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第6話 役割が消えた場所
「――それでは、また明日、同じ時刻に」
そう告げたヘルダー伯爵の姿が、扉の向こうに完全に消えるその瞬間まで、ルシェは視線を動かさなかった。
扉の閉まる重い音が響き、その振動が、ルシェの産毛を撫でた。
ルシェは何気なくソファに腰を下ろした。
先ほどまで、ヘルダー伯爵が座っていた場所だった。
深く息を吸い、珈琲の残り香に包まれる。
「……また、あした」
彼には直接言えないその言葉を、ルシェはぼそりと呟いてみた。
帰り際にそう告げる彼に、なぜ自分は同じ言葉を返せないのか。ひとりでは容易に言えるこの言葉が、彼を前にすると、途端に喉が詰まって言えなくなる。
ルシェは目を伏せ、息を吐いた。
テーブルの上に置かれた小箱を手に取る。
今日、ヘルダー伯爵に手渡されたものだ。
ヘルダー伯爵が、王都で偶然見つけたと言いながら、小さな包みを差し出してきた。勧められるまま包みを解き箱を開けた瞬間、優しい花の香りが広がった。
中に入っていたのは、ホーリークローバーの蜜蝋石鹸だった。
贈り物として受け取るわけにはいかなかったが、ヘルダー伯爵はルシェが受け取ることを強要せず、それを必ず使うように命令もしなかった。
彼は、これを交易品にするにはどうしたら良いか、という話題に移り、生産地付近の悪路を整える案をいくつか出し、ルシェにも意見を求めた。
(……甘い匂いがする)
ルシェは、手の中の小箱に鼻を近づけた。
しばらくそうしたあと、ルシェは不意に立ち上がった。小箱を手に、読書机の一番下の引き出しを開ける。
奥にある、臙脂色のビロードに包まれたそれの横に、小箱をそっと置いた。
ルシェが引き出しを閉めたのとほぼ同時に、扉の解錠音が響いた。
ヘルダー伯爵が戻ってきたのではないことは、瞬時にわかった。
彼は、鍵を開ける前後に一度ずつ、必ずノックを挟んだ。そしてルシェが返事をするまで、絶対に扉を開けなかった。
ルシェは立ち上がり、扉の方へと視線を向けた。
扉の向こうには、クレインが立っていた。
心の奥底が、冷たく凪いでいく。
自分の役割と、ここにいる意味を、ルシェは思い出した。
「兄上」
名を呼ばれ、強引に手を引かれた。
ベッドへと連れていかれ、そこへと放られる。
「今日、何を話した?」
ルシェの上にのしかかりながら、低い声でクレインが問う。
クレインは、ヘルダー伯爵の来訪のあと、必ず部屋を訪れては同じ質問をした。そしてルシェが答えても、答えなくても、苛立たしげに服を剥いでいく。
「まさか、肌を見せてはいないな?」
服を剥ぎ、露わになった肌へと舌を這わせながら、クレインは問うてきた。
なぜ、いつも苛立っているのか。
なぜ、そんなわかりきった質問をするのか。
ルシェには、何ひとつわからない。
クレインが胸の突起をねぶる。ルシェが反応を返さないと、今度は下肢へと手を伸ばした。
「腰を浮かせろ」
言われた通りにしたのに、クレインは乱暴な手つきでルシェの足を掴み、ろくに解しもせずに己の熱を突き入れた。
「っ……!」
痛みに息を詰める。
クレインは構わずに腰を打ちつけた。
「うっ……、っ……」
痛みは次第に遠ざかり、別の感覚がじわりと這い上がる。
ルシェは、それへと身を委ねた。
そうすれば、あとは嵐が去るのを待つように、何も考えずにいられる。
ルシェは無意識に、手で唇を覆った。指先から、花の匂いが伝わってくる。
まるで、彼がここにいて、見られているような気がして、ルシェは一瞬体を強張らせた。
「もっと、淫らに喘いでみせろ」
クレインがルシェの手を掴もうとするのを見て、ルシェは咄嗟に口から手を離した。
なぜか、この手を触らせてはいけない、そんな気がした。
ルシェの動きを従順な証とでも思ったのか、クレインは短く笑うと、両手でルシェの腰を掴んだ。
再び熱を打ちつけながら、何かを囁く。
けれどその言葉は、もうルシェの耳には届かなかった。
◇ ◇ ◇
ルシェが目を覚ますと、すでにクレインの姿はなかった。
鉛のように重い体に息を吐き、ルシェは身を起こした。
夕方前だったはずの外は漆黒に落ち、わずかにフクロウの鳴き声が聞こえてくる。
動くと、体にまとわりついた汗と精液の匂いが鼻についた。
自分のフェロモンと、クレインのフェロモンの匂いも。
それは嗅ぎ慣れた匂いだったが、その瞬間、ルシェは弾かれたように浴室へと向かうと、湯船に残った冷たい水を頭から被った。
