11 / 18

第11話 香りが消えるまで

 深い静寂の中、ルシェは目を覚ました。  ゆっくりと身を起こし、ベッドから降りる。  窓の向こうに広がる森は濃い霧に覆われ、薄ぼんやりとした朝の明かりが、夏の終わりを告げていた。  浴室で顔を洗い、用意された服を身につける。  昨日着た服よりも、わずかに布地が厚い。秋になれば、また違う服が用意されるのだろう。  服が変わっても、それに覆われる肌や肉、骨は変わらない。  そんな当たり前のことをつい考えそうになり、ルシェは首を振って思考を追い出した。  部屋に戻り、読書机の椅子へと、腰を落とした。  一日の大半を、ルシェはここで過ごす。  本を読み、食事をし、窓の外を眺め、また本を読む。  繰り返される生活は、思考を遠ざけてくれる。  そうやってただ生きていれば、余計なものはいずれ、隙間に落ちていくはずだった。  ただ――。  ふとした拍子に目に入る、それ。  珈琲の入っていた袋、菓子の空箱、萎び始めた花束……それらが。  ルシェに、扉の向こうに立つ人の姿を、思い出させた。 「失礼します」  ノックに続いて重い扉が開き、使用人のカイが姿を見せた。  レオンハルト側の人間である彼を、なぜ今も受け入れているのか、ルシェにはわからない。  自分が変わらず生きていることを、カイを通して彼に伝えたいのか。  カイだけが、彼との繋がりだからか。  ルシェは小さく息を吐いて、また思考を追い出した。 「朝食をお持ちしました」  カイが運んできたベージュ色のスープから、甘いナッツに似た匂いがした。 「私の故郷に伝わる料理です」  スプーンを持つルシェの手が止まった。  故郷の味。これを、あの人も口にしたのだろうか。 (また……俺は……)  隙間に落ちていくはずの思考は、ぽろぽろ溢れてそこら中に転がっている。  再び息を吐くルシェを、カイはしばらく見つめた。  その目が不意に、ルシェの足元――積み上げられたそれらへと向けられる。 「……お食事の間、部屋の片付けをさせて頂いてもよろしいでしょうか」  ルシェは答えなかった。カイもそれはわかっている。  この部屋で、会話は一切行われない。  同じ朝、同じ昼、同じ夜。  繰り返される毎日を、ルシェはただ、受け入れている。  時間をかけてスープを飲み終えたルシェが、席を立った。  用を足しに行くのだろう。  そして戻った彼はまた窓の外を眺め、知らず溜め息をつき、椅子に座り、彼がよすがとする殻へと籠るのだろう。 「そうであっても俺は一向に構わない。だが……」  ひとり呟いたカイは、読書机に近づき身を屈めると、殻に縋りつく彼が未だ捨てられないそれへと、手を伸ばした。 「あ……」  部屋に戻ったルシェは、カイが菓子の空箱を手にしているのを見て、思わず駆け寄った。 「それは……」 「殿下には必要のないものでしょうから、捨てさせて頂きます」  そう言ったカイが、空箱を、持っていた袋へと投げ捨てる。 「あっ……」 「これも、これも、必要ありませんね」  カイが花束を掴む。かろうじて形状を保っていた花は呆気なく解け、花弁がはらはらと落ちた。  ルシェは落ちた花弁のひとつひとつを拾い上げると、胸に抱いた。 「こちらに」  袋を差し出され、ルシェは首を左右に振った。 「私はいつでも捨てますよ。貴方が寝ている間、入浴の間、部屋を出たわずかな時間であっても」 「なんで……」 「必要ないからです。貴方の行動が、そう語っている」 「俺は……」  ルシェは否定の言葉を紡げなかった。  ただ繰り返されるだけの、同じ毎日。  それはすべて、追い出すためのものだ。  考えたくないことに、意識を向かわせないために。 (だったら彼の言う通り、捨ててもいいはずなのに)  ルシェは手の中にある花びらを見つめた。 (なんで俺は、手放したくないと思ってしまうんだ) 「これらの他にも、捨てるべきものは、まだありますか」  カイの言葉に、ルシェは反射的に机の引き出しに飛びついた。一番下の引き出しを守るように背にして、カイを見つめる。 「これは……だめです」  答えは出ない。  ただ、嫌だという感情だけは、偽りなくルシェの中に存在していた。  カイは、そうしたルシェを特に驚く様子もなく見つめ返したあと、ひとつ息を吐いた。 「……私は、貴方個人のことなどどうでも良いが」  カイは呟くと、持っていた花束をルシェに返した。 「主をそろそろ国に帰したい。扉越しにでも直接声をかけて、言ってやってはくれませんか」 「……なにを?」  ルシェが問うと、カイの冷淡に見える表情が、ほんの少しだけ変わった。 「その時に、貴方が言いたいと思ったことを」    ◇ ◇ ◇  その日の、午後。  ノックの音が、部屋に響いた。  扉の前に立っていたルシェは、ゆっくりと額を寄せた。  冷たい鉄の感触に、波打つ鼓動を落ち着かせる。 「……今日も、来たんですね」  扉の向こうで、気配がわずかに揺れた。  この時間、毎日告げられた来訪の合図に、返事をしたのは初めてだった。 「……貴方はすぐに、国に帰るのだと思っていました」  そう言いながらも、本当に、その音が消えたら。  残された贈り物もすべて、なくなってしまったら。  その先を考えるのが――たまらなく怖い。  ルシェは、扉に手を添えた。  