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第17話
それが高級外車といえども、後部座席は狭かった。がつりがつりと何度か反動を支え切れない夏衣が、その後頭部をガラスに打ち付ける。葛西はそれに気付いて夏衣の後頭部にそっと手を宛がった。小さな頭蓋骨の形を、手のひらは実に簡単に読み取る。この人は自分の体すら支えることの出来ない弱い生き物なのだと、その音がするたびに葛西はそれを無理矢理目の当たりにさせられている。夏衣は自分の体より少し大きめの制服を着て、家では普段から体の線が出難い着物を纏って過ごしている。それに意味など殆ど見出すことが出来なかったから、葛西はそれがただの白鳥に伝わる慣習の一種だと考えていた。しかし夏衣の場合はどうもそれだけではないらしいと、気付いたのは最近のことだった。夏衣のそれは、自身では守ることの出来ない細い体を、余計に外に露呈しないためのひとつの手段だったに違いない。考えれば考えるほど深みに嵌まる。心地良いそこで、溺れかけている酸素の足りないぼんやりとした感傷に時々囚われる。夏衣の存在はきっとそういうものの積み重ねで出来ているに違いない、出来ていたに違いない。そっと唇を離すとふたりの間に唾液の透明な糸が繋がって現れて、すぐに消えて無くなってしまう。夏衣の唇は何の味もしなかった。ただ人間の皮膚というだけの感触で、それは葛西が経験してきた女の子のそれよりも、随分と飾り気の感じられないさっぱりとしたものだった。甘い果物のような匂いがしない代わりに、唇に妙な色が付着することもない。しかしそうやって一旦色付いた夏衣の唇は、何故かしら葛西の欲動を内側から撫でるだけの要因を兼ね備えていた。綺麗だと何度も思ったけれど、それは何度も唱えた事実だったけれど、夏衣の前で他の言葉は最早無意味にも思えた。狭い後部座席の中で夏衣が身動ぎし、はぁとその唇から深く息を漏らす。それだけで頭の中の神経が一斉に痺れて、目の前が白と赤でちかちかと点滅する。このまま見つめているときっと何処か可笑しくなってしまう、そんな危機意識すら抱かせる。けれどそれが齢15の夏衣が兼ね備えている雰囲気で、本当に良かったのかといわれたらどうなのか分からない。ぐっと体重をかけて夏衣の目の前に近付くと、夏衣は何も言わないで勿論それには抵抗しないで、むしろ少し唇を開いてそこから赤い舌をちらりと覗かせる。斜め下からそれを塞ぐと、夏衣が葛西の二の腕を掴んだ。それに力がかかったのが分かって、唇の角度を変える。食い込ませて欲しい指先、そうして皮膚の一部を削ぎ取られる空想に満たされる。そこに細胞を残したい、なんて異常な考えだろうか。
「ん・・・ぁ・・・」
「はぁ・・・」
熱に浮かされた甘い声が、葛西の耳元近くで酷く反響している。これが一体何なのか、これが一体何の延長で、一体何の結果なのか、そんなキスを繰り返している間にふたりとも良く分からなくなってくる。双眸を瞳孔までも開きながら、殆ど夢を見ているようだった。夏衣が懸命に葛西のそれに答えようとするのを見つけるたびに、ますます現実から突き放されている気がしていた。夏衣はこんな風に自分を欲しがったりするのだろうか、まだ自分の中に残っていた冷静な別の部分で葛西は考える。分からなかった。そんなことはどうでも良いと思っている自分と、それこそが本質だろうと探究している自分は綺麗に二分されている。切ないくらいに夏衣は、余りにも遠い存在だった。それは夏衣が白鳥の嫡男であるからとか、何か既存のものに例えられない美しさを備えていたからとか、きっとそんなことも理由の一部ではあるかもしれないが、夏衣のその深遠さはそれが全てではなかったように思う。こんなに近くで唇すら合わせているのに、何処か夏衣は遠くにおり、自分はその夏衣の幻想と唾液を交わらせることに無心になっているのではないか。有りもしない偶像が時々葛西の背中に張り付いて、それを剥ぎ取るために時々意図的に目を開いて、夏衣の姿を確認する。それが本当に近くにあるのだと、五感で感じていなければ不安だった。どうしてなのか自分でも良く分からない。我武者羅に求めても、何処か冷たい指先で払われている気がしてならなかった。その15の瞳が葛西以上に一体何を知っているのか、それにまだ届かない気がしている。このままでは一生、届かない気すらする。一層強く夏衣の舌を吸うと、後頭部に宛がった自分の手がガラスと擦れて妙な熱を持った。取り込みたい、夏衣をこのまま。ひとつになるということはどういうことなのか、溶け合うとはどういうことなのか。分からなくてそれが、葛西は泣き出したいほどの哀切と確実な私欲の中に居た。
