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第7話 名前のない感情

 塔へと向かう馬車の中で、レオンハルトは座面に置いた箱へと視線を落とした。  中に入っている砂糖菓子の、丸みを帯びた動物の形を思い出し、少し子ども向け過ぎたかと考える。  店先でこれを見つけた時、ルシェはどんな反応をするだろうと考えたら、買わずにはいられなかった。 (以前渡した蜜蝋石鹸は、気に入ってもらえなかったようだしな)  あれには、クレインの匂いを薄めたいという、極めて個人的な欲もあったため、一度も使われなくても仕方ないと思っている。  ただなんとなくその件以降、ルシェへの手土産は、その場で消費できる菓子類ばかりを選ぶようになった。 「かわいらしくて良いのではないですか」  対面のグレンのその言葉が、砂糖菓子を指しているのか、別の意図を含んでいるのかレオンハルトは読み取れなかったが、頷きひとつ返すと座席にもたれた。  馬車が森に入り、車内に鬱蒼とした影を落とした。  王室側に出した通達の効果は予想以上で、報告を聞く限り、ルシェの居室にクレインが近づく様子はない。 「国から何か連絡は入っているか?」  唐突なレオンハルトの問いに、グレンは特に驚く様子もなく、すぐさま口を開いた。 「いいえ。陛下のなされたことは、まだ伝えておりませんので。……それでよろしいですね」 「ああ」  車体が一度揺れたあと、馬車は止まった。  レオンハルトは、砂糖菓子の入った箱を手に取ると、馬車を降りた。 「行ってらっしゃいませ」  グレンの言葉を背に、レオンハルトは塔へと歩き出した。  ◇ ◇ ◇ 「これは……羊?」  砂糖菓子を手に取ったルシェが呟くのを、レオンハルトは目を細めて見つめた。 「これは何に見えますか?」  別の形のものを指差すと、彼の目許がふわりと和らぐ。 「熊、ですね。その隣は……?」 「これは私もわからないのです。殿下のお知恵を拝借しようと思いまして」 「……もしかしたら、ヤマネコかもしれません。北部ではよく見かけるようです」 「ああ、なるほど」  ルシェは、最初の頃に比べて、随分と淀みなく言葉を発するようになった。  息継ぎの感覚や、こちらを見る視線の揺らぎ、言葉の選び方――そうした細かな所作に、彼が自分との会話に慣れようと努力している気配を感じる。  会話を繰り返すことで、身体的にも喋る感覚を取り戻しつつあるのか、途中で息苦しそうに言葉を切ることもなくなってきた。 「この中では、私はそれが一番好きですね」 「私は……どれでも」  ルシェの手にある羊を見ながら言うと、彼は俯いてしまった。  会話には慣れても、感情が表に出そうになると、彼はすぐそれを胸の奥へ押し戻してしまう。  まるで、触れられたくないものから視線を逸らすようなその仕草に、レオンハルトはルシェに気取られないよう、小さく息を吐いた。 「最近は、お体の具合はどうですか」  話題を変えると、ルシェは少しほっとしたような顔で、頷いた。 「ここのところ、体が軽いように思います」 「それは良かった」  抑制剤の副作用はないように見え、レオンハルトは安堵した。  それまで使っていた抑制剤よりも効果が高く安全なものを、自分からとはわからないように手配した。ルシェに知らせなかったのは、彼に心の負担をかけたくなかったからだ。  常習的に服用する抑制剤は、フェロモンを抑え、精神を安定させる。  それは将来的には、ルシェの活動範囲を広げる手助けにもなるだろう。  少しずつだが、様々なことが良い方面へと向かっている。  レオンハルトにはそう思えた。 「この砂糖菓子、珈琲に直接入れてもいいそうですよ。ほら、こうして」  手前にあったヤマネコをひとつ取り、カップに入れて掻き混ぜる。 「殿下もどうぞ」 「……はい」  ルシェは少し躊躇したあと、持っていた羊をカップに入れた。 「ああ、崩れてしまいました」  そう言ってカップの中身を見せてくる。  覗き込んだレオンハルトは、鼻先に触れた匂いに、一瞬動きを止めた。 (なんだ?)  