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第10話 罪なる聖域
レオンハルト・ヴァルテア――ヴァルテア王国の若き王。
塔の中で育ったルシェでも、その名前は知っていた。交流を結ぶにあたり、事前に資料を渡されていたこともあるが、それ以前から、彼の功績を書物で知り、その人物像に触れていたからだ。
同じ王族でありながら、あまりにも遠い彼の存在は、ルシェにとって神話も同然だった。
嘘だと、ルシェは否定しようとしたが、その言葉は胸に浮かんだ途端に掻き消えた。
目の前に立つ彼の姿、そしてこれまでヘルダー伯爵として相対してきた彼の一挙一動、わずかだが触れたアルファフェロモン――その全てが、彼がヴァルテア国王であることを示していた。
なぜ名乗られるまで気づかなかったのか。
それが不思議なほどに、彼は完璧なアルファだった。
「あ……」
途端、ルシェの全身から力が抜けた。
座り込んだ彼に、レオンハルトが咄嗟に近寄ろうとする。ルシェはそれを、手で制した。
(ああ……そうか……)
その時、ルシェの脳裏に、唐突に浮かんだ景色があった。
実際には目にしたことのない、広い海原。
子どもの頃、塔を訪れた母親から貰った、小さな額絵。
広い海原にぽつんと浮かぶ、一隻の小舟の絵だ。
その絵を見たときにルシェが抱いたのは、初めて知る景色に対する高揚感ではなく、途方もない孤独感だった。
とても美しい絵なのに、なぜそう感じてしまうのか、あの時は不思議だった。
けれど今は、痛いほどわかる。
『塔から出たら、一緒に見に行きましょうね』
そう約束してくれた母親は、翌年、病でこの世を去った。
「……なぜ薬を飲まないのかと、お尋ねになられましたね」
俯いたまま、ルシェは言った。
「薬を飲んで、それが効いたら……」
言葉に出しながら、ルシェは少しだけ笑った。
「それまでアルファに抱かれ、彼らを受け入れ、溺れていた私は、どうなるのでしょうか」
レオンハルトの息を呑む気配が伝わってきた。
薬を飲まなければ、気づかなくて済む。
淫らな自分を、発情期の所為にできる。
「……私はそういう、浅ましい人間なのです」
「何を言うんだ。貴方は――」
レオンハルトの言葉を、ルシェは頭を振って否定した。
「貴方は、本当の私を知らないから、価値などと、簡単におっしゃるのでしょう」
「本当の貴方とは何ですか」
(……そこまでは、まだ知らないのか)
そのことを――欠陥であることを、自分の口から伝えることは、ルシェにはできそうになかった。この完璧なアルファを前に、見栄を張りたいなどとは思いもしないが、どうしても、言えそうになかった。
「……本当に、私は愚かでした」
レオンハルトの問いから逃げ、ルシェは息を吐いた。
「貴方がヴァルテアの王とわかり、気づけました。貴方が私に決して触れない理由。大国の王である貴方が、私のような者を相手になど……ありえないことです」
「違う」
レオンハルトの鋭い声だった。
「貴方にそんなことを言わせるために、身分を明かしたのではない」
ルシェは、首を左右に振った。
どこまでも優しい人だと、思った。
ヘルダー伯爵の時からずっと。
その優しさに触れ、つい、欲を抱きそうになってしまった。
「……次の発情期には、必ず薬を飲みます」
ルシェは、静かに立ち上がった。
深呼吸をし、顔を上げ、レオンハルトを見つめた。
おそらくこれが、彼の顔を見る、最後になるだろう。
「ヴァルテア国王陛下……とても……楽しい時間でした」
彼の相貌――その灰青色の瞳を目に焼き付けたあと、涙で滲んでしまう前に、ルシェは深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
「ヘルダー伯爵。……陛下……レオン!」
その声に、レオンハルトはハッとした。
馬車の中だった。
どうやって部屋を出たのか、ここまで帰ってきたのか、記憶が定かではない。
顔を覗き込んでいたグレンが、短く息を吐き、身を引いた。
「グレン……俺はまた……間違えてしまったのか?」
間違えた、そんな簡単な言葉で済まされることではなかった。
彼を繋いでいる枷だけを壊したかったのに、差し出したつもりの手は、彼の心まで傷つけてしまった。
「間違えたのだとは、思いません。ただ……」
レオンハルトは、グレンの言葉を待った。
「貴方は強く、そして決して、自分を特別な存在などと驕り高ぶらない。それは貴方の美点ですが、それ故に、他者に対しても自分と同じ尺度で測ろうとする」
