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第4話 明日という約束
扉が閉まった瞬間、フェロモンとは別の香りが鼻先をかすめ、レオンハルトは一瞬、足を止めた。
以前までは感じなかったそれが、何の匂いかわからないまま、レオンハルトはソファへと腰を落とした。座った時に埃が漂うことはもうなかった。心なしか、座面も体に馴染んできたように思う。
レオンハルトは、部屋の片隅へと視線を向けた。
そこに、これまでなかった小さな棚と茶器が置かれているのを見て、瞬きをひとつする。
その棚にルシェが近づき、茶器を手に取った。手つきはぎこちなく、順序も覚束ない様子だが、ひとつひとつの動きを確認するような丁寧な仕草で、お茶を淹れている。
静寂な空間に陶器のぶつかる音が響き、時折それが大きく耳に残ったが、それすらどこか心地よく聞こえ、レオンハルトは呼吸を緩めた。
ルシェは長い時間をかけてお茶を淹れると、それを慎重にテーブルへと運んだ。ひとり分のカップをレオンハルトの前へ置いてから、ソファへと座る。
「貴方の分は……?」
レオンハルトが思わず尋ねると、ルシェは質問の意味がわからないのか、目を瞬かせた。それから、不意に視線を逸らして俯く。
「申し訳ありません……ひとり分だけ出すのは、不調法でしたか」
(ああ……そうか)
レオンハルトは口許を緩め、立ち上がった。
「貴方の分は、私が淹れても?」
「いえ、客人に、そのようなことは……」
「いいではないですか。実は私も、自分で茶を淹れる経験には乏しいのです。貴方に倣って、淹れさせてください」
わずかに緊張が解けた様子のルシェに、レオンハルトは頷きを返す。
レオンハルトは茶器に手を伸ばしながら、この部屋でこうしている自分に違和感を覚えたものの、それについては敢えて深く考えなかった。
◇ ◇ ◇
「ヴァルテアでは、紅茶よりも珈琲の方が親しまれているのですよ」
紅茶に口をつけながら言うと、ルシェはわずかに首を傾げた。
「珈琲……ですか」
「ええ。お飲みになったことは?」
「……名前だけは、本で……」
見たことがあります、と、ルシェが消え入りそうな声で呟く。
ルシェとの会話は、レオンハルトが一方的に喋り、時折ルシェが言葉少なに返す、という形だった。初日の彼のほうが饒舌に思えるのは、あの時はおそらく、喋る内容をあらかじめ決めていたのだろう。
「王都でも出している店をいくつか見かけました。まだ馴染みは薄いようですが、多少は親しまれているようですね」
「そうですか……」
ルシェはほとんど表情を変えないが、会話を嫌っているようには見えなかった。こうした会話自体にまだ慣れず、お茶を淹れた時のように手探りなのかもしれない。
「温かい珈琲に蒸留酒を入れたものが、私は特に好きですね」
「珈琲に……蒸留酒……」
「おいしいですよ。体も温まりますから、寒い日など好んで飲みます。殿下はお酒をお飲みになりますか?」
「冬に……ホットワインを……」
「ああ、この国の冬は厳しいと聞きます。暖炉だけでは心許ないでしょう」
ルシェが不意に目を伏せた。
レオンハルトは何か引っかかり、室内を見回す。
(暖炉が――ないのか)
では、冬はどう過ごしているのか。
気になりながらも、レオンハルトはそれについては踏み込まなかった。今は言及してはいけない、そんな気がしたからだ。
「あの窓からは紅葉は見えますか?」
窓に視線を向けて問うてみると、ルシェはわずかに顔を上げ、頷いた。
「一部の葉が……染まります」
「それはさぞ美しいでしょうね」
ルシェは答えなかった。
同意しないというより、その景色について考えることを久しく忘れていた、とでもいうような雰囲気だった。
「ヴァルテアの気候は一年中穏やかです。まあ、味気ないと言う者もおりますが」
レオンハルトは紅茶で喉を潤すと、ふっと表情を緩めた。
