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第8話 制欲の杭
「っ……ぁ……」
体の中にある熱が、外に出たいと叫んでいる。
汗が伝うその感覚だけで、肌が刺激されて腰が揺れそうになる。
早く解放したい。解放されたい。頭の中はそればかりで、何度追い出そうとしても絡みついた欲情は離れてくれない。
「う……あぁ……」
欲しくて、欲しくて、たまらない。
「はぁ……あ……っ」
ルシェは、自身を擦り、何度目かの絶頂を迎えた。
どれだけ達しても、体は満たされなかった。むしろ肌が火照るごとに、もっと欲しいと貪欲になる。
すぐにまた、手を動かす。
けれど物足りなさが、自然と指を後ろへと向かわせた。
これまで何度も男たちに貫かれたそこは、久々であっても、ルシェの指を容易に呑み込んだ。
「ぁ……っ」
うつ伏せになり、腰を上げて指を動かした。
水音が響き、ぬめった香油がルシェの内腿を伝う。
『もっと腰を揺らして』
「――っ」
ルシェは咄嗟に、その声を追い出した。
(彼は駄目だ。彼だけは……)
そう思うのに指は淫らに動き、脳内に偽りの声を響かせる。
熱を孕んだ彼の眼差しを思い描いただけで、快楽は一気に溢れてルシェの体を支配した。
「あぁっ……っ……あっ、あ」
彼は、こんなことはしない。
――絶対に触れない。
そう、約束してくれた。
「はぁ、あ、あぁっ、あ、あ……っ」
あんな約束。
して欲しくなかったのに。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
記憶の中のヘルダー伯爵に謝りながら、ルシェは、彼を穢すことを止められなかった。
◇ ◇ ◇
ルシェは湯船の中に丸まって、熱の嵐が過ぎるのを待った。
部屋の中にはヘルダー伯爵の匂いがわずかに残っている。
彼の気配がないこの浴室に逃げ込むことでしか、淫らな夢想から彼を守ることができなかった。
それでも気を抜くとすぐに、心の中で彼を求めてしまいそうになり、ルシェはそのたびに自分を叱責した。
(こんなのは違う……)
一番近くにいたのが彼だった――それだけの、はずだった。
こんな自分が、誰かに特別な感情を抱くなんて、許されないことだ。
(全部……今だけ……)
ルシェは繰り返し、自分に言い聞かせた。
(すぐに消える……消えるはず……お願いだから……)
そう思いながらも、彼の姿は消えてくれない。
寄り添ってくれた彼を、怒鳴って追い出した。
彼はきっと、怒っているだろう。
「王太子殿下」
扉の向こうからの声に、ルシェはびくりと体を震わせた。
ヘルダー伯爵の声ではないことに、ほっと息を吐く。
「使用人のカイです」
覚えのない名前だった。
「だれ……?」
「ヘルダー伯爵の指示で、お加減が良くなるまで仕えることになりました」
「ヘルダー伯爵……」
名前を呟いたルシェは、慌てて口を塞いだ。
「こ、ここには、来て欲しくないです」
「浴室には入りません。部屋の清掃をさせて頂きます」
「だ、だめ、です」
ヘルダー伯爵の関係者に、汚れたシーツを片付けさせるわけにはいかなかった。
「私の主人はヘルダー伯爵です。伯爵の命令を果たすのが私の仕事です」
カイは冷淡にも聞こえる声でそう言った。足音が遠ざかり、遠くから衣擦れの音、食器の重なる音がかすかに聞こえてきた。
しばらくすると、また足音が戻ってきた。
「簡単にですが片付けをさせて頂きました。それと、軽いお食事を用意いたしましたので、口に入れられるようでしたら」
「……ありがとう……ございます」
やりどころのない羞恥に身を縮ませながらも、ルシェは礼を言った。
「伯爵が階下にいるのですが、呼んでもよろしいでしょうか」
「だめです!」
ルシェは咄嗟に拒否した。
また無視されるかと思ったが、カイは食い下がることなく「わかりました」と言った。
「では、薬だけ、お渡しさせてください」
「薬……?」
