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第9話 触れない選択

「――彼の様子はどうだ」  宿の自室で、部屋に入ってきたグレンの顔を見るなり、レオンハルトは口を開いた。 「そんなに気になさるのなら、直接お会いすれば良いでしょう」 「それはできない」  レオンハルトは即答した。  理由を添える必要もなかった。  グレンが、肩をすくめるように息をつく。 「だいぶ落ち着かれたご様子です。今朝からは、食事も摂り始めました」  その言葉に、胸の奥が静かに緩むのを感じた。 「そうか……」  最悪の事態は免れた――そのことに、まず安堵した。  そして同時に頭の中で、即座に思考を巡らせる。  他にできることはないか。  どんな小さなことでも、自分ができることは。  そのためには、彼が何を考え、何を望んでいるか。  それを、知らなくてはならない。 「……なぜ彼は、誰の手も借りずに、ひとりで耐えたのだろうか」  思考の端から、疑問が零れ落ちた。  クレインを拒絶した理由はわかる。  以前とは違う彼は、自分の尊厳を守ったのだろう。  それは彼の強さだと、そう思う。  ――だが。  薬を飲まなかった理由だけが、どうしても腑に落ちない。  副作用を怖がっている様子はないと聞いた。そもそも副作用よりも、発情期をひとり耐える苦痛のほうが遥かに勝っているはずだ。  その壮絶な苦しみを、彼が手放さなかったのはなぜなのか。 「それは……」  グレンは少し考えるように視線を落とし、慎重に言葉を選んだ。 「……自傷行為に近いもののようにも、見えました」  レオンハルトは、反射的にグレンを睨んだ。 「彼は、そんなに弱い人間ではない」  鋭い灰青の瞳が、グレンを射抜く。  それに怯むことなく、グレンは再び静かに口を開いた。 「人の気持ちは、単純ではありません。……陛下もそれをご存知だからこそ、伴侶に愛情は求めないと、そう決めていらっしゃるのではないですか」  グレンの言葉が、胸に触れた。  それは、レオンハルトが長年掲げてきた結婚観だ。  王の伴侶は、国にとって有益かどうかが第一で、個人の感情を含めてはいけない。  娶り、次代の血を残す――必要なのはそれだけだ。  相手に愛されているか、自分が相手を愛しているか。  合理性を欠く感情は、判断を鈍らせるだけで、何の役にも立ちはしない。 「そうだったな」  自分に言い聞かせるように、レオンハルトは頷いた。  そうしながらも、どこか納得いかない様子のレオンハルトに、グレンがひとつ息を吐く。 「出過ぎたことを申しました。薬についての王太子殿下の本心は計りかねますが、面談を打診したところ、明日には会ってもいいと、お返事を頂きました」 「……本当か?」  レオンハルトの声が、わずかに低くなる。 「はい。ですが陛下――」 「体調は?」  グレンの声を遮るように、問い返していた。 「本当に大丈夫なのか?」 「明日には、ほぼ回復されているかと」  そう答えたグレンが、視線にかすかな感情を滲ませて、レオンハルトを見る。 「……発情期の彼に会うのが、そんなに怖いのですか」 (怖い、だと?)  言葉を心の中で反芻し、レオンハルトは気づいた。  発情期の彼の前で、あのフェロモンの中で。  ベータを偽り続けること。  触れないと言う約束を、守り通すこと。  それができるのか――自信が揺らいでいることに。  レオンハルトは、深く息を吐いた。  怖いのは、ルシェ自身でも、彼のフェロモンでもない。  自分自身の、心の変化だ。 「明日伺うと、伝えてもよろしいですか」  少しの沈黙のあと、レオンハルトは頷いた。 「ああ……頼む」  そう応える彼の声にはわずかな迷いがあったが、グレンは何も言わず、一礼した。  ◇ ◇ ◇ 「ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした」  レオンハルトが部屋に入ると、ルシェはすぐにそう言った。  整えられた声と、穏やかに見える表情。  