「ヴィレシャル山脈の麓に大きな湖があるのですが、そこは唯一四季がはっきりとわかる場所で、雪景色や紅葉の水鏡が大層美しい」
レオンハルトはそう言いながら、ルシェを盗み見る。
紅紫色の瞳が、何かを想像するようにわずかに動いた。
「その景色を眺めながら飲む珈琲が、格別なのです」
ルシェの薄い唇がほんの少し動いたが、言葉は発せられなかった。
(……行ってみたい、とは言わないか)
落胆はしない。
ただ、どうすればもっとこの王太子から興味を得られるのか、そんな考えが胸中で首をもたげる。
「ヴィレシャル山脈の頂上にも、一度だけですが登ったことがあります。昔――私がまだ何も持っていなかった時に。あの時見た景色は、今も鮮明に思い出せる」
(……この人には、忘れられない景色や、思い出の場所はあるのだろうか)
しかしそれは、塔から出られない彼の慰みには、ならないかもしれない。
レオンハルトはふと、クレインの言葉を思い出した。
森を知ればその外を知りたくなる。確かにその通りだ。レオンハルト自身も、そうした思いがあったから、王太子時代には外遊を好んだ。
国王になった今、山頂の景色を見る機会は二度と訪れないだろうが、絶対に叶わない話でもない。
レオンハルトは紅茶を飲むと、息をついた。
「ああ、そういえば山頂で、ホットワインを飲みました。山小屋の管理人が、良い蜂蜜を仕入れてくれましてね」
頭の中で次の話題を探しながら、言葉を紡ぐ。
自分も手探り状態だなと、レオンハルトは思った。
「今思えば、あの蜂蜜は貴国の物だったかもしれません。同じ香りを、蜂蜜酒を飲んだ時に感じました」
「ホーリークローバー……」
ぼそりとルシェが呟く。
「ああ、それです。この国の特産品だとか。交易目録の中には入っていないようですが、広く流通するには数が少なすぎるのでしょうか」
「……南部の」
ルシェが、小さく息を吸ってから、口を開いた。
「南部の……イルーヴ公爵領の山で、育つのですが」
イルーヴという名前には覚えがあった。
確か、ルシェの母親の生家だ。
レオンハルトはルシェの表情を窺ったが、特に何かを思うような素振りは見られなかった。
ルシェは言葉を切り、また、呼吸を挟んだ。
「輸送が難しく、一部の場所でしか、養蜂ができないと」
「なるほど。確かにあの辺りは悪路が多いようですね。しかし殿下は塔にいながら、見聞を広く持っていらっしゃる」
「……私の知識は」
ルシェは言葉を切った。
俯きかけたルシェの動きを見て、レオンハルトが咄嗟に口を開ける。
「王太子殿下」
何を言うか考えるより先に、気づいたら呼んでいた。
「次の約束をいたしましょうか」
ほとんど無意識に、その言葉は紡がれていた。
顔を上げたルシェが、レオンハルトを見つめる。
「約束……?」
「ええ。次にお会いする約束です。殿下のご希望は?」
「……私は……貴方の求めに……応じるだけです」
「では明日、同じ時間に」
「明日……」
ルシェの瞳に、ほんのわずかだが、感情が乗る。
それが何か、レオンハルトは読み取ることができなかった。もしかしたら、光の反射が見せた錯覚かもしれない。
「明日は珈琲をお持ちいたしましょう。それから蒸留酒と蜂蜜も」
それでも、レオンハルトの胸に湧いた何かが、次の言葉を紡ぎ出す。
「珈琲は一度に多くは飲めませんから、明日は味を確かめて、その時にまた、次の約束をいたしましょう」
今はまだ、これでいい。
自分に言い聞かせるように、レオンハルトは心の中で呟いた。
◇ ◇ ◇
ガルドは、腰に提げた鍵束へと伸ばした手を、一瞬止めた。
彼の前に立つクレインが、眉を寄せて不満を露わにする。
「どうした」
「……本日も、確かめられるおつもりですか」
「当然だろう」
そう言ったクレインに、ガルドが小さく息を吐く。
ヘルダー伯爵が塔を訪れるようになってから、クレインは彼の来訪直後に必ず姿を見せるようになった。
