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第13話 同じ道へと

 真昼であっても冷たい風が、街を駆け抜けていく。  ローディア王国の王都ルフリナは、すっかり晩秋の気配に包まれていた。街角を歩く人の数が徐々に減り、代わりに店頭には保存食や薪が並び始める。そうしてこの国の人々は、長く厳しい冬を乗り越えるための準備に入るのだ。  ルシェは、色濃くなった紅葉から目を逸らすと、窓辺から離れた。  厚手の部屋着に羊毛のコート、さらにブランケットも羽織っていたが、靴下に覆われた足先はひんやり冷たい。椅子に腰掛け、つま先を擦り合わせながら、ルシェは、半月前に届いた一枚の手紙へと視線を落とした。  それは母親の生家――イルーヴ公爵家からのものだった。  手紙は、病弱という言葉を信じこれまで放置していたことへの謝罪から始まり、ルシェが望むなら、公爵家の領地で療養してはどうか、という打診で締め括られていた。  手紙を読んだ時、ルシェは混乱した。  なぜ今更、という思いと、手紙からかすかに漂う香水の上品な香りが、懐かしい記憶を呼び起こした。母親も同じ香りを好んでいたことを、ルシェは思い出した。  ルシェはまだ、手紙の返事を書けていない。  塔の外へと出る勇気を、未だ持てないのだ。  手紙には「いつまでも待つ」とあったが、もう半月が経ってしまった。  半月――レオンハルトがこの国を発ったのも、ちょうど半月前だ。  国交は、少しずつだが実現に向かって動いているようだった。もっとも、ルシェが知るのは使用人たちから聞く噂話程度の情報しかない。  王室からは何の通達もなかった。塔のことも、抑制剤のことも、そのままになっている。  ルシェは、手紙を丁寧に折りたたむと、引き出しから便箋を取り出した。  使用人に便箋とインクを用意してもらったのは、イルーヴ公爵家への打診を受けるか受けないかに関わらず、何か一言だけでも書いて送るのが礼儀と思ったからだ。  けれど、実際に真白な便箋を受け取った時、ルシェの脳裏に浮かんだのは、まるで関係のないはずの、レオンハルトの姿だった。  当然だが、彼からの便りはない。  ヴァルテア視察団はまだ数名が滞在しているが、彼らからルシェに連絡が入ることもない。  ルシェは羽根ペンを手に取った。  少し考え、ペン先をインクに浸してから、文字を綴る。書く動作に慣れていない指は加減を間違え、インクが滲んだ文字はひどい有様だった。 「――最初に、お会いした時」  声に出しながら、ルシェは指を動かした。  初めて出会った時の日のことを、思い出す。  外に出ればいいと、なんでもないことのように言われた。  あの瞬間、ルシェの世界を覆う殻に、杭は打ち込まれたのだろう。  言われた言葉、彼の表情。  それを思い出しながら、その時はわからなかった自分の感情を添えて、書き連ねていく。  誰に見られるものでもないと思うと、不思議と、長い間固く閉じていた心のひだが、ゆっくり解けていくようだった。  そうして書き綴っていたルシェの指が、不意に止まった。 「あ……」  覚えのある感覚が、背筋を這う。  ルシェは立ち上がると、棚に駆け寄り薬瓶を手に取った。  発情期を鎮める薬。試すのは初めてだった。 「はぁ……っ」  熱が這い上がり、下腹部が疼く。  ルシェは説明通り薬を三粒取り出すと、口に入れ、飲み込んだ。 「はぁ……はぁ……」  ルシェの目が、ベッドへと向けられる。  抱かれ、絡め取られ、それをねだる自分の姿が見えた。  ルシェは咄嗟に目を逸らした。  薬を吐き出そうと、口に指を突っ込む。 「うっ……ぐっ……」  棚に体がぶつかり、その拍子に、かさりと、すっかり枯れた花束が落ちた。 「あ……」  ルシェは両手でそれを抱き上げた。  最後の花弁が落ちた。かつて美しく咲いていた花々も、今は何色であったかすらわからない。  ルシェは再び、ベッドを見た。  薬が効いてきたのか、疼きは徐々に消え、火照る肌を鎮めていく。  それでもルシェの目には、ベッドの上での、かつての自分の姿が見えた。 (……消えては、くれないんだ)  それは絶望でも、諦めでもなかった。  ただ事実として、ルシェの胸の中に落ちた。 (そうか……消えは、しないのか)  ルシェは机に戻ると、一番下の引き出しを開けた。  臙脂色のビロードと、小箱をそれぞれ取り出す。  ビロードを開き、中にある小さな額絵を手に取った。 「……母上、俺はやっぱり、この海の絵が少し怖い」  海原に漂う小舟を、指先でそっと撫でる。 「けれど母上はきっと、この小舟はいずれどこかに辿り着くのだと、信じていたのですね」  小舟は、突如海原に放り出されたのではなく、自分で、海へと漕ぎ出したのだ。  ルシェは小箱を開けた。  深く息を吸い、蜜蝋石鹸の香りを胸に入れる。  彼が、微笑んでいる気がした。  ◇ ◇ ◇  使用人が用意した服をすべて着込み頭まで覆う。まるでミノムシのようだとルシェは思った。 「今朝は特に冷え込みますので」  使用人のひとりが言うように、昨夜吹き荒れた風は、紅葉のほとんどを落とし、冬の先駆けを知らせた。雲はどんよりと沈み、いつそこから雪が舞い降りても不思議ではなかった。  