この扉を、自分の手で開けることを諦めたのは、一体いつからだろうか。 「すぐ帰るつもりならば、名は明かさなかった」  静かなレオンハルトの声が、ルシェの肌に伝わった。  その穏やかな声音に、ルシェは、胸の奥に小さな光が宿るのを感じた。  けれどそれはあってはならない、見つめてはいけないものだ。 「……私などに、構う必要はないでしょう」  レオンハルトが、低く息を吐いた。  その吐息の意味から逃げるように、ルシェは言葉を続けた。 「貴方のことは、誰にも告げません」 「告げない……とは?」 「ヘルダー伯爵が、ヴァルテア国王陛下であることです。未だ私の周囲が静かなのは、そのことを王室に知らせてはいないのでしょう」  ルシェが秘密を守っているのを、確認しに来ている。  そう思うと、なぜだか気持ちが楽になった。 「確かにまだ伝える時期ではないと思っているが、貴方が誰に告げたとしても、それは些末なことだ」  ――では、なぜ?  咄嗟にそう問いたくなり、ルシェは他の言葉を探した。 「心配せずとも、私は誰にも言いません。もとより、こんなところに来る者はおりませんし、私がここから出ることもありません」  自分に言い聞かせるように、ルシェは繰り返した。 「貴方がいてもいなくても、私はずっと、ここで暮らします」  いなくても。  自分で言ったその言葉が、胸に刺さった。 「不自由はありません。陽は差すし、窓から景色も見えるし、それに――」 「鍵穴を塞いだ」  何を言われたのか理解できず、ルシェは言葉を失った。 「え……?」 「貴方は自由に、外へ出られる」  ルシェは、反射的に扉から身を離した。 (自由に……外へ……?)  そんなことが、できるわけがなかった。  物心つく前から、誰も――国王である父も、自分を愛してくれたはずの母も、誰ひとりとして、ここから出してはくれなかった。 (なぜ、彼が――)  口を開く。喉の奥が、ひくりと鳴った。 「……私を、外に出す、意味、を」  ルシェは息を呑んだ。  再び口を開く。  頭の中で、濁流に溺れる手が、ひとつの言葉を掴んだ。 「私のようなオメガが、珍しいから、ですよね」  声に出すと、それが唯一の真実だと思えた。 「でなければ理由がない。貴方はご存知ですか、私が……私が……」  扉に額を押し付けるルシェの口許は、わずかに歪んでいた。 「……私に……生殖能力がないことを」  レオンハルトの気配は変わらない。  知っていたのか。そう思った途端、乾いた笑いが漏れた。 「ああ、やはり」  ――期待しないで良かった。  心の中で、もうひとりの自分が囁いた。 「……私みたいなオメガは、さぞ都合がいいでしょう。男だから多少乱暴にしても壊れない。国に持ち帰り、貴族の玩具にでもするくらいの価値しか」  一気に喋ると、喉の奥が絡まって短い咳が出た。  途端、涙が零れそうになり、ルシェは唇を結んだ。 「……それが、貴方の本心なのか」  今まで聞いたことのない、低いレオンハルトの声だった。 「私が浅ましいのは、貴方も知っているはず」  沈黙が落ちた。  だがすぐに、それはレオンハルトの溜め息で終わった。 「……俺は貴方に何ひとつ、伝えられていなかったのだな」  ルシェが顔を上げるのとほぼ同時に、レオンハルトの声が響いた。 「そのことが、よくわかった」  ルシェは咄嗟に手を伸ばし、扉に触れた。  けれどいつだって、後悔すらも、自分の手には届かないのだ。 「ここには、もう来ない」  その言葉を残し、レオンハルトは去っていった。  靴音が消え、静寂が戻った時。  ルシェは、自分が本当は何を望んでいたのかを、思い知った。    ◇ ◇ ◇ 「――っ!」  ルシェは飛び起きると、ベッドの上で深く息を吐いた。  外は漆黒に包まれ、朝の気配は程遠い。  ベッドから降り、壁を伝うようにゆっくりと歩く。冷たい石床を踏む素足は、すぐに刺すような痛みを訴えたが、ルシェは気に留めることなく歩き続けた。  何度目を閉じても、完全に眠りに落ちる直前に、レオンハルトの声が蘇って鼓動が速くなる。  違うと、言って欲しかった。  いつもの声で、たとえ嘘でも、認めて欲しかった。  そんな自分の愚かさが、彼を怒らせた。 (あの人は二度と、ここへは来ない)  その事実が、ルシェの呼吸を浅くする。 「……ひとりは……慣れてる」  夜闇の中、歩きながら、ルシェは呟いた。 「これで良かったんだ……」  言葉にしないと、真逆の感情が湧き上がりそうだった。  ルシェの足が、拾い零れていた花弁を踏んだ。かさりと砕けたその感触に、立ち止まる。 「俺が……壊した……」  跪き、もう戻らないそれに触れる。 「ごめんなさい……」  命を潰えた花弁に対してか。  向き合おうとしてくれた彼に対してか。  未だ蹲ることしかできない、自分に対してか。  ルシェの揺れる眼差しが、カイから守ろうとしたその場所へと向けられる。  無意識に手を伸ばし、引き出しの取っ手を掴んだ。  ほんのわずかに開かれた隙間から、ホーリークローバーの香りが漂った。  ルシェの指から力が抜ける。  これまでの記憶や言葉が、香りに混じってほどけていく。  手の中に留めていられるものなど、最初から何ひとつなかったのだと、告げながら。  この残酷なほど優しく甘い残り香は、しばらくの間、ルシェの周囲から消えなかった。

ともだちにシェアしよう!