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第3話 閉ざされた風

 ルシェの声は、少し掠れた、長く使われていない楽器の音のようだった。  白い手に促され、ソファに腰を落とす。  普段はまったく使われていないのか、わずかに埃の匂いがした。 「飲み物でも、お出しできれば良かったのですが」 「いえ。ご挨拶の機会を頂けただけで、光栄に思います」  レオンハルトはそう返してから、あらためてルシェの容姿を密かに観察した。  病的ではないものの、血の気の薄い白い肌。背は成人男性にしてはやや小柄で、レオンハルトの肩に届くかどうかだ。肩幅は狭く、白いシャツから覗く鎖骨は浮き出ていた。  レオンハルトに続き、ルシェも対面のソファに腰を落とす。  ルシェの所作には気品があるが、どこか違和感もあった。  しばらく観察したレオンハルトは、無駄な動作が極端に削がれていることに気づいた。音もなく、それを無意識に行っている。 「我が国との、国交を考えて頂いているとのこと。……とても嬉しく思います」  ルシェの、わずかに息切れした声が耳に届く。  レオンハルトは符合した事実を悟り、一瞬だけ動きを止めた。  少しの会話だけで息が上がる小さな声も、華奢な骨格も、日光に弱そうな肌も、動きの少ない所作も、すべて、長い幽閉生活がもたらしたものだ。 (……二十年、ここで暮らしているのか)  この部屋は広いが、快適とは程遠い。いや、どんなに快適な部屋であっても、出られないのならそれは牢獄と同じだ。  レオンハルトの視線の動きに気づいたルシェが、紅紫色の瞳をわずかに伏せた。 「……そんなに、不便でもないのです」  長いまつ毛に縁取られた瞳が、ゆっくりと瞬きをし、窓へと向いた。 「朝は、あちらから、夕方は、あちらの窓から、陽が入ります」  レオンハルトはルシェの視線を追った。  確かに、部屋の左右の壁にはそれぞれ大きな窓が三つ配置されているが、その全てが採光だけを目的とした飾り窓だ。 「生活に必要な物も、揃っています」  そう語るルシェの声音は、やけに平坦だった。  まるで、あらかじめその言葉を用意していたかのように。 (不便ではない、だと? かろうじて届くほどの声しか出せぬ身で――)  理解できないという思いが、レオンハルトの胸の奥に残った。 「風は浴びないのですか」  気づいたら、そう問うていた。  ルシェが、わずかに目を見張る。 「……風、ですか」 「ええ。その窓は開かないでしょう」 「……通気口も、あるのですよ。目立ちませんが、天井近くに――」 「そんなものより、外に出た方が早い」  勢いで出た言葉を、レオンハルトは取り消さなかった。  ルシェの表情に、はっきりとした動揺が走る。  そんなことは考えたこともなかったとでも言うように、彼の瞳が揺れた。それは、彼の中にある固定観念が、どういう形で積み上げられてきたのかを物語っていた。 「……私が……外に?」  視界の端で、クレインが動いた。 「ヘルダー殿、余計なことは言わないで頂きたい」 「余計なこと? 病弱であるのならなおさら、外の空気に触れるべきだと思いますが」  レオンハルトが視線を向けると、クレインは苦々しい顔で口を開いた。 「……内政干渉と捉えてよろしいのか」 「そう思いたいのなら思えばいい」  越権行為であろうとも、レオンハルトは言葉を止める気はなかった。  だが――。 「ヘルダー伯爵」  ルシェの表情からは、すでに動揺は消えていた。  元の、なんの感情も映さない顔で、彼は静かに立ち上がった。 「とても楽しい時間でした」  言葉とこれほど乖離した表情を、レオンハルトは見たことがない。 (――ああ、こうやって『遮断』されてきたのか)  ルシェに倣ってソファから離れつつも、レオンハルトは、引き下がったはずの感情が、まだ片づいていないことに気づいた。  レオンハルトはルシェに向き直ると、彼の紅紫色の瞳を見つめながら、片膝を着いた。 「……次にお会いする時は、今日よりも、ゆっくりと」 「ええ、ぜひ」  形式的に返したルシェに、レオンハルトは立ち上がり、一礼をした。  この約束は、いつ果たされるのか。  だが、今度はそれを長く待つつもりは、レオンハルトにはなかった。  ◇ ◇ ◇  馬車へと戻ってきたレオンハルトの険しい表情を見て、従者――カイはわずかに眉を動かした。  