「発情期を鎮める薬です。医師からは受け取って頂けなかったと」
今朝のことだ。
その時は今よりずっと苦しくて、誰の来訪にも応えられなかった。
それに、発情期を鎮める薬など、ルシェは聞いたことがなかった。カイは嘘を言っている。そう思う一方で、ルシェの脳裏にヘルダー伯爵の言葉が蘇った。
薬はどこにあるのかと、当然のように彼は言っていた。
(もし、その薬が本当にあるのなら……俺は……)
「……薬は、いりません」
気づいたら、そう口に出していた。
扉の向こうで、カイが息を吐く気配がした。
「薬がなくて、どうやって発情期を耐えるのですか」
「それは……」
「繰り返しますが、私は主人の命令でここにいます」
「ヘルダー伯爵が……薬を使えと?」
尋ねると、やはり冷淡な声が静かに答えた。
「いいえ、主人からは、渡すようにだけ言われています」
使うかどうかは、自分で決めろということだろうか。
「……ヘルダー伯爵は……どのようなご様子ですか」
返事は、すぐにはなかった。
しばらくの沈黙のあと、カイはまた小さく息を吐いた。
「……王太子殿下に聞かれたことは、なんでも正直に話すよう、命じられています」
カイはそう前置きして、言葉を続けた。
「今朝早く塔にいらして、護衛騎士の……確かガルドという名の方と、少し口論をされているようでした」
「ガルドと……何を……?」
「詳細までは存じません」
(もしかして……)
ルシェは身を震わせた。
護衛騎士のガルドは、発情期にルシェを抱いていたひとりだ。
(ヘルダー伯爵に知られてしまった……?)
その瞬間、ルシェは初めて、自分というものの本質――どれだけ変わっても変わらないそれを知られることに、恐怖を感じた。
なぜ、今までそこに、考えが及ばなかったのか。
わざわざこんなところにまで来る彼が、何も知らないはずがないのに。
(彼は、どこまで知っているのだろう)
オメガフェロモンが異常なこと。
幼い頃から塔に幽閉されていること。
生殖能力がないこと。
三人のアルファに抱かれていたこと。
「伯爵は、王太子殿下の身を案じておられます」
カイの言葉は、余計にルシェを苦しませるだけだった。
◇ ◇ ◇
頭の痛みに耐え切れず、ルシェは何度か吐いた。水しか飲んでいない胃からは胃液しか出ず、吐きすぎて喉を痛めたのか、少し血が混ざっていた。
カイから受け取った薬は、飲んでいない。
副作用が怖かったわけではない。
薬を飲んで、この苦しみが終わってしまうことが、怖かった。
もし薬が効いたら――その先へ思考の手が伸びそうになるたびに、ルシェは必死に頭を振って拒絶した。
ルシェはシーツを身に纏い、ふらつく足でソファに蹲った。
この部屋のどこからも、もうヘルダー伯爵の匂いはしない。
(ヘルダー伯爵……ヘルダー……レオン)
初めて、その名前を心に浮かべた。
そうしてから、彼が自分を名前で呼んだことが一度もないことに気づく。
けれど、それを不思議には思わなかった。
彼が見ているのは最初から『王太子殿下』としての自分で、個人であるルシェには、興味などないのだから。
突然、部屋にノックの音が響いた。
最初は軽く、だが、二度目は乱暴に。
咄嗟に身を震わせたルシェだが、乱暴なその音に、相手はヘルダー伯爵ではないと瞬時に察した。
鳴り止まない音に小さく息を吐き、ソファから立ち上がる。
「……はい」
厚い扉越しでも聞こえるように顔を近づけ、声を出す。
「ルシェ」
クレインの声に、ルシェの体は反射的に熱を呼び起こしそうになり、慌てて身を離した。
「行くな。話をするだけだ。部屋には入らない」
初めて聞く彼の縋るような声音に、ルシェは足を止めた。
「部屋の外にまで発情期のフェロモンが漂っている」
ルシェが何も言わずにいると、クレインは溜め息を吐いた。
「使用人から、薬のことを聞いた。発情期を鎮める薬だとか。……飲んだのか?」
ルシェが答えないのをどう捉えたのか、クレインは小さく笑った。