この匂いを残してはいけない――そんな強い衝動に駆られ、全身を洗う。
ヘルダー伯爵に渡された石鹸を使おうとは思わなかった。
むしろ、今の自分はそれを使うに値しない。そんな思いがルシェにはあった。
長い時間をかけて洗い、白樺の香油を肌に擦り込んだ。それでもまだ微かに残っている気がして、何度も洗い直し、浴室を出た時には、ルシェの肌は赤くなっていた。
ルシェはソファに近づくと、またヘルダー伯爵の座っていた場所に腰を落とした。彼の飲み残したカップを持ち、鼻先に寄せる。ほのかに残る珈琲の香りを、深く吸い込んだ。
『明日は、カード遊びでもいたしましょうか』
ヘルダー伯爵の声が蘇る。
ルシェはカード遊びの経験がない。そのことを伝えたかったが、言葉がうまく出なかった。
けれどヘルダー伯爵は、途切れ途切れになるルシェの声に耳を傾け、何を言おうとしているのかを理解しようとした。
そして、ルシェの声を聞いてくれた彼は、「教えがいがありますね」と言って笑った。
彼の笑顔を見ると、窓辺から注がれる日差しを浴びた時のような、やわらかな温もりを思い出す。忘れかけていた感覚が、少しずつ、呼び起こされていくのを感じるのだ。
『でも殿下はきっと、すぐに上達されるでしょう。珈琲を淹れた時のように』
「……貴方の教え方が、上手だからです」
『カード遊びにもいくつか種類があるのですよ。殿下はどれが気に入るでしょうね』
「どれでも……貴方となら、きっと楽しいと思います」
言えなかった言葉を添えて、ヘルダー伯爵との会話を再現する。
『賭けもしましょうか。私は――』
そう言いかけたヘルダー伯爵が、不意に言葉を切った。
あの時、どうしたのですかと即座に聞けていたら、彼は言葉を紡いでくれただろうか。
しばらく黙っていたヘルダー伯爵は、考えあぐねるような眼差しを、ルシェに向けた。
『眠れていますか?』
彼が、あんな風に脈絡もなく、ルシェ個人のことを尋ねるのは初めてだった。
ルシェが答えず俯くと、ヘルダー伯爵の、小さな吐息が聞こえた。
また、失礼なことをしてしまったのだろうか。
彼には誠実でありたいのに。
そう思い、同時に、なぜそんなことを思うのかと、不思議な気持ちになる。
ヘルダー伯爵と出会ってから、度々こうした気分になった。色々な感情が顔を出し、それを当たり前に持っていた頃の自分に、遠くから手招きされる。
そんな自分など、もうどこにもいないはずなのに。
『本を読んだり、外の景色を眺めたり、こうしてお茶を飲んで語らったり……そうした穏やかな時間を、ずっと過ごしていきたいと思いませんか』
俯いたルシェに、ヘルダー伯爵はそう言った。
もし本当に、そうした時間がずっと訪れるのなら――けれどそれは、この部屋では意味のないものだ。
『それでは私の役割を、果たせませんので』
なぜかその言葉は、驚くほどはっきりと言うことができた。
気持ちを正直に伝えたことで、ヘルダー伯爵は満足してくれると思った。けれど彼は、息を呑むようにして黙ってしまい、それ以上の言葉をかけてはくれなかった。
また明日、と、そう告げて去っていった彼の姿を思い出す。
それだけで喉の奥が詰まり、胸が苦しくなった。
「……ヘルダー伯爵、私は、賭けるなら」
言葉が、続かない。
ここに彼はいないのに、喉元まで出かかったそれを、ルシェは声に出すことができなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
窓辺から、ルシェは外を眺めていた。
森の向こう側へと、陽が沈んでいく。
ルシェは視線を動かし、自分と世界とを断絶する、重い鉄の扉を見つめた。
ヘルダー伯爵の来訪後に必ず姿を見せていたクレインが来なくなり、幾日かが過ぎた。
最後にクレインの声を聞いたのは、ヘルダー伯爵から蜜蝋石鹸を贈られた翌日のことだ。
いつものように予告なく鍵が差し込まれる音がした時、ルシェは身を強張らせた。
だが、その扉が開くことはなかった。扉の向こうで、クレインとガルドが何か話す声が聞こえ、クレインの怒号が響いたあと、足音は去っていった。
それ以来、クレインは姿を見せていない。
塔に訪れるのは、ヘルダー伯爵と、使用人たちだけ。ヘルダー伯爵が来る時に付き従っていたガルドも、姿を見せなくなった。
それはルシェに、安堵と同時に不安を呼び起こさせた。
誰にも触れられない、求められないことは、これまでの日常の崩壊を意味する。
役割のない自分に、価値などあるのだろうか。
『ずいぶんと顔色が良くなったようで、安心しました』
