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第5話 混ざり合うもの
翌日、レオンハルトは布に包んだ道具一式を携えて塔を訪れた。
中には、細口の金属製ケトル、小ぶりの陶器の抽出器、受け皿付きのカップが二組。それから、細身の保温瓶。
「それは……?」
卓に置かれたそれらを見て、ルシェが小さく首を傾げた。
「珈琲です。淹れ方をご存じないと聞きましたので」
保温瓶の栓を外すと、かすかに湯気が立った。
湯は、塔へ向かう前に宿で沸かしてきたものだ。この部屋では火を扱えない。塔の使用人に頼むより、自分で用意した方が確実だと判断した。
レオンハルトは抽出器をカップの上に据え、珈琲の粉を入れる。
乾いた黒褐色の粉から、ほのかに苦みを含んだ香りが立ちのぼった。
「最初は、少量の湯を落とします。一気に注がない」
そう言って、ケトルを傾ける。
細い湯が粉の中央に落ち、表面がゆっくりと湿る。粉がわずかに膨らみ、静かに動いた。
不意に、レオンハルトの横の空気が動く。
すぐ隣で見ていたルシェが、抽出器を覗き込むように、身を乗り出してきた。
レオンハルトの肩に、銀色の髪がわずかに触れる。
そのとき、珈琲の香ばしい匂いに、別の匂いが混ざった。
ルシェ特有の甘いフェロモンとは別の、微かな――だが、はっきりとわかる異質な匂い。
不快、と断じるほどではない。
だが、確かに――ここにあるはずのないものが、混ざっている。
その違和感が、じわりとレオンハルトの肌をざわつかせた。
「……少し待ちます」
自分でも思った以上に、声が静かになった。
数拍置いてから、再び湯を注ぐ。今度は円を描くように、ゆっくりと。
黒い液体が濾過器を通り、カップへと落ちていく。
適量の湯を注ぎ終えてから、レオンハルトは抽出器を外した。
「これで、できあがりです」
カップを差し出すと、ルシェは恐る恐る受け取った。
香りを確かめるように一度息を吸い、小さく口をつける。
「……にがい」
率直な感想に、レオンハルトは思わず口許を緩めた。
「最初はそう感じるでしょう。こちらを」
蜂蜜の小瓶を示すと、ルシェは言われるまま、少量を落とした。
再び口をつけ、今度は少し考えるようにしてから、ゆっくりと頷く。
「……さっきより、おいしい」
その一言に、胸の奥がふっと緩む。
レオンハルトの肌を撫でていた不快感も、このときは薄れていた。
「気に入ってもらえて良かった。殿下も淹れてみますか?」
「……私にできるでしょうか」
そう言いながらも、ルシェは抽出器に手を伸ばしている。
真剣な表情で、丁寧に工程をなぞっていく姿を、レオンハルトは見つめた。
「……これで、どうでしょう」
時間をかけて淹れた珈琲を、ルシェが不安げに差し出してくる。
「ああ、私の淹れたものよりも香りが良い」
口をつけると、豊かな香りと苦味、そしてわずかな甘みが口内に広がった。
「とてもおいしい」
素直な感想を告げると、ルシェの表情が、かすかに和らいだ。
「良かった……」
「明日から、殿下の淹れた珈琲を飲むのが楽しみです」
「私も、また……」
そう言ったルシェが、視線を伏せた。
目許がほんのりと紅潮している。
(珈琲を持ってきたのは正解だったようだ)
今日一日で、いくつもの表情を見せてもらった気がした。
見逃すとすぐ消えてしまうほど小さな変化だが、だからこそ、それを自分に向けてくれたことに、レオンハルトの胸が温かくなる。
そして同時に、自分の中に、ほんのわずかな欲が生まれるのを感じた。
「明日は、珈琲に合う菓子を持ってきましょうか」
こうした時を、もっと過ごしたい。
「甘いものはお好きですか?」
ルシェは少し驚いたように目を瞬かせ、それから。
「……はい」
小さく、はにかむような笑みを浮かべた。
(――こんな風に、笑うのか)
それはふと、レオンハルトに、ヴィレシャル山脈の山頂付近で見た、岩陰にひっそりと咲く花を思い出させた。
「では、明日も必ず」