「会話の内容でしたら、私からある程度のことはお伝えできます」
ヘルダー伯爵は、ローディア国王との間で「会談中は二人きりで」との約束を取り付けた。クレインはそれを許せず、だが覆すこともできないので、ガルドに扉の外に控えるよう命じた。
厚い鉄の扉はルシェの小さな声を掻き消したが、ヘルダー伯爵の言葉から、おおよそのことは推測することができる。
茶の話題、景色の話題。
鉄の扉越しに伝わってきた気配を思い出し、ガルドは少し口許を緩める。
最初の会話のきっかけとなった紅茶。
その茶器について、ルシェに進言したのはガルドだ。
ヘルダー伯爵が二度目に塔を訪れたあと、これから頻繁に訪れるなら、何かもてなした方が良いかと思ったのだ。
ルシェにそれを伝えると、彼は、初めてそれに思い至った、という顔で静かに頷いた。そんな彼から、「他にも必要な物があれば揃えて欲しい」との言葉が使用人を通して伝えられたのは、その翌日のことだ。
色のなかった彼の部屋は、少しずつ整えられている。その一助ができたことを、ガルドは誇りに思う。
「今回も問題はありませんでしたよ」
ガルドはそう言いながら、クレインの目的が、会話の内容を知るだけではないことも、わかっていた。だからこそ、鍵を渡すことを躊躇したのだ。
あの部屋――ルシェが作り上げようとしている新たな巣に、クレインを入れたくなかった。
「本日の王太子殿下は、いつも以上に長く会話をなさっていました。お疲れかと思いますので、ご訪問は控えて頂けた方がよろしいかと」
クレインの顔色が変わる。
「ただの護衛騎士風情が、俺に意見するのか」
「殿下に身分は遠く及びませんが、王太子殿下の盾でもありますれば」
「はっ、主人を貫く盾とは笑わせる」
心の中にある悔恨を暴かれ、ガルドは固まった。
「お前もレリウスも、本来ならあいつに指一本触れる権利などないことを忘れるな」
――貴方だって、その権利を有していないのに。
ガルドは、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
五年前――クレインがそれを目的に塔を訪れるようになった頃から、彼のルシェに対する執着は増していった。
次期国王となるであろう彼を咎められる者は誰もいない。現国王でさえ、クレインが持て余した熱を誰かにぶつけて孕ませるよりは良い、などと考えている。
(気持ち悪い)
醜悪な汚泥が、あちらこちらから、この塔を飲み込んでいる。
そして何より醜悪なのは、その汚泥にまみれながら、自分はそうではないと思いたがるこの心だ。
「ガルド、鍵を渡せ」
「――私が開けます」
ガルドは、クレインの前に立つと、歩き出した。
鍵を開け、塔の中へと入る。
静寂の塔に、二人の足音が響き渡った。
歩きながら、ガルドの脳裏に、先刻見たばかりのルシェの顔が浮かんだ。
ヘルダー伯爵を送り出す時、その背中を見つめる、彼の表情を。
何を思っているのかまでは、わからなかった。
ただ、わずかな、ほんとうにわずかな変化が、そこにはあった。
ルシェの部屋の前に立ったガルドは、深く息を吐き、最後の鍵を差し込んだ。
扉を開ける。
椅子に座っていたルシェが立ち上がり、こちらを見た。
(――クレイン殿下、貴方は、彼の表情に何も思わないのですか)
ガルドは唇を噛んだ。
(私は――あの表情を知ってしまった私は、彼にこんな顔をさせてしまう自分が許せない)
「兄上」
ガルドの体を押し退けるようにして、クレインが部屋へと入っていく。
その手がルシェの肩に触れるのを視界の端に捉えながら、ガルドは扉を閉めた。
そうしてガルドは、クレインが事を終え部屋から出てくるまでの長い時間、扉を背に、耳を塞いで蹲っていた。
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