嗅ぎ慣れた匂いに、ほんのわずかだが混じり気を感じた。  不快感はない。だが、何かがおかしい。 (いつから……?)  部屋に入った時は気づかなかった。  珈琲を入れるルシェの仕草を、間近で見つめている時も。 「ヘルダー伯爵?」  名前を呼ばれ、反射的にルシェの、紅紫色の瞳を見つめる。  ルシェが目を逸らし、ようやくレオンハルトは我に返った。 「……そういえば、王都で珍しい茶葉を見つけたのです。明日はそれを持ってきましょう」 「珍しい茶葉、ですか」 「ええ、何かは明日までのお楽しみに」  ふっと口端を緩めたルシェが、珈琲を口に運ぼうとした。  直後、彼の指が小さく震える。 「あぁ……」  ルシェは小さく呻くと、両腕で自分の体を抱きしめ、蹲った。 「殿下――」  声をかけようとしたレオンハルトは、その匂いに気づき思わず立ち上がった。 (発情期――!?)  それは、レオンハルトがこれまで嗅いだことのない、形容し難い不思議な香りだった。  とてつもなく甘く、肌にねっとりと絡みついてくるが、不快感は一切ない。  だが全身は一気に粟立ち、体の奥底から、とめどない渇望が湧き立つのを感じた。 (耐性をつけていてもこれほどとは……いや、それよりも) 「殿下……薬はどこに」  強烈な匂いを意識の外へと追い出しながら、レオンハルトは問うた。  ルシェは、蹲ったままの姿勢で、首を横に振った。 「発情を鎮める薬です。切らしているのですか?」  再度、問いかける。  ルシェの目が、レオンハルトに向いた。  レオンハルトの言葉そのものを、疑うような眼差しだった。 (まさか)  その反応がにわかには信じられず、だが同時に、レオンハルトは理解してしまった。  薬がないこと、アルファに抱かれていたこと。  それが示す答えは、ひとつしかない。 「急ぎ、薬を手配します。殿下はあちらに――」 「近寄らないで」  レオンハルトの気配を察したルシェが、震える声で言った。 「それ以上近づいたら、貴方もおかしくなってしまう」 「殿下、私はベータなので大丈夫です」  ルシェへの言葉は、自分への暗示でもあった。 (……抱きたい)  体を支配しようとする欲情を、レオンハルトは振り払う。 「殿下、私は触れません。絶対に」  もう一度、己に言い聞かせる。  ルシェがぶるりと体を震わせた。 「だれにも」  掠れた声で、ルシェが呟いた。 「……だれにも、求められなかったら、おれは」  ルシェは、己を抱き締める腕に力を入れた。 「殿下――」 「出てって!」  その声は、鋭い刃のようにレオンハルトの心を抉った。  それでもレオンハルトは、すぐには扉へと向かうことができなかった。  制御できないフェロモンの中で、ひとり苦しむ彼を思うと、足が縫い留められる。 「……っ」  ルシェから漂う甘い香りが、一層濃くなった。  このままここにいたら、約束した言葉を守れなくなる。 (触れないと、決めた)  だが、本当にそれでいいのか、決意が揺らぎそうになる。  抱けば発情は鎮まる。ルシェを苦しみから解放できる。  助けることができるのだ。  俺だけが、彼を救える――。 (違う)  それはアルファの傲慢な考えに過ぎないと、レオンハルトは即座に振り払った。  無理矢理抱くことで、それでも一時の安寧は訪れるだろう。  しかしそれは、永続的な苦しみを先送りにするだけで、結局は彼を苦しめるだけだ。  それでは何も変わらない。  ――そう、何も。  ルシェとの穏やかな時間に溺れ、何も見えていなかった、レオンハルト自身のように。 (彼を救ったつもりでいて、俺は――)  レオンハルトは拳を握ると、ルシェに背を向け、扉へと向かった。 「……殿下、明日また、参ります」  返事は、かすかに聞こえる小さな呻き声だけだった。 「会えなくても、必ず」  そう言い残し、レオンハルトは部屋を出た。  廊下に出ると、冷えた空気が肺を満たす。  だが、先ほどまでの熱の名残は、容易に消えそうになかった。  それでも、レオンハルトは足を進めた。  一歩ごとに、背後の気配を振り切るように。  扉の向こうに残したものの重さを、胸に抱えたまま。  ◇ ◇ ◇  レオンハルトは、部屋に入ってきたグレンを一瞥すると、すぐにまた手元へと視線を落とした。 「もうすぐ夜が明けます。そろそろお休みになられては」  グレンの声には答えず、資料を捲る。  ひとつ息を吐いたグレンが、一枚の紙片を差し出した。 「薬の調合ができたと連絡が入りました。こちらが詳細になります」 「ああ」  レオンハルトは宿に戻るとすぐに、医師の派遣と、発情期を鎮める薬の調合を命じた。  ローディア王室には知らせていない。薬の存在を知っていて放置しているのであれば、邪魔される可能性もあったからだ。 「ご指示通り、できうる限り効果が高く、かつ飲み慣れていない者でも服用できるよう、尽くしたとのことです」 「そのようだな」  紙片を読みながら、レオンハルトは頷いた。 「だが、副作用は相当厳しいだろう」 「だとしても、本当によろしかったのですか?」 「何がだ」 「医師が言うには、王太子殿下は重篤な発情期であるご様子。すぐにでも薬を投与されたほうが、良いかと思うのですが」 「それを決めるのは俺ではない」  通常のフェロモンを抑える薬とは違い、これは体を傷つける行為に等しい。  これまで服用したことがないのなら、尚更負担は大きいだろう。  たとえ投与することが彼のためであっても、本人の意思を無視して強行することは、保護ではなく支配に繋がる。 (彼の意思を尊重すべきだ。だが――)  そう思いながらも、レオンハルトの心中は複雑だった。  発情期を鎮めるもうひとつの手段。  ルシェが今まで信じてきた、唯一の方法。 「今の王太子殿下が、アルファの体を求めるとは思えませんが……」  グレンの言葉に、レオンハルトは答えなかった。  彼の選択は、彼自身のものだ。  それは誰にも奪えない――奪わせはしない。  レオンハルトに出来ることは、唯一だった選択の枝を増やすことだけだ。  その結果、彼がどの枝を掴み、誰を選ぶことになろうとも。 「……俺には、否定することはできない」  レオンハルトは、自分に言い聞かせるように呟いた。  そうしてから深く息を吐くと、グレンに向き直った。 「それで、例の件は」 「はい、王都の店や病院を調べたところ、フェロモンに関する薬は表立っては見当たりませんでした。しかしそもそも、この国にはアルファやオメガが王族以外はほとんど存在しないようで、参考にはならないかと」  レオンハルトは腕を組んだ。 (彼が一般市民なら、薬が買えなくとも不思議ではない。だが)  その先の言葉を突き詰めるほど、レオンハルトの胸に嫌な感覚が忍び寄る。 「王室のオメガは、現在王太子殿下ただひとり。そのため、王室での薬の取り扱いがどうであったか、確かな情報はまだ得られておりません」 「そうか」  王室に知らせないのは正解だったようだが、ルシェがその中心にいる限り、レオンハルトたちの動きは、いずれ伝わってしまうだろう。  いずれにしても、ルシェを放っておくわけにはいかない。  レオンハルトは引き出しから一枚の紙を取り出し、ペンを手に取った。 「……薬は、医師の手から直接王太子殿下に渡すように」  そう告げながら、紙に文章を記していく。 「本人の意思なしには決して投与しないことを徹底しろ。そしてもし、王太子殿下が薬を拒否し、アルファを求めた場合は――」  レオンハルトは言葉を切った。  その先の言葉を察したグレンは、主がそれを告げるのを遮るように、深く頭を下げた。 「すべて、承知いたしました」  最後にサインを入れ、レオンハルトは、告げなかった言葉を文言に記した紙を、グレンへと渡した。  「頼んだぞ、グレン」  グレンが部屋を出たあと、レオンハルトは椅子に背を預けた。  強すぎるフェロモンに耐え抜いたことで体は疲弊し切っていたが、眠りたいとは思わなかった。  意識は自然と、塔のある方角へと向けられる。 (彼の苦しみの半分でも背負えるのなら)  ルシェの選択に介入しないと決めておきながら、ついそんなことを考えてしまう自分が滑稽に思え、レオンハルトは自嘲した。

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