それはとても穏やかな時間だった。
少なくとも、そのときのレオンハルトには、そう思えた。
◇ ◇ ◇
レオンハルトは、控えていたグレンに王都内の菓子店を巡るよう命じてから、馬車に乗った。
ルシェの笑顔を思い出し、自然と口許を綻ばせる。
レオンハルトに続いて馬車に乗り込んだグレンが、わずかに目を細めた。
「――休暇を楽しんでおられるようですね」
その言葉の、言外に滲んだ意図を読み取ったレオンハルトは、眉根を寄せてグレンを見た。
「ああ、楽しいぞ。こんなに楽しい休暇は久しぶりだ」
「それは何よりです。ところで、本国より国交の件で見通しがついたら帰国されるよう、連絡が入っておりますが」
「わかっている。だが、当分帰るつもりはない」
そう答えたレオンハルトに、グレンは小さく息を吐く。
「では、そのように取り計らいます。……ですので、そんな楽しみを取り上げられた子どものような顔は、おやめください」
レオンハルトが、呆気に取られたようにグレンを見た。
「そんな顔をしていたか? いや、そもそもお前にそんな顔を見せた覚えはないと思うが」
「クーガーの幼獣を拾った時に。貴方はそんな顔をしていましたよ」
レオンハルトは「ああ」と頷いた。
懐かしく、そして苦い記憶を思い出す。
「お前と初めて会った時だ。確かに俺は……まだ子どもだったな」
王城の暮らしや日々の訓練に嫌気がさし、城を抜け出して遠くの森林まで馬を走らせた時。
母親とはぐれた、一匹のクーガーの幼獣を拾った。
レオンハルトは連れ帰ろうとしたが、それを止めたのが偶然通りかかったグレンだった。
「お前に叱られたな。母親とはぐれたのではなく、近くの巣穴から出てきただけだと。だが俺が触れたことで、その子は本当に捨てられてしまった」
結局その幼獣はグレンが引き取り、自立できるまで育てたあとに、森へと帰した。
「最初に貴方を見た時は、どこの貴族の馬鹿息子かと憤ったものですが……貴方は森に帰すその日まで、連日様子を見に来られましたね」
「ああ。だが……」
森へと帰ったクーガーだが、人の手で育てられた獣が野生で生きるのは難しい。それから数年後、その獣は森で命を落としてしまった。
それを知った時、レオンハルトは己の未熟さを痛感した。
幼稚な善意、視野の狭さ、安易な行動、そうした至らないことの全てが、ひとつの命を奪ったのだ。
「あの時、同じ過ちは二度と繰り返さないと、私に誓ってくださいました」
「……ああ」
レオンハルトは頷いた。
その誓いは今も胸にある。王になった時、それはより強固なものとなった。
誓いを破るつもりはない。
それに、ルシェを、あの幼獣のような、庇護されなければ生きていけない弱い存在だとも思っていない。
(――では、この、胸の奥にある感情はなんだ?)
レオンハルトはしばらく思考の海を漂ったが、答えは得られなかった。
◇ ◇ ◇
その翌日も、レオンハルトは約束通り、ルシェの部屋を訪れた。
出迎えたルシェから、また、あの異質な匂いを感じ取る。
(昨日より濃い……)
再び、レオンハルトの肌がざわついた。
「ヘルダー伯爵?」
ルシェの声に、レオンハルトは思考を片隅に残したまま、笑顔を作った。
「おいしそうなケーキを見つけました」
箱を開けて見せる。ルシェの目許がふっと緩んだことに、レオンハルトは安堵した。
「珈琲の苦味とも合うと思います」
皿に乗せて出す。
戸惑いを見せるルシェに、レオンハルトは笑みを向けた。
「お好きなように」
ルシェはフォークを手に取ると、手前の端からひとかけらを掬い、口に運んだ。噛み締めるようにゆっくりと味わってから飲み込み、次いで珈琲に口をつけた。
「……とても、おいしいです」
「良かった」
レオンハルトもケーキに手をつける。
昨日見つけた時に味は確認済みだったが、その時よりもおいしく感じた。
鼻腔にまた、あの匂いが触れる。
穏やかだった気持ちは、途端に霧散した。
(昨日と今日――いや、それより前と今の彼、何が違う?)