ヘルダー伯爵の声がふと耳に蘇り、ルシェは、自分に残された役割を思い出した。
王族として、ヘルダー伯爵の相手をすること――それがヘルダー伯爵の滞在中に、自分に与えられた役割だった。
この部屋に、外部の者――しかも外国の人間が来ると聞かされた時、ルシェはぼんやりと、「自分はついに売られるのか」と思った。ここでただ生き長らえている自分には、それが相応しいとも。
ヘルダー伯爵がどんな人物かは聞かされなかった。
ヴァルテア王国の、伯爵。それがルシェの知る情報のすべてだ。
(それと……ベータ)
ヘルダー伯爵のことを伝えたクレインは、「ベータだから安心しろ」と繰り返し言っていた。何が『安心』なのか、ルシェには意味がわからなかったが、聞き返そうとも思わなかった。
ただ、自分は売られるのではなく、顔を見せればいいという。
国王からは『無礼なことだけはするな』との通達があった。
けれど何が無礼で、何が無礼ではないのか、それを判断する術がルシェにはない。
(彼は言わないだけで、もうたくさん、失礼なことをしてしまったのかもしれない)
お茶を飲み、語らい、様子を気遣われる。
無理矢理押し倒されることも、強引に体を繋がされることもないその時間は、とても穏やかだ。
けれどその穏やかさが、ルシェの心をざわつかせる。
(ヘルダー伯爵が触れてこないのは、ベータだからだろうか。けれど彼も――)
ルシェの思考は、突然のノックの音で遮断された。
びくりと体が震える。
解錠の音に続いて、扉が重い音を立てて開いた。
「やあ、久しぶりだね、王太子殿下」
そこに立っていたのは、レリウスだった。
ルシェが反射的に身構えると、彼は軽く両手をあげた。
「ああ、部屋に入るつもりはないよ。私も自分の身が大事だからね」
それでも身を固くするルシェに、レリウスは意外そうに目を見開いた。
「以前の君は、わずかに顔色を変えたあとは、なすがままだったのに」
レリウスはそう言うと、目を細めた。
「そんなにはっきりと、私の来訪を『怖い』と感じるなんて」
「……こわい?」
わずかに眉根を寄せたルシェを、レリウスはまるで珍しい何かを見るように、じろじろと見回した。
「君、クレイン殿下が姿を見せなくなった理由が、わかるかい?」
答えられないルシェに、レリウスが頷きを返す。
その目が、不意に小棚へと向けられた。
そこにある、新しい抑制剤入りの薬瓶を見て、わずかに目を見開いた。
「……こんなに簡単に」
独白したレリウスが、ルシェを見て息を吐く。
「そろそろ『あれ』が来る頃だね」
その意味することを察したルシェは、肩を震わせた。
レリウスは、家庭教師を辞した日から、その時以外にこの部屋を訪れることはない。
震えるルシェを見て、レリウスは首を振った。
「さっきも言ったように、この部屋に入るつもりはないよ。いつもの仕事のついでに、ちょっと顔を見たくなっただけさ」
いつもの仕事が何を指しているのか、ルシェはわからない。
レリウスも特に説明することなく、懐から喫煙具を取り出した。
火を点けようとして、だが途中で手を止めると、それをじっと見つめた。
「――君は、私を憎いと思う?」
ルシェは一瞬だけ、息を呑んだ。
憎い、という感情を、抱いたことはない。最初からそうだったのか、手放したのかはわからないけれど。
「……先生、さっきから、なにを」
レリウスはハッとし、それから呆然とした顔で、口を開いた。
「君はまだ、私のことを『先生』と呼んでくれるのか」
レリウスは喫煙具を懐に戻すと、どこか疲れたように、深く息を吐いた。
そうしてから背筋を伸ばし、まっすぐにルシェを見つめた。
「王太子殿下。貴方はご自分の変化に、気づいていらっしゃる」
唐突に、レリウスは語った。
「そして明日の貴方も、今日までの貴方ではないのでしょうね」
レリウスは意味深な言葉を残すと、深く一礼をして扉の向こうへと消えた。
その仕草は、彼がまだ純粋な家庭教師であった頃の姿を、ルシェに思い起こさせた。
施錠の音が響き、部屋にまた、静寂が戻った。
ひとり残されたルシェは、静まり返った部屋の中で、レリウスに言われた言葉を繰り返し考えた。
確かに自分は変わった、と思う。
けれど、例え明日になっても明後日になっても、自分ではどうにもできない、決して変わらない事実もある。
月明かりが、ルシェの銀髪を青白く染めた。
部屋に落とされた自分の影から、ルシェはしばらく目を離せなかった。
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