「まあ、そんな怪しげな薬など、本当に効くかわかったものではないからな」
その言い方は、薬の存在をクレインも知らなかったことを示唆した。その事実はルシェの心の端を溶かしたが、すぐにまた、冷たい波が襲ってくる。
「お前が不安なら、その薬は俺が捨ててやる。扉を開けてもいいか?」
クレインの声音に、色欲が滲むのがわかった。
アルファ特有の威圧感が、扉越しでも伝わってくる。
この熱に、飲み込まれれば。
苦しみはすぐにほどけて、別の形になってくれる。
「扉を開けると言え」
ルシェの手が、扉へと伸びた。
「お前は俺に抱かれ、快楽に溺れればいい」
扉を開ければ、苦しみは終わる。
「俺がお前を助けてやる」
ただ、もとの自分に、戻るだけだ。
「いつものように、俺を求めろ。ヘルダーも、お前が俺を選ぶなら許可すると認めた」
ルシェはハッとして、手を引っ込めた。
扉の向こうで、クレインが苛立たしげに息を吐く。
「お前に触れたら、俺は王族の権利を剥奪される。だから近づけなかったが……お前が俺を選べば、すべて元通りだ」
あれだけ頻繁だったクレインの来訪が、なぜ止んだのか。
その理由を初めて知らされ、ルシェは戸惑った。
ルシェは自分が国の『道具』であることをわかっている。これから国交を結びたい相手から言われれば、国王は条件を呑むだろう。
(けれど、ヘルダー伯爵は、なんでそんなことを……)
「何を勘違いしたのか知らないが、あいつは俺たちとは何の関係もない人間だ」
吐き捨てるように、クレインは言った。
「ヘルダー伯爵はいずれ国に帰る。こちらのことなど、すぐに忘れるだろう」
その言葉は、ルシェの心に深く突き刺さった。
(忘れられる……なかったことにされるのか)
共に過ごした、あの時間のすべてを。
(……それでいい。そのほうが)
「だからお前は安心して俺を選べ。いつものように、お前はただ俺に抱かれればいい」
ヘルダー伯爵が二度と訪れない、この場所で。
何もなかったのだと、すべて忘れて。
自分はまた、もとの生き方に戻る。
「……扉は、開けない」
言葉が、口をついて出た。
(俺は二度と、抱かれない)
クレインにも、レリウスにも、ガルドにも。
誰にも、触れさせない。
それが――たとえ一時の気まぐれであっても、彼が望んだことだろうから。
「……愚かだな」
扉の向こうで、クレインが嘲笑った。
「あいつが足繁く塔に通うのは、お前みたいなアルファが物珍しいだけだ。それ以外、お前に価値などあるものか。……ああ、本国に連れて行って、向こうで貴族たちの玩具にするつもりかもな」
――物珍しいだけ。
その言葉は、ルシェの心を傷つけると同時に、納得もさせた。
そんな理由でもなければ、彼が自分などに優しくするはずがない。
クレインの足音が去っていく。
ルシェは扉から後ずさり、その場に座り込んだ。
視界の端に、カイが置いていった薬の小瓶があった。
これが彼の優しさなのか。
哀れみなのか。
好奇心なのか。
ルシェにはわからない。
たったひとつ確実なはずの自分の気持ちすら、ルシェにはわからないままだ。
頭痛は止まず、吐き気も治らない。
ルシェは薬の小瓶を掴み、握りしめると、遠くへと投げ捨てた。
痛み、苦しみ、それでも浅ましく欲情する体。
それらはルシェの心をかき乱し、思考を奪う。
そうして奪われている間は、縋っていられる。
全部をそれの所為にして、混沌の中に、溺れていられる。
愚かだと、嘲笑ったクレインの声が蘇った。
(ああ、愚かだ)
涙がとめどなく流れる。
どうして泣くのかもわからず、ルシェは嗚咽を漏らした。
(早く壊れてしまいたい)
それとも、とうの昔に壊れているのだろうか。
だとしたらなぜ、安らぎは訪れないのだろう。
「……レオン、貴方が俺を、壊してくれる?」
ルシェは囁くと、蹲った。
どこまでも愚かな自分を、嘲りながら。
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