グレンが何を言いたいのか、レオンハルトは気づいた。
「人の弱さを、貴方は知らなすぎた」
そう言われても、レオンハルトはやはり、ルシェを弱い存在とは思えなかった。
ただ、見誤っていたという点では、グレンの言葉は的確だったのだろう。
レオンハルトは深く息を吐いた。
その目が、先を見据えていることに気づいたグレンは、安堵した。この王は、前に進むことを恐れない。
「俺は何としてでも、もう一度、彼に会わねばならない」
決意の籠った眼差しと力強い声。
それは王の姿をしていたが、同時にひとりの男でもあった。
「お前にも、手を貸してもらうぞ」
灰青色の瞳を、グレンは見つめ返した。
(貴方の頼みであれば、それが何であれ、俺は身命を賭して従うが……)
この強く賢明な王の、これまで持たなかった、敢えて排除していた感情。
(この人は、自分の中にあるそれに、果たして気づいているのだろうか)
そして自覚した時、彼はどう動くか。
グレンは想像してみたが、どの答えも現実味を帯びず、ただ彼の言葉に頷きを返した。
◇ ◇ ◇
数日後。
ルシェは、使用人以外の一切の来訪を断り続けていた。
使用人として引き続き入室の許可を得ているグレンによると、自暴自棄になることはなく、むしろ規則正しい生活を続けているらしい。
レオンハルトの臣下であるグレンを受け入れているのは、そうした姿を見せることで、レオンハルトに、もう自分には構わないでほしいという思いを伝えたいのかもしれない。
どうであれ、レオンハルトはグレンからの報告を唯一の頼りに、何度拒絶されても、毎日の訪問を止めなかった。
塔からの帰り、ひとり馬車を降りたレオンハルトは、街角にある紅茶専門店の前で足を止めた。以前ルシェに伝えたものの、結局渡すことがなかった珍しい茶葉を取り扱っている店だ。
この期に及んで贈り物などしても、彼の心を動かせないだろう。
しかし、では何をしたら良いのか、情けないことに何ひとつ思い浮かばなかった。
グレンには「何としても会う」などと言ったが、実際にやっていることは、毎日同じ時間に、塔に通い続けることだけだ。
王室に通達すれば、容易に叶うだろう。
しかしそこに、ルシェの意思はない。
(会うだけでは、何も解決しない。俺が求めているのは――)
「ヘルダー伯爵、と呼んでよろしいでしょうか?」
不意に声をかけられ、レオンハルトは振り向いた。
身なりの整った、学者風の容貌の男が、レオンハルトに一礼する。どこか見覚えのあるその顔に、レオンハルトは眉根を寄せた。
「失礼。どこかでお会いしましたか」
ヘルダーの顔で応じながら、レオンハルトは記憶を探った。
「覚えてはおられないでしょう。もう十八年ほど前になります」
男の言葉に、レオンハルトは即座に警戒した。
ヘルダーと呼んでおきながら、彼は王太子時代のレオンハルトに会ったと言う。そんな人間は、この国にはいないはずだった。
「怪しい者ではありません……王太子殿下の件、と言えば興味を持って頂けるでしょうか」
男は、近くの公園を示すと、歩き出した。
ルシェのことだと言われ無視するわけにもいかず、レオンハルトは怪しみながらも男についていった。
人の少ない木陰まで歩くと、男は立ち止まった。
「私はレリウスと申します。貴方様とは、一時期同じ学舎で学ばせて頂きました」
レオンハルトの記憶に、ヴァルテアではあまり見ない風貌の、年上の少年の姿が浮かんだ。
「ウズナ公国からの留学生……」
「覚えて頂き恐縮です。国交がない状態では直接入国はできませんでしたので、当時はウズナ公国のツテを頼らせて頂きました」
「王太子殿下の件というのは……」
男――レリウスは小さく笑うと、懐から喫煙具を取り出した。
「私は帰国後、殿下の家庭教師を務めておりました」
「家庭教師……?」
レオンハルトはその言葉を反芻したあと、レリウスを睨みつけた。
「貴公ほどの者が家庭教師として傍にいながら、なぜ、あのような状況を許した?」
「何の話でしょうか」
「我が国で学んだのなら、発情期を鎮める薬の存在を――知らぬはずがない」
ヴァルテア王国では、そうした薬は昔から当然のように使われてきた。しかもレオンハルトと同じ学舎にいたということは、王族や一部の貴族たちが行うフェロモン関連の訓練も知っていたはずだ。
「……オルディア神教はご存知ですか」
レリウスは喫煙具に火を点けると、ゆっくりと煙を吐き出した。