発情期は、すでに抜けている。フェロモンの濃さがそれを示していた。 「お忙しいヘルダー伯爵のお手を、煩わせてしまいました」  流れるような言葉遣い。  この場のために用意してきたようなその台詞に、まるで二人のこれまでの関係を白紙に戻された気がして、レオンハルトの胸の奥が、小さく疼く。 「構いません。私が望んで、やっていることです」  そう返しながら、手にしていた包みを差し出した。  小さな花束だった。  菓子にするべきか、果実にするべきか、それとも何も持たずに来るべきか。  店先で長く迷った末に選んだものだ。 「これを、貴方に」  ルシェはわずかに目を見開いたあと、少し遅れて、花束を受け取った。  受け取ってもらえたことに、レオンハルトは安堵した……が、直後、この部屋に花瓶がないことに気づく。  買い物に同行し、この部屋に何度も使用人として訪れたグレンが、そのことに気づかないはずがない。わざと指摘しなかっただろう側近へと心の中で恨み言を呟きながら、レオンハルトは頭を下げた。 「かえって、ご迷惑でしたか」  ルシェは首を横に振った。 「いいえ。貴方から頂いたものは、なんでも――」  ルシェは言葉を切り、目を伏せた。  沈黙が、二人の間に落ちる。  以前なら、すぐに別の話題を口にできただろう。  だが、今はなぜか言葉が見つからなかった。  沈黙の奥にあるものを、ルシェの表情のわずかな変化を、見過ごしてはいけない気がした。  なぜ薬を飲まなかったのか。その理由が知りたい。  自分が踏み込むべきではないと、思いつつも。 「……発情期の周期は、把握しておられるのですか」  気づいたら、口に出していた。  ルシェの体が、びくりと震える。 「申し訳ございません。不躾なことを」  だが言葉にしてしまった以上、取り消せない。  レオンハルトは息を吐くと、ルシェに薬について語った。  副作用のことも、初めて服用することへの不安も理解していると前置きした上で、それでも、発情期を薬なしで耐えるのは無謀だ、と。  レオンハルトの言葉を黙って聞いていたルシェは、しばらくの沈黙のあと、静かに言った。 「薬は……飲みません」  なぜ、と咄嗟に言いそうになり、レオンハルトは唇を噛んだ。  理由は知りたいが、今問うと、彼を責めることにもなってしまう。  ルシェは、一度花束へと視線を落とすと、再び口を開いた。 「三人のアルファたちにも、もう抱かれません」  その言葉が、レオンハルトの胸の奥をざらつかせた。  クレインとガルドが相手だったのは知っている。 (もうひとり、いたのか……)  そしてルシェの口から語られたことで、レオンハルトは改めて実感した。  発情期にこの部屋で、ルシェの身に起きていたこと――その光景が、レオンハルトの脳裏に生々しく思い浮かぶ。  その途端、怒りに似た感情が湧き上がった。  それが何に向けられたものなのか掴めず、レオンハルトの思考を邪魔した。 「なぜ、薬まで排除しようとするのです」  責めたくないと思っていたはずが、問い詰めてしまった。  ルシェは一瞬、目を見開き――すぐに唇を引き結ぶ。 「貴方には関係のないことです。いつ国を出ていくかわからない、貴方には」  そう言ったルシェ本人が、一番その言葉に驚いているようだった。 「確かに私は他国の人間ですが、貴方を案じる気持ちに嘘はありません」 「それでも、いつかは帰るでしょう」  ルシェの言葉を、レオンハルトは否定できなかった。 「……俺のことなんて、放っておけばいい」  その声音は、王太子としてではなく、ひとりの人間のもののように聞こえた。 「なぜそのように、自分を貶める言い方をするのです」 「事実だからです。オメガの役目を果たせず、その上フェロモンを垂れ流す卑しい者のことなど、考える必要はありません」 「フェロモンのことは貴方の所為ではないでしょう。オメガであることも。貴方もいずれは――」 「抱かれることしか、価値はない」  レオンハルトの言葉を遮るように、ルシェは言った。 「俺にはもう、それしか価値はないのです」 「それは違う」  レオンハルトは否定した。 