レオンハルトの腰に剣帯を付け直してから姿勢を正し、こちらを見つめるクレインに深く頭を下げたあと、主人の行動を待つ。  無言で馬車に乗り込んだレオンハルトに続き、彼の対面に腰を落としてから、御者に合図を送った。  馬車が動き出してしばらくすると、レオンハルトは小さく息を吐いた。 「――どこまでわかった」  その言葉の意図するところを熟知しているカイは、すぐに口を開いた。 「陛下が塔に向かわれたあと、私の周囲では特に変わった動きはありませんでした。塔の周辺も同様との報告を受けております。小屋には、陛下の前に姿を見せた男のほかに三人。おそらく、ひとりは交代の護衛、もうひとりは使用人かと」 「そうか」  従者の口から淀みなく出た報告に、レオンハルトは頷きひとつ返した。  カイもまた、レオンハルトと同じく名と身分を偽り入国している。  表向きは、レオン・ヘルダーの従者カイ。  だが本国では、王太子時代から彼に仕える側近――グレン・ファロスという名を持つ。  ルシェとの面会が滞ったことを訝しんだレオンハルトは、王太子の周辺を探るよう命じていた。今日実際に塔の異様な現状を目の当たりにして、それは正しかったのだと実感する。 「王室の動きについては、陛下にお伝えしている以上の情報はまだありません。おおむね視察団の来訪を歓迎し、交易が行われることを期待している様子です」  レオンハルトの視線がちらりと後方へと送られる。  去っていく塔のことか、背後につくクレインの馬車のことか。カイ――グレンは一瞬だけ思案してから、口を開いた。 「陛下のご推察通り、面会の要望を止めていたのはクレイン殿下でした」 「だろうな。……他には?」  わずかに視線を動かしたグレンが、「そういえば」と言葉を発した。 「王太子と直接関わりがあるかはわかりませんが、神殿の動きがまるでないことが、やや不自然かと」 「神殿……オルディア神教だったか。確かに晩餐会にも宗教関係者の姿は見えなかったな」 「はい。王都に建つ大聖堂の規模からして、ある程度の影響力はありそうなものですが、少なくとも、表向きは政治から距離を置いているように見えます」  政治と宗教が絡むと、碌なことがない。  それはレオンハルトが自身、痛感していることだった。 「それならそれで好都合だ」  頷いたレオンハルトが、顎に手を当てて何かを思案する。 「……しかし、鉱石や紡績だけでは、まだ弱いな」  レオンハルトは呟くと、車室の座席に背を預けた。  第一王子のことも気になるが、交易についても、真剣に考えなければならない。 「試算には目を通したが、あれではヴィレシャル山脈を開拓する資金は到底得られまい」  ヴィレシャル山脈は、大陸の北寄りに位置する広大な山脈だ。  ヴァルテア王国の管理下に置かれているが、防衛拠点としての整備がわずかにされているだけで、ほぼ手付かずとなっている。 「交易路と軍備を同時に進めるにしても、あれではいらぬ刺激を周辺各国に与えるだけだ」 「おっしゃる通りかと」  諜報活動にも長けているグレンは、短い言葉で同意する。  それと同時に、事前にレオンハルトがいくつか思案していた交易案を、脳内で再度組み立てた。 「我が国の北西、ローディアの西に位置するアモル公国を経由する案も、今の段階では実現性は薄いでしょう」  アモル公国とは国交を結んで長いが、だからこそ、彼らは未だ強国と繋がりのないローディア王国を牽制している節がある。 「北の貴族の中には、アモルとの交易で身を肥やしている者も多い」  グレンはそう言ってから、私情を挟んだ物言いをしてしまったことを、咳払いひとつで誤魔化した。 「……どちらにせよ、すんなりと承認は降りないでしょうね」 「となると、やはり海路か」 「ヨハ王国からも、かねてより海路での交易を求められております」  レオンハルトは腕を組んだ。  ヨハ王国は、ローディア王国の東に位置する小国だ。レオンハルトの曾祖父が、当時のヨハ国王の姉を王妃に迎え入れた経緯から、ヴァルテアとは国同士の結びつきが深い。  また、ヨハ王国内でしか採れない果実を用いた果実酒は、古くからヴァルテアの人々に愛されている。長年東の陸路を使い交易が行われていたが、隣国での内戦の余波で、安全面で不安の声が上がっていた。 「ローディアに寄港を整備する、か。