「オルディア神というのは、一説によるとオメガを神格化したとも言われております。……もっとも、今では笑い話に近い。信じているのは、時代に取り残された人間だけです」
煙が、レオンハルトの鼻先に触れた。
その嗅ぎ慣れた樹脂の匂いに、レオンハルトは口を開きかけたが、先にレリウスが言葉を発した。
「……オメガフェロモンを鎮めてはならぬ。それが発情期を聖なる営みへと変え、それにより生まれた子は神へ至るだろう、とね」
レリウスがちらりと視線をあげる。それを追うと、遠くに、夕陽を受けて輝く大聖堂の尖塔が見えた。
「諸国を渡り帰国した私は――私も大概青かったのですが、王室に薬のことを直談判しに行きました。王太子殿下をひどく心配されていた王妃殿下が身罷れたこともあり、これでお心が晴れればと」
レリウスは言葉を切った。
「……どうなったのだ」
焦れたレオンハルトに目線だけを向け、しばらくしてから、煙を吐き出す。
「現状を知る貴方ならおわかりでしょう。国王はまるで取り合ってはくれなかった。家庭教師の任についたものの、医者も薬師からも協力は得られず、碌に賃金も与えられず。結局ひとりで作れたのは……これだけだった」
レリウスはもう一度深く煙を吸うと、レオンハルトの顔に向かって吐き出した。
「この匂い……やはり……」
塔の蝋燭に仕掛けられていた抑制剤と同じ匂いだ。
「貴方の国の抑制剤に比べたら、紛い物もいいところでしょう。のちに常用の薬も仕入れたが、それだって大した効果はありません」
「……オルディア神教は政治から距離を置いていると聞いた。実際は裏で繋がっていたのか?」
「いいえ。そんなきな臭い話ではありませんよ。先ほど私が語った教義も、一般市民で知る者など、今ではほとんどおりません」
ただ、とレリウスは視線を伏せた。
「先代国王が熱心な教徒だったのです。現王もその影響を強く受けた。そして、その息子があの方だった。本当に、ただそれだけのことだったのです」
この国の、この時代の王族に生まれた。
それがルシェから尊厳を取り上げ、存在意義を穢し、塔に縛り付けた。
「薬のことを言いすぎたのか、元々疎まれていたのかはわかりませんが、私もその後、家庭教師の任を解かれ、今では王都のしがない教師です」
レオンハルトが口を開くより先に、レリウスが首を横に振った。
「貴方様に憐れんで頂く必要はありません。それに私は……アルファですから」
その言葉だけで、レオンハルトは察した。
彼が、三人目のアルファであることを。
「……貴公は、過去の話をするためだけに、私を呼び止めたのか」
レオンハルトが低い声で言うと、レリウスは煙を燻らせながら、どことなく遠い目をした。
「流され自暴自棄となった私は、あのまま流され続けてもいいと思っていました。けれどあの子が……「先生」などと呼ぶものですから」
そう語ったレリウスは、視線をレオンハルトへ向けた。
「この国からあの子を連れ出せるのは、貴方だけでしょうね」
けれど、とレリウスは言葉を続ける。
「国王でアルファでもある貴方は、それができない」
「……どういう意味だ」
聞き返すと、レリウスは意外そうに口端を緩めた。
「貴方もわかっているでしょう。ヴァルテア国王が、オメガであるルシェ・ローディア王太子殿下を連れ出す意味を」
王族のアルファとオメガ。
それはすなわち、婚姻を意味する。
「それとも、ヘルダー伯爵として連れ出しますか。そしてヴァルテア国内のどこかにある塔で彼を――」
「彼を連れ出す時に、俺は身分を偽らない」
「……本当にそれができたら、あの子は」
レリウスは言葉を切ると、喫煙具の灰を落とし、懐にしまった。
「それならなおさら、貴方には不可能だ」
「なぜだ」
「私は貴方の結婚観を知っています。国王である貴方は、血を残すことを大前提としている」
それは王族であれば当然のことだ。
そう思ったレオンハルトは、レリウスの言わんとしている意味に気づき、愕然とした。
「まさか……」
「ええ、それが、彼が塔に幽閉されている、最大の理由ですよ」
冷たい風が、レオンハルトの黒髪を撫でた。
「……ああ、短い夏ももうすぐ終わる」
レリウスは、夕闇色に染まりかけた空を見上げた。
レオンハルトも空を仰ぐ。赤色と菫色が混じったその色は、ルシェの紅紫色の瞳を思わせた。
「それでも貴方は、あの王子を塔から攫うのですか?」
呟くように発せられたその言葉は、レオンハルトの胸の奥に沈み込み、いつまでも消えなかった。
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