが出来るのか、知らなかった。そして出来れば、知らないままでいたかった。夏衣は遂にそれに耐えられずに顔を覆った。葛西が眉間に皺を寄せる。そうして葛西は何度でも呟く、それは裏切りの言葉だった。いけないと分かっているのにそれでも内を突いて出てくる、それは裏切りの言葉だった。 「好きなんです、愛してるんです・・・」 「・・・葛西・・・」 「御免なさい・・・許してください・・・夏衣様・・・」 ひくりと葛西が喉を震わせながらしゃくり上げて、夏衣は余りにも痛々しいそれに何も言えずに俯いてしまった。こんなことが白鳥に知れたらどうなるだろう。自分は本家の人間だから、それでも酷いお叱りが待っていると思うが、きっと最悪の事態は免れるだろう。この時点で夏衣はかなり白鳥に対して甘い考えを抱いていたのだが、それは後に悔恨にしかならない。しかし葛西は白鳥で雇われている一介の使用人に過ぎない。そこには天と地ほどの差がある。考えただけで身震いした。恐ろしくてそれに答えなど出せるはずもなかった。どう考えてもそれは愚からしい行為に違いなかった。お互いにそれに対して何の幻想を抱いていたのか分からない。今となってはその時の突発的な熱に犯されていたとしか思えなかった。しかしまた、それだけで片付けてしまうには掛け替えの無さ過ぎる感情でもあった。だからそこで運転席から伸ばされた葛西の手を、夏衣は拒否することが出来なかった。むしろそれを反面では望んでいたのかもしれない。葛西の手が夏衣に触れる。もうそこに躊躇などなく、それは夏衣も葛西も同じことだった。その腕が胸が、温かいのを既に知ってしまっていたからかもしれない。この大罪は共犯だった。葛西は何度も呟いた。それは懺悔の言葉だったが、それと同じくらい葛西は分かり易く夏衣の耳元で愛の言葉を囁いた。夏衣はそれを一体どう解釈して良いのか分からなくて、それ以上に葛西がきつく自分の体を抱くほうに神経を集中させた。それのほうが言葉なんかより余程、分かり易い表現に違いなかった。 「御免なさい、愛してる」 触れた葛西の唇は、しっとりと湿っていて、そうして随分と熱を帯びた粘膜だった。

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