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『親愛』

(え、ここで合ってる……? 店の名前、いくら検索しても出てこない)  楠戸さんから指定された住所は、駄菓子屋と同じC区内だった。しかし、店名がマップのどこにも載っていない。会員制の店はよく名前非公開だなんて聞くけど、まさかそんなはず……。  ようやく見つけたドアには、旧仮名遣いで書かれた小さな看板があるだけ。三回ノックすると、扉が開いてスタッフが僕の名前を尋ねてきた。素直に名乗ると、薄暗い廊下へと案内される。  間接照明の仄かな灯りを頼りに歩いていくと、突然視界が開けて高級感のあるカウンターが現れた。そこには既に楠戸さんが座っている。彼の他には客の姿が見えない。もしかして……貸切?  「よう来てくれはりましたな。地図にも載ってへんから分からんかったやろ」 「そうなんです、だいぶ迷いました。お店のご予約、本当にありがとうございます!」  スタッフの人が引いてくれた椅子に腰掛けると、鉄板の熱気が頬を撫でた。 「ここな、ウチが贔屓にしてる鉄板焼き屋やねん。他所で飯食うと色々面倒やから、誰かと会食言うたら大体ここにしてまんねや」  鉄板の向こうのシェフが、わざわざテーブルに手をついて深々と礼をした。一流店になると、スタッフの人の礼儀まで全然違うんだ……! 「楠組の皆様には、先代から本当に良くしていただいております。御連れ様は何かご希望ございますか」 (楠組……? そういえば駄菓子屋の事務所にそんな看板があった気がする。本社の社名って言ってたような)  スタッフの洗練された所作に圧倒されつつ、僕は精一杯背筋を伸ばした。周りを見渡してみても、メニューらしきものは見当たらない。 「城代クン、食いたいもんある? 肉なら何でも用意してくれる思うけど」 「え……っと、あの、楠戸さんのおすすめとか、お願いできますか? 僕、お恥ずかしながらこういう店は初めてで……」 「ほなら一緒に神戸牛食おか? これがいっちゃん美味いねんで」  小さく頷くと、シェフが黙って準備に取り掛かる。空間に流れる重い沈黙を破ろうと、僕は百瀬さんのアドバイスを思い出し、彼の方を向いた。 「あ、あの。神戸で思い出したんですが、楠戸さんってご出身はどちらなんですか?」 「んー? 僕は大阪だす。昔『オヤジ』と喧嘩して、家出同然でこっちに出て来ましてん。そんでふらふらしとったら東京で拾てもろて、そっからずぅっとこっちやで」 「……大変だったんですね。すみません、軽率に聞いてしまって」  いきなりまずい話題を振ってしまった。何とかして流れを変えようと無い知恵を絞っていると、彼は意にも介さずそのまま話を続けてくる。 「そういう城代クンはどこ出身なん?」 「え、あの、僕は東北です。大学もそっちでした。就職を機に東京に住み始めたので、ようやく慣れてきたかなといったところで……」 「へえ、東北! そっちの人って、肌が吸い付くようにやらかいらしいやんか。気になるわあ」  は、肌……? その観点で東北人を観察したことがなかった。答えに窮していると、そっとテーブルに瓶ビールが置かれた。ビールを注ぐ作法をマナー本で必死に学んだから、これは大丈夫だ! 「あの、楠戸さん! 是非僕にお酌させてください」 「ほんま? 嬉しいやんか、頼もかな」 (ラベルを上にして、瓶は右手で持って……)  失礼のないように、慎重にビールを注ぐ。しかし、出来上がったのは黄金色ばかりで泡のほとんどない、なんとも不格好なグラスだった。注ぎ終えて瓶を置くと、楠戸さんがにぃ、と笑う。 「君、お酌ヘッタクソやなあ! なんや、先輩とかに教えてもらわれへんかったんか」  ──終わった。全てバレている。真っ青になった僕の顔を見て、楠戸さんの口の角度がさらに上がる。 「ウチの若い衆でも、もちっとマシやで。どれ、貸してみい。僕が教えたるから。こうやって肩入れてな……」  慌ててグラスを両手で掴み、お酌を受ける。確かに彼の所作には全く無駄がなく、流れるように白い泡が立っていく。 「僕がやったように注ぐんやで。まあ、こんくらいなら大体のおッさんは文句言わんのちゃう」 「本当に申し訳ございません……僕、社会人失格です。きちんと勉強します」 「自分、まだ二十三とかなんやろ? これからぎょうさん失敗したらええやん。