ルシェが部屋から持ち出したいと思った物は、小さな鞄ひとつも満たなかった。それを持とうとした使用人をルシェは制した。これは、自分だけが抱えていくものだ。  最初であり、一番重い扉を、ルシェは自分でも不思議なほどすんなりと潜ることができた。足が震えることも、途中で立ち止まることもなく階下へと進み、そうしてルシェは遂に、塔の外へと足を踏み出した。  肌を撫でる空気を確かめるように、ルシェは周囲を見た。  服を着込んでいるからか、気温は塔の中とそう変わらないように思えた。靴が踏む砂利の感触を確かめる。  塔の外に控えていたガルドが、深く頭を下げた。  その肩が震え、小さな嗚咽が漏れた。  なぜ、泣くのか。  そう思ったとき、風がルシェの頬を撫で、隙間から出ていた髪をさらりと掬い上げた。 『――風は浴びないのですか』  脳裏で、レオンハルトの声が囁いた。  ルシェは頭を覆っていたフードと襟巻きを外した。  空を仰ぐ。一際強い風が吹き、ルシェの銀色の髪を乱した。  今、自分は彼と同じ道に立ったのだ。  ルシェは初めてそれを、実感した。  ◇ ◇ ◇  南部といえども、冬の風は凍てつくように冷たい。  初めて触れる雪の感触を確かめたあと、ルシェはぶるりと身を震わせた。  庭から室内へと戻り、息を吐く。  暖炉の前の椅子に座りながら、赤くなった指先を見つめた。  イルーヴ公爵領での生活は、驚くほど平穏だった。  赤子の時以来に顔を合わせたというイルーヴ公爵とエイラ夫人は、ルシェに深く詫び、好きなだけここで暮らして欲しいと言った。  望むなら養子に入り家督を継いでも良いとまで言った彼らだが、すぐに言葉を飲み込んだ。その理由を察したルシェは、自分がまだ王族の一員であることを思い出す。 「今朝の雪で、この辺りも白くなり始めたわね」  窓の外を眺めながら、エイラ夫人が顔を出した。  その手には、湯気の立つ木製のカップがある。 「蜂蜜酒を温めてレモンを入れたものよ」  そう言って手渡されたカップを、ぎこちなく受け取った。  祖父母である彼らに対して、ルシェはどう接して良いかわからずにいる。  彼らは何も強制せず、ただ居ることを肯定してくれている。それはとても優しくルシェの心を癒したが、本当にここに居続けていいのだろうかという思いは、いつまでも抜けなかった。 「ありがとうございます」  礼を言い、カップに口をつけると、蜂蜜の甘さとレモンの酸味がふわりと広がった。 「おいしい、です。すごく」  エイラ夫人は目を細め、ルシェの傍らへと腰を落とした。 「それにリンゴジュースをたっぷりと入れたのが、あの子の好物なの」  彼女の視線が、壁に飾られた肖像画へと向けられる。  記憶の中で薄れつつある母が、優しい微笑みを湛えていた。  肖像画を眺めるルシェの傍で、エイラが「そうだわ」と手を叩く。 「それを飲み終わったら、庭にあるローワンの木を見に行かない? まだ残っている果実を、鳥がつつきに来ているかもしれないわ」  そうした景色も、かつて娘だった母との、思い出のひとつなのだろうか。 「夕食には、ぜひミートパイを食べて欲しいわ。これだけは、私が作るのよ」  エイラ夫人からは、母と同じ香水の匂いがした。 「……俺が、手伝ってもいい?」  戸惑い気味に言うと、エイラ夫人はぱっと顔を輝かせた。 「もちろんよ! あなたに覚えてもらえたら、すごく嬉しいわ」 (嬉しい……)  言われた言葉が、心の中で反復する。  それは手の中の蜂蜜酒よりも、ルシェの全身にじわりと行き渡った。 「あとね、あなたさえ良ければ……」  エイラ夫人が、少し恥ずかしそうに目を伏せた。 「珈琲の淹れ方を、私にも教えてくれないかしら。使用人たちも、誰も淹れたことがないって言うの」 「俺でよければ……」 「ああ嬉しい! あなたの持ってきた道具を見た時から、ずっと気になっていたのよ」  自分に、できることがある。  嬉しいと、言ってもらえる。 「あなたの淹れた珈琲を飲むのが、今から楽しみだわ」  レオンハルトにも、同じことを言われた。  彼はずっと、最初から、教えてくれていたのだ。  目を背け続けるルシェに、辛抱強く、何度も、何度も。 「……っ」  そのことに気づいた瞬間、ルシェの心は締め付けられた。 「あ……」  エイラ夫人が目を見開いた。 「ルシェ……」  背を撫でられた途端、堰を切ったように涙が溢れ出た。 「……景色を」  震える声で、ルシェは言った。 「景色を……ヴィレシャル山脈の、麓にある、水鏡を」  その景色を眺めながら飲む珈琲が格別なのだと、あの人は言った。  景色を想像した。さぞ美しいだろうと思った。  あの時、見てみたいと、確かに自分は願っていた。  欲することは、罪じゃない。  願うことも、一緒に叶えたいと思うことも。  ルシェは鼻を啜った。 「まだ……間に合うのなら……」  呟いたその声に、エイラ夫人が小さく息を呑む。 (たとえ間に合わなくても。俺は、同じ道を、歩いて行きたい)  それはルシェに、もう一度、扉を開く決意を与えた。  その扉の鍵穴が、たとえ、塞がれていなくても。  自分の手で、押し開いていくのだと。

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