後部座席に夏衣を横たわらせて、その白く筋の浮き出た首に吸い付く。左手をセーターとシャツの間から侵入させ、皮膚を間接的に撫でながら突起を探す。手のひらの下で熱を持った夏衣の体が、時折それに反応してびくりと震えた。許されているのだろうか、許されるのだろうか、分からない。それでも夏衣は葛西に止めろと言わなかった。それが容認なのかどうか、声に出して確かめられない。いざ止めろと言われたら、もうどうしようもなくて後は途方に暮れるだけだろう。その言葉を何処かで予想しながらも、一方ではそれが発せられるのをひたすら恐れていた。夏衣は葛西を制する権利があるし、またそれが正当のように思えた。触れた夏衣の敏感な部分は、固く尖って上を向いており、それに指を沿わせて何故か葛西は安堵していた。
「・・・ん、あ・・・」
夏衣の体が一層震える。
「ァ、ん・・・だめ・・・」
制止の声が耳を突く。慌てて葛西は夏衣の制服の中からずるりと手を抜いた。首から上が妙に熱くて、触れていた指先は自棄に冷たい。
「す、すいませ・・・―――」
ぼんやりした思考のまま葛西は頭を下げるのも忘れて、まだ無防備に後部座席に横たわっている夏衣に動揺を隠し切れないまま謝罪した。軽率なのは分かっていた。無論葛西の立場で夏衣にこんな風に触れて良い訳がなかった。一体何を許されているつもりだったのか、葛西は恥ずかしさにかっと頬を染める。そうして一体何故、そんなことを夏衣が自分に許すと思っていたのか。馬鹿馬鹿しい思い上がりに頭が痛い。そんなことは勿論、今更声に出して確認するべきことではない。おそらく双方がその唇を合わせた時から、了承済みだった事実だった。後のことは上手く考えられなかった。ただ視界に映る、暗い車内にぞんざいに横たわった夏衣の体が、妙な芳香を放っている気がしてならなかった。それは誰でもない男の欲求を直接的に揺さぶる微香だった。そうしてそれは何故か目にやたらと沁みる、痛々しいものだった。夏衣はそこに横たわったまま、目線は葛西ではなく違うほうを見ていた。それは何処か遠いところを。それこそが夏衣を徐々に現実感から遠ざけていることを、きっと夏衣自身も理解出来ていないのだろう。ぼんやりとした桃色の目が何も捉えないままに、濡れて光っている。
「違うよ、葛西」
「・・・え?」
「このままじゃ、駄目。制服汚したらばれるから・・・」
そうして夏衣は一度目を瞑った。
「全部脱がして」
横たわったままの夏衣の頬を、葛西は体を折ってそっと撫でた。そこが僅かに上気して見えるのは、きっと目の錯覚なのではないのだ。それを自覚した時、突然目の奥が熱くなって、葛西はもう一度鼻を啜った。嬉しいはずなのに何故か、葛西はそれに意味深な痛みを感じていた。拭い取られるはずだった不安の影は、徐々に大きくなって葛西を取り込もうと口を開けて待っている。目の奥がじくじくと痛んで、胸がずきずきと疼いていた。眉尻を下げて眉間に皺を寄せてもまだ、一向にそれはおさまる気配を見せない。そうすると夏衣がその下で、それを見ながら可笑しそうに目と口の形を歪めた。彼がそこで何を思って、一体何を許し、何を得ようとしているのか。葛西には分からなかった。どうしてなのか、本当は肩を揺さぶって聞きたかった。けれどそんな決意ともに掴んだ肩の頼りなさに、口の中がからからに乾いて呼吸の仕方をいずれ失うような気がした。何も聞いてはいけない気がした。夏衣の深遠さとはこういうところに、如実に表れた結果の縮図だったのかもしれない。葛西は使用人の身分で白鳥嫡男に強引とも思える手段で、それこそ涙を流して許しを請うような汚い術で、夏衣の唇を塞ぐことが出来たが、それ以上に夏衣の本質というものに、出会ったあの日から一向に迫れていない気がして、気持ちばかりが急いていた。あの時眩しいから扉を閉めろと、無表情で言い放った夏衣がぼやけて、しかしまだ葛西の中にそれとして残っているのが良い証拠である。自分はあの日のあの暗い部屋から、一歩も動けていないような気がしてならないのだった。
「嫌じゃないですか、夏衣様」
「どうして」
「嫌なことはしないで下さい、我慢もしないで下さい。俺は貴方が嫌なことをしたいとは思いません」
ぽたりと葛西の涙が夏衣の頬に落ちて、そこを滑った。まるで夏衣のほうが泣いているように、それは不思議に見えた。夏衣は表情を和らげたまま、そこでぼたぼた涙を落としている葛西の目尻をそっと拭った。慰めるつもりのそれに、葛西は一層眉を寄せて、悲痛な表情を浮かべる。一度も聞いて貰ったことがない。夏衣の意思を無視して回りは勝手に動いていた、いつも。その影には勿論、別の人間の夏衣よりも優先されるべき意図が介入されていたのは間違いない。夏衣はいつも見えないそれに振り回されないように真ん中に立っていた。今はどうなのだろう、今は何処に立っているのだろう。それは他の誰かの意思や言葉だったのだろうか。
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