僕が面倒見たるから」  項垂れる僕を柔らかく包み込むように、楠戸さんが情味のある笑顔を浮かべている。 (僕の失敗も笑って許してくれた……なんていい人なんだろう)  彼の懐の深さに心を奪われたかのように、横顔を見つめたまましばらく黙っていた。すると、会話の切れ目を縫って、小さな皿がそっと置かれた。どうやら前菜が完成したようだ。 「ほんならゆっくり食うてや。乾杯」 「……はい!」  グラスがそっと触れる。一度に中身を全て飲み干して、すぐまた自分の分を注ぎ足した。 「えらい飲むん早いな。城代クンは酒強いんか」 「いや、そこそこなんですが……早くお酌が上手くなりたくて、自分の分で練習しようと思って」 「へえ……熱心やなア」  楠戸さんの声のトーンが、ふっと一段低くなった。 「そういう可愛げがあるとこ──僕、好きやで」  ビール瓶を持ったまま彼の顔を見つめる。まるで告白でもされているかのような気分になってきて、とっさに視線を逸らした。楠戸さんは目を細めて笑うだけで、その瞳の奥に何を見ているかまでは、読めなかった。  練習も兼ねて杯を重ねると、あっという間に酔いが回る。さすがに理性を全て溶かすほどは飲んでいないけれど、気を抜いたら締まりのない顔で笑ってしまう。楠戸さんは瓶を何本空けても、その端正な顔立ちが乱れることはなかった。 「おっ、城代クン見てみい。メインの神戸牛やで」  鉄板の上で、見事なサシの入った神戸牛が踊っている。芳醇な脂の香りが立ち込め、それだけで何度生唾を飲み込んだか分からない。 「大変お待たせいたしました。まずはそのままでお召し上がりください」  差し出された肉を口に運んだ瞬間、驚くほど軽やかに脂が弾け、舌の上で消えた。 「……っ、楠戸さん! これ、美味しすぎます……! こんなの、初めて食べました!」  あまりの幸福感に、自然と顔が綻ぶ。素材と焼き方が違うだけで、こうも味が変わるものなのか。 「自分、ほんま美味そうに食うな〜。見てるこっちまで幸せな気ぃするわ。餌喜んで食うてる犬コロみたいやんか」  楠戸さんは自分の分にはほとんど手を付けず、笑顔で肉を頬張る僕を、満足げに眺めている。気づくと楠戸さんの瞳の仄暗さは影を潜め、いつも通り人の好さそうな笑顔を浮かべていた。  やがて食事が一段落して、残ったビールを二人でちびちびと飲んでいた。僕はだいぶ酔いの回った頭と舌足らずな言葉で、改めて楠戸さんに感謝を伝えた。 「今日は本当に……ありがとうございました。ぼく、もっともっと頑張って、楠戸さんのご期待に応えられるような担当になります!」  笑顔で熱く語る僕を、楠戸さんはふっと目を細めて見つめた。その瞳が、先ほどよりも暗く、深い色を帯びる。 「期待に応えてくれるっちゅうんは、『こっち』もかいな?」  楠戸さんの指先が、僕の頬に触れる。 肌を撫でる手つきは、僕の知る『信頼』の範疇を遥かに超えていた。言葉の意味を咀嚼し切れず、呼吸も忘れて黙り込む。 「僕な、別に駄菓子なんかどうでもええねん。君とこうして二人っきりで話がしとうてしゃあなかったもんやから。他に人間おったら、キスのひとつもでけへんやないか」  あまりに直接的な「種明かし」に、頭が真っ白になった。口の中に残っていた神戸牛の甘みが、急に現実味のないものに変わっていく。 「あ、あの……それは、どういう……」  混乱して、傍に置いてあったビール瓶に手が当たった。ガシャン、と派手な音がして、僕の太腿に大きな染みが広がる。 「あ! す、すみません! すぐに拭きます!」  慌ててナプキンを手に取ろうとした僕の手を、楠戸さんの大きな手が遮った。 「ええよぉ、僕がやったげる」 「いっ、いえ! とんでもないです、楠戸さんにそんなこと……っ」  彼は椅子の位置を詰め、僕の膝の間に自分の足を割り込ませるようにして踏み込んできた。そして、濡れた太腿にナプキンを押し当てる。布越しに、彼の掌の熱が伝わってきた。ゆっくりと、執拗に、それは付け根に近い部分まで這い上がってくる。 「あ……っ」  反射的に体を強ばらせた僕の耳元で、楠戸さんの湿った声が響いた。 「城代クン。自分、まさか飯食うて終わりや思うてへんよな? 僕、このまま帰りたないねん。君のカダラ(身体)、ちょおだいな」  ナプキン越しに太股を強く掴まれる。ぞっと背筋に冷たいものが走った。助けを求めるように鉄板の向こうへ視線を送るが、そこにはもう、誰もいない。いつの間にか、この狭い空間は、僕と楠戸さんの二人きりになっていた。 