まずはその方面から攻めてみよう」 「急ぎ本国に連絡し、ヨハ王国に使者を送らせます」 「ああ」  レオンハルトは頷くと、座席に深く腰掛けた。  彼の意に沿う返事をしておきながら、グレンは頭に湧いた疑念をつい口に出した。 「この国と本気で国交を結ぶおつもりですか」  レオンハルトの目が、グレンに向けられる。  グレンは、レオンハルトの灰青色の瞳を見つめ返した。 「そのつもりだ」  少しの前を置いて、レオンハルトは答えた。  なぜ、とグレンは問わなかった。  レオンハルト自身、その答えをまだ得られていないように見えたからだ。  馬車が森を抜けた。  王都の喧騒が戻る中、グレンは、去っていく森を視界に捕らえながら言った。 「……どのようなお方でしたか」  レオンハルトは、組んでいた腕を解くと、遠くを見るように目を細めた。 「静かな人だったよ」  それだけ言うと、レオンハルトは目を閉じた。  眠ったのか、いや、まだ何かを思案しているのだろう。 (この人は昔から、常に考えることを怠らない)  そんな彼だからこそ、グレンは、国ではなく彼自身に忠誠を誓うことを決めたのだ。 「陛下の素性を怪しむ者はまだおりませんが、どうか油断はなさらぬように」  レオンハルトの瞼がわずかに動く。  数秒の沈黙のあと、「お前も気をつけろよ」と発した彼に、グレンは少しだけ口許を緩め、だがすぐに、忠実なる臣下の顔へと戻った。  ◇ ◇ ◇  王都ルフリナにある『白兎の枝』は、国で最も古い歴史を持つ高級宿だ。  使節団のために貸し切りとなったこの宿の一室で、レオンハルトは意外な人物の来訪を受けた。 「再び灰白の塔に行くという話は本当か」  クレインは、部屋に入るなり開口一番にそう言った。 「しかも定期的な面談が叶わなければ、国交の件を白紙に戻すだと?」  クレインにソファへ座るよう促すが、彼は首を振って拒絶すると、レオンハルトに詰め寄った。  控えていたグレンが一歩前に出る。  それを視線で制し、レオンハルトは棚からグラスと瓶を手に取った。 「この国の蜂蜜酒は香りが良い」  グラスを差し出すが断られ、レオンハルトは自分のグラスにだけ蜂蜜酒を注ぐと、一口飲んだ。 「この味は私の国でも喜ばれそうだ」 「そんな話をしに来たのではない。二度目の面談――まして定期的になど、許されないことだ」  レオンハルトは、グレンに部屋から出るよう目で指示した。  一礼したグレンが部屋から去る。  二人だけになると、クレインは苛立たしげにソファへと腰を落とした。 「あれで終わりのはずだ」 「そのような取り決めをした覚えはありません。それに、王太子殿下について、クレイン殿下の許可が必要とは窺っておりませんが」 「私以外に、誰が許可を出すというのだ」 「陛下は、快く許可してくださいましたよ」 「なんだと!?」  歯軋りの音が聞こえた。  クレインにとって、国王が許可したことは想定外のようだ。  ルシェとの面会が叶った日、レオンハルトはローディア国王への謁見を申し出た。それはすぐに受け入れられ、翌朝の謁見で、レオンハルトは第一王子と自由に面談する権利を得たのだった。 (国王は、むしろ王太子を差し出すような口ぶりだったが……)  長らく秘匿していたことを考えれば、クレインのように隠そうとするのが正常だろう。  元々国王とクレインとは考え方に相違があったのか、国王が考えを変えたのかはわからないが、すんなり許可を得られたことは、レオンハルトにとっては僥倖だった。  改めてグラスを差し出す。クレインがそれを受け取ったのを見て、レオンハルトは蜂蜜酒を注いだ。 「言うまでもないことですが、王太子殿下に危害を加えるつもりはありません」 「そういう意味で貴公を疑っているのではない」  クレインはそう言うと、蜂蜜酒を一気に呷った。 「……病が原因でないことは、貴公も気づいているだろう」  レオンハルトは答えず、ソファに腰を落とした。  深く息を吐いたクレインが、小さく首を左右に振る。 「王太子は病ではなく、強すぎるオメガ性ゆえに、あそこから出られないのだ」  レオンハルトはグラスをテーブルに置くと、次の言葉を待った。 「ベータの貴公でも、オメガフェロモンの匂いがどんなものかはわかるな?」 「……多少は」 「であれば、王太子と会った時にわずかに感じただろう」  頷きを返すと、クレインは息を吐いた。 