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第12話 風の行方
王都の高級宿『白兎の枝』は、早朝から騒がしかった。
食堂にヴァルテアの使節団のほぼ全員が集まり、各々がこれまで見聞きした情報をまとめ、意見を交わしている。
一同を見渡せる席で報告書を読み終えたレオンハルトは、それを傍のグレンへと手渡した。ここ数日、ここにいる誰よりも精力的に動いていた彼の顔には、疲労の色が滲んでいる。
レオンハルトが灰白の塔への訪問を取り止めてから、十日が経った。彼は自身の宣言通り塔へは近づかず、話題にも出さなくなった。さらにグレンも引き上げさせ、塔とは完全に距離を取っている。
そして、その代わりと言わんばかりに、彼は政務に取り組んだ。建前上、ヘルダー伯爵は使節団の代表になってはいるが、元々は休暇が目的だ。国王として多少の口出しはしていたものの、主な実務は使節団の面々に任せていた。
そんなレオンハルトが急にあれこれと動き出したので、比較的のんびりと進めていた一同も、王に成果を見せるべく邁進しているのだった。
「少しはお休みに……と言っても、聞き入れては頂けなさそうですね」
別の報告書に目を通していたレオンハルトは、訝しげにグレンの顔を見た。彼のそんな口調は珍しくないが、そこに滲む感情の意図を読み取れなかったからだ。
「俺に何か隠していることでもあるのか」
告げると、グレンは困ったような、諦めたかのような表情を浮かべた。
「貴方に偉そうに説教をしておきながら、失態を犯してしまいました」
「何をだ」
「王太子殿下に、貴方とのあの扉越しの会話を承諾頂く際、言いたいことを言うように、と。彼はまだ混乱の中にあったのでしょうに、私が無理に背を押してしまいました」
レオンハルトはわずかに目を見開き、それから何かを考え、ゆっくりと首を振った。
「俺があそこへ赴く限り、いずれは同じことになっていただろう」
「ですが陛下……」
「そんな顔をする暇があるのなら、俺の手足として働け」
グレンがハッと顔を上げた。
口端をわずかに吊り上げたレオンハルトが、一通の書簡をグレンへと差し出す。
「これは……」
宛先の名を見たグレンの眉が、かすかに動いた。
「五日後に、帰国する。それまでの間、やれることをやらねばな」
レオンハルトはそう言うと、再び報告書へと視線を落とした。
◇ ◇ ◇
数日ぶりに部屋へと訪れたカイ――グレンから、名前を偽っていたことを謝罪されたルシェは、特に驚くことなくそれを受け入れた。ヘルダー伯爵が国王であったのだから、それに付き従っていた者も身分を偽るのは当然だった。
けれど、そう応じながらも胸がざわついたのは、目の前の彼が、わざわざそのためだけにここに来たのではないことを、察していたからだ。
「帰国……?」
覚悟はしていたつもりだったが、実際に耳にした途端、そんなものは幻だったと気づく。
力の抜けかけた足をなんとか踏ん張らせる。そうしてから顔を上げたルシェに、グレンが深く頭を下げた。
「以前は、殿下の大切にしていたものを粗末に扱う真似をしてしまい、申し訳ございませんでした」
ルシェは首を横に振った。誰よりも粗末に扱っていたのは自分だった。
物も、言葉も、それらを向けられた自分自身さえも。
グレンもそう思っていたから、突然あのようなことをしたのだろう。
今のルシェには、それがよくわかる。
「俺のことを気にかけてくれて、ありがとう」
グレンは顔を上げると、変わらず儚げなルシェの相貌を見つめた。
彼に伝えたいことは大いにあったが、どの言葉も自分が口にすべきではないと、心の中で戒める。
それでも、どうしても確かめたいことがあり、グレンはわずかな逡巡のあとに口を開いた。
「……ひとつ、質問をしてもよろしいでしょうか」
ルシェが頷いたのを見て、グレンは慎重に言葉を選んだ。
「貴方のこれまでの人生を思えば、バース性と切り分けて考えることは、現実味がないのかもしれませんが……」
そう前置きし、ルシェを見た。
「もし、貴方が何者でもないただの人で、彼も同じだったら、貴方は彼を選びますか?」
「選ぶ」
ほとんど反射的に、ルシェは答えた。
グレンの言う『彼』が誰を指しているのか説明せずとも、ルシェの中では、初めからたったひとりしかいない。
ルシェは、迷いのなかったその声とは裏腹に、まつ毛を震わせ目を伏せた。
「……ごめんなさい、忘れてください」
ルシェのその姿を見たグレンの脳裏に、なぜか遠い昔に見た、王太子時代のレオンハルトの姿がだぶった。
身分を明かしながらも、ただの友人として接していた時だ。グレンの故郷の村にほど近い場所にある湖のほとりで、そこに映る水鏡の景色にひとしきり感動した彼は、そのあとぽつりと呟いた。
『お前が羨ましい』
いずれ王となりすべてを手に入れられる立場であっても、そんな弱音を吐くこともあるのかと、レオンハルトの横顔を見つめながら、グレンは思った。
けれど、彼のそうした弱さを、グレンは眩しくも感じたのだ。
「不躾な問いのお詫びになるかわかりませんが……」
顔を上げたルシェに、グレンは言った。
「我が主は、国のために尽くすことを第一に考えておられます。それ故に彼は昔から――王太子だった少年の頃から、結婚というものに情を絡めてはおりませんでした。国の益になる相手との間に子を作るだけ、政務の一環だと」
「……王族ならば、それが正しいのでしょう」
そう言いながら、ルシェが切なそうに顔を歪める。
身分は権力を与え、時に自由を奪う。
その対価となったものの大きさを、誰も憂いはしない。
「あの木に何枚葉があるか、わかりますか」