「貴方の価値は、誰に抱かれるかで決まるものではない」  ルシェの紅紫色の瞳が、レオンハルトを見つめた。  そこにあるのは、ただただ静かな凪だった。 「……貴方は、ベータだからそう言える」  全ての感情を排したような声で、ルシェは言った。 「アルファは、みんな俺を抱く」  彼の声に、一切の揺らぎはなかった。  それが真実だと、誰よりも彼自身が一番信じているのだ。 (そういう世界で、生きてきたのか)  そしてこれからも、その世界で生きようとしている。 「貴方もアルファだったら、俺を抱いていたでしょうね」 「……俺が貴方を抱いたら、貴方は救われるのか」  レオンハルトの言葉は、ルシェの瞳にわずかな感情を戻した。 「救われると言ったら、貴方は俺を抱いてくれるのですか」 「貴方が、心からそれを望むのなら」  けれど、そうはならないと、レオンハルトは信じていた。  発情期をひとりで耐え抜いた彼が、一時の救いのために手を伸ばすことなどないはずだ、と。  レオンハルトの眼差しから何かを感じ取ったルシェが、小さく笑う。  けれどその笑みには、安堵とは真逆の、諦めが深く滲んでいた。 「貴方がそういう人だから……俺は……」  ルシェは呟くと、レオンハルトを見つめた。  自分を見つめる眼差しの、諦めの奥にあるかすかな光。  掴みきれないそのひとひらに触れたレオンハルトの心に、彼が今まで抱いたことのない、名も形も持たない何かが生まれた。 「貴方の価値を肯定するためならば、俺はなんでもしよう」  生まれたばかりのそれを自覚しないまま、レオンハルトは言葉を告げていた。 「だが俺は……たとえ俺がアルファであっても、今の貴方を抱くことはない」  ルシェが、小さく身じろいだ。 「触れないと、約束した。そうしたのは、決して貴方に価値がないからではない。俺がベータでも、アルファでも……そして貴方が何であっても、それは貴方の価値を決めるすべてにはならない」  レオンハルトは、ルシェを見つめた。  この言葉が届いて欲しいと、願いながら。 「……貴方は、本当に優しい」  ルシェの声は、その言葉とは裏腹に、低く冷え切っていた。  レオンハルトの言葉は届いていない。否、届いてもなお、彼の心の壁を越えるに至っていないのだ。  ルシェの中にある価値観。  彼をかろうじてこの世界に繋ぎ止めている存在意義。  この閉ざされた塔の中で、彼が縋ってきた、彼の世界。 (そんな枷など、壊してしまえばいい)  レオンハルトの心に、抑えられない衝動が湧いた。 (ベータの俺で無理ならば……)  レオンハルトは、静かに息を吸った。 「……貴方を騙していたことを、謝罪します」  驚いたようにこちらを見上げるルシェの顔を、まっすぐ見つめる。 「俺は、ベータではない」 「え……」  嘘だ、と、ルシェが小さく呟いた。  レオンハルトは、ゆっくりと深呼吸をすると、ほんのわずかに、アルファのフェロモンを解放した。 「あ……」  体を震わせたルシェの手から、花束が落ちる。  それを拾い上げようと近づいた途端、ルシェが一歩後ろに下がった。 「嘘だ……」  ふるふると首を振りながら、ルシェは後退した。 「貴方は……ベータで……だから、俺を抱かないって……」  ゆっくりと後退るルシェの足が、ソファの端にぶつかる。 「信じない……そんなことは……!」  まるでそう叫ぶことで、自分を守っているようにも見えた。 「貴方はアルファを騙っている……そうですよね?」  レオンハルトは、首を横に振った。  アルファのフェロモンに触れたルシェにも、そのことはわかっているはずだった。  わかっていてもなお、信じていたものが崩れていく恐怖が、彼の耳を塞いでいる。  だからこそ、レオンハルトは、告げなければならなかった。  彼の逃げ場を断つ、決定的な一言を。 「俺の名は、レオンハルト・ヴァルテア。貴方でも、ヴァルテアの王がアルファなのは、ご存知でしょう」

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