「あれは本人の意思に関係なく、常に垂れ流されている」  クレインは、グラスの口を親指でなぞった。  常に、と聞き、レオンハルトはわずかに顔色を変えた。 (もしや、制御できないのか?)  制御していても、フェロモンが漏れることはある。  ルシェと出会った時に嗅いだ香りは、発情期の名残か、感情の揺れでそうなったのかとレオンハルトは思っていた。それでも濃すぎる香りであることは間違いないが、クレインの言葉通りなら、ひとつの疑念が浮かび上がる。 (王族のオメガが、フェロモンの訓練を受けていない?)  オメガであれアルファであれ、フェロモンは訓練をすれば、ある程度は制御できる。薬でも制御できるが、体質によって効き目が左右される薬より、訓練で基盤そのものを作り上げた方が確実だ。  少なくとも、レオンハルトはそう教育を受けて育った。事実、彼はアルファフェロモンを抑制剤なしで完全に抑えることができるし、他者のバース性を匂いで判断することもできる。  そして、オメガフェロモンに対する耐性訓練は、王族のアルファであるレオンハルトにとって、欠かせないことだった。  そう信じていたから、時に気が狂いそうになる訓練にも耐え抜いたのだ。それが、王族のアルファに生まれた者の、宿命だと。 (この国特有の事情でもあるのか……?)  答えを得るには、あまりにも情報が足りない。  レオンハルトはクレインを見た。  彼はアルファであることを隠していない。バース性を隠さないのは不思議ではないし、レオンハルトも通常はそうしている。特にアルファであることは、優位性にも繋がるからだ。  だが、バース性を開示することと、フェロモンを抑えないことは違う。 (この国の者が、バース性を判断できるほどのフェロモンを漂わせているのは、単に俺を侮っているか、ある種の圧かと思っていたが……)    もしかしたら、制御方法そのものを知らないのかもしれない。  だとすると、ルシェが幼い頃から塔に幽閉されているのもある意味納得できる。制御できないのなら、伴侶を得るまで隔離しアルファと会わせないのが、オメガにとって一番安全だからだ。 (……だが、あの王子は確か二十三歳。あれほどの強いバース性を薬で抑え続けるより、早々に伴侶を得たほうが、本人にとっても楽なはずだが)  アルファがオメガの首を噛み唯一の伴侶になった瞬間、オメガフェロモンはその伴侶にのみ効果を発するようになる。代償としてオメガは伴侶相手にしか性交できなくなるが、王族のオメガなら、滅多な事由がない限り、離縁されることはないはずだ。 (あの歳で伴侶を得ず、幽閉され続ける理由。嫁ぎ先を吟味しているだけか、それとも――) 「これ以上、王太子に悪影響を与えないでくれ」  思考の海を漂っていたレオンハルトは、クレインの言葉にそこから抜け出した。 「会って話をすることが悪影響とは……随分な物言いでは」 「外に出ろなどと。本気にしたらどうなる」 「出れば良いでしょう。あの森は深い。少し散策したところで、問題が起こるとは思えません」  クレインが、怒気を滲ませた目でレオンハルトを睨んだ。 「一度森の空気を知れば、常にそれが恋しくなる。そして今度は森の外へと行きたくなる。街へ、見知らぬ場所へと、際限がないではないか」 「素晴らしいことです。塔に閉じ込められるよりずっといい。必要であれば私が――」 「あれはあそこに居続けなければならないのだ!」  クレインがグラスをテーブルに叩きつけた。  グラスを握るクレインの手は、怒りからか、震えていた。 「それが兄上にとって一番幸せなはず……」  小声でクレインは呟き、深呼吸をすると、立ち上がった。 「陛下が認めた以上、俺には貴公を止めることはできない。だが――」  クレインは言葉を切ると、横目でレオンハルトを睨んだ。 「……貴公が王太子に危害を加えないと言ったこと、私にその認識を改めさせるなよ」  去り際にそう言い残し、クレインは部屋を出ていった。 「危害など加えるものか」  残った蜂蜜酒を飲み干してから、レオンハルトは呟いた。  知る必要がある。  この国のこと、クレイン、王族たち、そして――。  彼の姿が脳裏に浮かぶ。  レオンハルトは、部屋に戻ったグレンに、すぐに灰白の塔へ向かう準備を進めるよう伝えた。

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