グレンは、窓の外で揺れる木を見つめた。
「何百か、それ以上か。今まであの方が見合いを断った数です。隣国との関係を平定する条件として打診された時も、彼は頷かず、より険しい道を選んだ」
常に合理性を重んじるレオンハルトがその話を断ったのは、長期的に見て益がないと判断しただけなのか。それとも。
「常々結婚に情はいらないと公言していた彼が、そう言いながら未だに独身でいる理由……貴方ならわかるのではないですか?」
その問いかけは、そうであって欲しいという、グレンの願いでもあった。
王の道は孤独だ。
グレンは一生レオンハルトの傍を離れないと己に誓っているが、彼の心の一番近いところにはいられない。レオンハルトも、それをグレンには望んでいないだろう。
「貴方と彼は、同じなのかもしれませんね」
ハッと顔を上げたルシェに、グレンは苦笑した。
「喋りすぎました。どうかここだけの会話ということで」
そう呟いたグレンが、改めて、ルシェへと向き直る。
「我が主からの伝言です。『貴方の生きたいように生きて欲しい』と」
グレンはもう一度深く一礼をし、部屋を出ていった。
「生きたいように……」
ルシェの視線が、ふと扉の取っ手へと向けられる。
そこへと手を伸ばしかけ、だが触れる寸前、弾かれたように引っ込めた。
この扉を開き、外へ出ること。
ずっと願い続けていた夢は、今はもう現実だ。
それをわかってもなお、ルシェは夢の中から、動けずにいる。
知らなければ、見なければ、触れなければ。
与えられたものの中で、自分はこれで良いと、思い込むことができた。
今まで歩んできた道は、常にひとつで、歩いても、立ち止まっても、振り返っても変わらなかった。
けれど今は、すぐ目の前に、見たことのない標が置かれている。
「同じ……」
ルシェは、グレンの言葉をぽつりと呟く。
自分とレオンハルトとでは、見た目も、生き方も、何もかも違う。
彼は強く、完璧で、なんでも選べる人だ。
欲しても叶わない絶望から、手を伸ばすことを恐れることもない。
そう、思っていた。
けれど。
なんでも選べるからこそ。
選ぶことで失うかもしれないものを、彼は恐れているのだろうか。
(……もし、本当にそうだとしたら、俺が、彼に与えられるものは)
ついそんな考えが浮かび、ルシェは驚いた。
そんなものはないはずだった。
国に見放された、欠陥品の自分には。
ルシェの眼差しが、再び扉へと向けられる。
レオンハルトはもう二度と、この扉を潜ることはない。
国に帰り、彼だけの道をゆく。
王として歩み続ける彼は、立ち止まることも、振り返ることもしないだろう。
「そして俺はまた、ここで目を背け続けるのか……」
呟いた自分の声に、ルシェは身を震わせた。
自分の弱さを嘆いたのではなかった。
そんなものは、もう充分すぎるほどわかっている。
声と相反する言葉が、ルシェの胸中に放たれたからだった。
抱くはずのないその強い激情は、愕然とするルシェの胸の中で、ずっと叫び続けていた。
◇ ◇ ◇
レオン・ヘルダー伯爵が帰国する前日。
ローディア大王宮では、盛大な晩餐会が開かれていた。
入国初日に催された晩餐会でもそうだったが、レオンハルトは関係者への挨拶を済ませると、早々に人の多いホールから離れた。今更身分がばれて困ることはないが、余計な騒ぎも起こしたくない。
「ヘルダー伯爵」
人のいないバルコニーで夜風に当たっていると、背後から声がかかった。
レオンハルトは振り返り、会釈をした。同じ仕草を返したクレインが、隣へと並ぶ。
「塔の件ではご協力いただき――」
レオンハルトが言い終わらないうちに、クレインは「勘違いするな」と声を上げた。
「貴公のためではない」
ぶっきらぼうに言うクレインの横顔を、レオンハルトは眺めた。
灰白の塔の鍵穴を塞いだのは、レオンハルトの独断だった。
いくら有利な立場であるとはいえ、明らかな越権行為だったが、『クレインのサインが入った許可書』がどこからか出てきて、それは不問となった。
「貴公には、この国の冬の厳しさも味わって頂きたかったが、南方の男には堪えられぬか」
「生憎と私にはヨハ王国の血も混じっておりますので」
皮肉を躱す。クレインはつまらなそうに横目でレオンハルトを睨むと、溜め息をついた。
「あの短期間で、よくイルーヴ公爵家の信頼を得たな」
レオンハルトの眉がわずかに動く。
秘密裏に進めていたことを悟られていたのは意外だったが、驚きはなかった。
「詳細は聞くまい。私が横取りして貴公の面子を潰すのも面白そうではあるが……いや、これは揶揄することではないな」
クレインは銀色の髪を掻き上げた。伏せられた目許の面差しは、ルシェによく似ている。
遠くで鐘の音が鳴った。
「この国の冬は厳しいが……」
夜風に髪を揺らしながら、クレインが言った。
「雪解けに咲く美しい花を、貴方に見せられないのは……残念だ」
そう言うクレインに、レオンハルトは微笑を向けた。
「その花が見られずとも、花の種は風に乗り、いずれまた美しい花を咲かせるでしょう」
その種の行き着く先が、どこであっても。
芽吹きの時が、何年先であっても。
クレインはレオンハルトを見ると、小さく息を吐いた。
「……次にお会いする時は、今より良い関係であることを願っております。ヴァルテア国王陛下」
深く一礼し、クレインは去っていった。
その背を見送ってから、レオンハルトは、夜闇に流れゆく雲に目を向けた。
頬を撫でる風が、ヴァルテアにも続いていることを願いながら。
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