「場所、変えよか。ここやと、これ以上の『親睦』は深められへんしなア」  肩に回された腕に力がこもる。楠戸さんの瞳は、もう笑っていなかった。ただ、暗く歪んだ情欲だけがそこにあった。  僕がビールを零してしまってから、場の空気が目に見えて重く、澱んだものになった。何を話せばいいかも分からず、濡れて張り付くスラックスの不快感にじっと耐える。 「城代クン、送ってくで」  食事を終えて店を出ると、闇に溶け込むような黒塗りの車が停められていた。片岡さんが車のドアをそっと開けて、僕たちの乗車を黙って待っている。そういえば彼は、今までどこにいたんだろう。 「と、とんでもない、です。僕、駅まで歩いて帰りますから……」 「遠慮せんと乗っていきや」  楠戸さんが僕の肩をぽん、と叩いた。指先に力が込められていて、無言の圧を嫌でも感じ取ってしまう。小さな声で返事をして、そのまま車に乗り込んだ。  楠戸さんは、車のドアが閉まった瞬間に僕の肩を抱き寄せた。すぐ横を向けば、ぞっとするような美しい顔がそばにある。煙草と白檀の混ざったような香水の香りが、僕の周りを包んだ。 (これ、どうしたら良いんだろう……会社に報告? でも、もうこの時間は誰も残っていないだろうし……)  頭の中に『性接待』の三文字がじわじわと浮かんでは消える。けれど、目の前の楠戸さんは変わらず優しく、そして恐ろしいほどの色香を纏っていた。 (ま、まだ『そう』だと決まったわけじゃない。それに、楠戸さんは僕に無理矢理そんなことをする人じゃないはず)  走馬灯のように、初めて課長から顧客リストをもらった日のことが思い出される。そうだ、僕は期待されてこの人の担当になったんだ。彼の信頼を損ねるようなことがあったら、僕の評価はどうなる──? 「城代ク〜ン、こっち向いてよ〜。寂しいやんか」  頬をくすぐる、苦くて熱い吐息。彼の瞳に射すくめられ、身動きが取れない。バックミラーをちらりと窺っても、片岡さんは我関せずといった調子で運転を続けている。まるで誰かと示し合わせているかのように、一瞥もしてくれなかった。  楠戸さんの指が、また僕の頬を這う。耳の付け根から顎にかけて、何度も、何度も、執拗に。逃げ場のない愛撫に、思わず湿った吐息が零れてしまった。 「なあ、緊張しとるんか? かいらしいやん、こういうコト初めて?」 「こ、こういうって、どういう……」 「決まっとうやろ。わざわざ言わすなんて、いけずやなあ。僕、さっきちゃあんと言いましたがな」  襟元を冷たい手で撫でられるようにぞっとした。すっかり回ったアルコールが、視界をぐらぐらと揺らしている。膝の上で握りしめた拳は、さっきからずっと震えたままだ。 「それともなに、はっきり言うてほしい?」  無意識のうちに、彼の方を向いていた。艶然とほほえむ彼の顔から目が離せない。暗闇の中で、楠戸さんの瞳だけが怪しく、薄く光を放っている。 (──吸い込まれる)  そう思った瞬間、いきなり楠戸さんが僕の唇に噛みついた。衝撃に目を見開く間もなく、口内をめちゃくちゃに蹂躙される。脳に水音が響き、煙草の香りが鼻の奥を鋭く突き刺した。壊れそうなほどうるさい心臓の音は、すっかり楠戸さんにバレているだろう。この胸騒ぎは、一体何なのだろうか?  確信として胸に迫ってくる漢字三文字を必死に打ち消した。僕が知らないだけで、楠戸さんなりに『親愛』の情を示してくれているはず。ここで彼の手を振り払うことは、厚意に泥を塗ることと同義なんじゃないか?  目の前の綺麗な顔が、僕のことを愛おしそうに見つめている。 「自分、そないな顔したらあかんやろ。僕の前だけにしとき」  かさついた親指が、手荒く僕の唇をなぞった。酔っておかしくなった頭が、「楠戸さんなら大丈夫」と囁いてきた。何が大丈夫なのか、僕はこれから何をされるのか。一寸先のことも分からないまま、気づくと彼の仕立ての良いスーツの裾を掴んでいた。 「楠戸さん」 「んー? どないしたん」 「僕……どうしたら期待に応えられますか。できることなら、やります……なんでも」  楠戸さんの口元が、にぃ、と歪に吊り上がった。彼は僕の顎をくいと持ち上げて、宣告するように囁いた。 「健気なワンちゃんやなあ。なんでもっちゅうからには、一肌脱いどくんなはれ」

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