この匂いがルシェのフェロモンと同一のものならば、レオンハルトはそれを好意的に受け取っただろう。レオンハルトの前にいるルシェは、日を追うごとに、ゆっくりとではあるが、色んな感情を見せてくれるようになった。
だが、この匂いは、ルシェのそれとは全く異なる。
(俺には見えない変化が、彼にある――?)
レオンハルトは、かすかな苛立ちを覚えた。
動物の威嚇行動に似た感覚が、無意識に彼の胸底に生まれる。
険しい表情で黙り込んだレオンハルトに、ルシェは何かを言いかけ、だが、言葉を発せず目を伏せた。
それすらも気づかないレオンハルトの前で、ルシェが小さく身を震わせる。
しばらくしてから、ルシェが震える唇を動かした。
「……私が、もっと」
消え入りそうなその声に、レオンハルトは慌てて顔を上げた。
「失礼。考え事をしておりました。何か?」
「おいしいお味であることを、私が、言葉を尽くせなかったので……」
レオンハルトは最初、ルシェの言葉の意味がわからなかった。
耳に入ったその言葉を、頭の中で何度も繰り返す。そうしてから、もしやと思い問いかけた。
「私が黙ったのを、勘違いなされている……?」
ルシェのわずかな表情の変化が、レオンハルトの言葉を肯定した。
「申し訳ありません。私が黙ったのは、つい別のことを考えてしまったからで、殿下の所為ではないのです」
ルシェは完全には納得していないのか、どこか切なそうな表情を浮かべたまま、頷いた。
(何をやっているのだ、俺は)
異質な匂いに邪魔されていることに苛立ちながら、彼を苦しめる態度をとってしまった。
レオンハルトは、ルシェに気取られないよう気持ちを切り替え、向き直った。
「殿下のお心は、ちゃんと私に届いております」
そう言いながら、自分の言葉に疑念を抱きそうになり、レオンハルトは胸中に湧いたそれを追い払った。
◇ ◇ ◇
塔を出て、森の中に停めた馬車へと向かっていたレオンハルトは、前方から歩いてくる人物に気づき、歩を緩めた。
クレインは、レオンハルトに気づくと眉間に皺を寄せ、軽く睨んできた。
それを会釈で返し、敢えて何も言わずにすれ違う。
その直後――。
レオンハルトは、思わず足を止めて振り向いた。
(この匂い……)
ルシェから漂っていた、異質な匂い。
それと全く同じ、匂いだった。
クレインのアルファフェロモンの匂い自体は、以前嗅いだから知っているはずだった。
なのになぜ、気づけなかったのか。否、もしかしたら、わずかな可能性に気づいていながら、無意識にその考えを排除していたのかもしれない。
クレインのアルファフェロモンに、濃く湿った雄の匂いが重なり、その奥に絡まるように、ルシェのオメガフェロモンが残っている。
匂いの正体を知ったレオンハルトは、愕然とクレインの後ろ姿を見つめた。
(王族のオメガが、伴侶ではないアルファに抱かれている――?)
その事実は、突きつけられてもなお、レオンハルトを混乱させた。彼の常識とは、あまりにもかけ離れていたからだ。
それと同時に、信じられない事実だからこそ、彼の資質はそこから目を逸らすことを拒否した。なぜ二人はそうした関係に至ったのか。その答えを得るために、記憶の全てを呼び起こす。
(……クレインは、王太子の婿として養子に入ったのか?)
まずそう考えたレオンハルトは、しかし即座に否定した。
(だとすれば、既にうなじを噛み伴侶になっているはず)
ルシェの首にはネックガードがある。
そもそも、彼が塔に幽閉されている事実が、それを否定していた。
(それに、クレインの性格なら、最初にはっきりと宣言するはずだ)
婚約者でないのなら?
秘めた関係だとしても、クレインはあんな物言いでは済まさないだろう。
それにクレインは、「塔に居続けることが王太子の幸せである」ともとれる発言をしていた。
ルシェの恋人ならば、そんなことは言えないはずだ。
少なくともレオンハルトだったら、愛する者をあんな場所に閉じ込めて、それが幸せなどとは思わない。
レオンハルトの脳裏に、ルシェの笑顔が浮かんだ。
(彼は、同意しているのだろうか)
その思いが浮かび、同時にレオンハルトの胸に鋭い痛みを与えた。
もし同意していないのなら――それは考えたくもないことだったが、その可能性を排したままでいることはできない。
それもまた、レオンハルトはわかっていた。
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