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第14話 雪解けの花
春の朗らかな香りが満ちるヴァルテア王国の港に、ローディア国籍の真新しい大型帆船が姿を現した。
船首には、海獣を模した彫像が据えられている。
力強く、しかしどこか優美なその姿は、航海の安全祈願としてヴァルテア王室から贈られたものだった。
船が着岸し、見守っていた人々から一斉に歓声があがる。
レオンハルトは宰相たちを伴い、その船を出迎えた。
太陽を翳していた雲が晴れ、穏やかな陽光の中、美しい銀髪を持つ人物が姿を現す。
人々の歓声が一際大きくなる中、レオンハルトは船を降りる彼に、手を差し伸べた。
「遠路ようこそおいで下さいました。王太子殿下」
その手を取り、タラップを歩きながら、ルシェは微笑みを浮かべた。
「お出迎えいただきありがとうございます。ヴァルテア国王陛下」
ルシェ・ローディア王太子を代表とした一行は、明後日に行われる両国の国交締結式のために入国した。
ローディア王国一行が馬車に乗り込むのを見届けたあと、レオンハルトも乗車した。王国騎士の騎馬隊を先頭に馬車が走り出す。
締結式に向けての最終調整、貴族たちとの面談、晩餐会と、段取りはすでに事細かに決められていた。航海の途中で海が荒れ、入港は予定より三日も遅れた。王城へと向かうこの道中が、彼らにとって唯一の休息かもしれない。
「陛下、交易目録について陳情があがっておりまして」
書類を手に宰相が話し出し、レオンハルトは肩を竦める。そして、せめて彼には街道に咲く春の息吹きを楽しんでもらいたい、と、前方を走る馬車へと視線を向けるのだった。
◇ ◇ ◇
国交締結式を翌日に控えた晩餐会。
列席した人々の視線は、自然とルシェ・ローディアへと向けられた。
高齢の国王の代理として入国した第一王子。しかもこれまで表舞台に姿を見せなかった過去は、それだけで注目を集める。加えて彼の美しい容姿と、何よりもオメガであることが人々の関心を寄せていた。
レオンハルトは大階段に立ち、歓談する人々を眺めた。
その目が自然とルシェを捉える。塔にいた時よりも背が高く見えるのは、実際に身長が伸びたからか、背筋を張るようになったからか。
「陛下、そろそろ」
宰相に促され、レオンハルトは頷いた。宰相が鈴を鳴らす。人々の視線がレオンハルトへと向けられた。
「明日、ローディア王国との新たな絆が結ばれる。この絆は、両国間のみならず、大陸全体の繁栄にも繋がることを私は信じている」
レオンハルトは、持っていたグラスを掲げた。
「今宵は大いに語らい、信頼を深めよう。……祝福が、みなに訪れることを願って」
拍手が沸き起こる。レオンハルトは一礼して大階段を降りた。
まっすぐにルシェのもとへと向かう。
貴族と語らっていたルシェが、レオンハルトへと視線を向けた。
「陛下、素晴らしいご挨拶でした」
「短すぎると、宰相殿は納得いかないご様子だ」
レオンハルトがちらりと背後を見遣る。空咳をする宰相を見て、ルシェは笑みを浮かべた。
「大変な船旅だったと聞いた。お加減は悪くなってはいないか?」
「どうやら私は、船酔いはしない体質のようです。他の者が目を回している間、甲板に立ち、荒れる海の力強さに感激しておりました」
「それは何より。だが、揺れる船は危険だ。万が一落ちたら海獣の加護も届かない。どうか次からは、おとなしく船室で過ごしてくれ」
「同じことを船員にも言われましたよ」
ふふとルシェが笑う。
灰白の塔の、開かない窓から外を眺めていただけの彼は、もうそこにはいない。
「陛下、晩餐会の食事に我が国の料理も取り入れていただき、感謝いたします」
「貴国の料理は私も好きだ。特に蜂蜜酒が気に入っていたのだが、今回の交易目録には入っていなかったな」
「残念ながら値で折り合いがついていませんので。陛下の愛好品だと伝えれば、もう少し吊り上げられそうです」
「なるほど。王太子殿下はなかなか抜け目のないお方だ」
レオンハルトはそう言ってから、改めてルシェを見た。
「……お元気そうでなによりだ」
ルシェの、紅紫色の瞳がわずかに揺らいだ。儚げにも見える揺らぎに隠されたその小さな輝きは、レオンハルトだけが見つけた光への情動だ。
「殿下も公務でお忙しいだろうが、滞在中はくつろいでいただきたい」
「ご配慮ありがとうございます」
他国からの使者が、ついとルシェの側近に近づく。
ヴァルテアとローディアの国交締結は、レオンハルトが言ったように、今後周辺各国にも新たな風を起こすだろう。
「それでは、また明日」
会話の終わりに、レオンハルトはあえてその言葉を選んだ。
何もせずに待っていても、明日は訪れる。
けれど自分も、そしてルシェも、明日に向かって歩いているのだ。
「ええ、また明日」
そうはっきりと答えたルシェに、レオンハルトは微笑んだ。
◇ ◇ ◇
両国の旗の下、国交締結式は厳かに執り行われた。
調印を終えた証書を前に、レオンハルトとルシェが並ぶ。
レオンハルトが高らかに宣誓の言葉を告げると、祝砲が鳴り響き、その音に応えるように人々の歓声が広がった。
こうしてヴァルテア王国とローディア王国は、互いに手を取り、新たな一歩を踏み出したのだった。
◇ ◇ ◇
祝宴は、国交締結式の余韻を押し流すかのような熱気に満ちていた。
広間いっぱいに人が溢れ、音楽と笑い声、グラスの触れ合う音が絶え間なく響く。
レオンハルトは、祝福の言葉に笑顔で頷きを返したあと、密かに息をついた。直後に別の者から声をかけられ、また笑みを作る。途切れることのない人の波は、いつもの宴ではよくある光景だったが、今日はやけに息苦しさを感じた。
レオンハルトはふと視線を巡らせた。
人垣の隙間から、ルシェの姿が見える。レオンハルト以上に取り囲まれ、ひっきりなしに声をかけられているその姿に思わず駆け寄りたくなり、だがそれを押し留めた。
華やかな装いに身を包んだルシェは、周囲と穏やかに言葉を交わしていた。
塔を出たあとに多少は社交界にも触れていたのか、その表情に戸惑いは一切ない。
むしろ、どんな仕草をしても常に気品を漂わせるその姿は、彼が一国の王太子であるという事実を、雄弁に語っているかのようだった。
語らいを終えたルシェの眼差しが、不意にレオンハルトへと向けられる。
その一瞬だけ、祝宴の喧騒が遠のいた気がした。
「国王陛下」
レオンハルトは、声のするほうへと目を向けた。
視界の端に、別の者と語らうルシェの姿を捉えたまま。
レオンハルトの胸の奥に、誇らしさにも似た感覚と、名のつかない感情が沈んでいった。
「陛下、良い機会ですので紹介させてください」
レオンハルトへ恭しく挨拶をした貴族が、そう言って隣に立つ若い女性を見遣る。
こうした宴には付きものであるそれを、レオンハルトはいつものように作り笑いで応じた。
「末の娘の――です。昔から乗馬が好きでして――」
貴族の言葉に頷きを返しながら、レオンハルトは、ルシェにもそうした話が来るのではないかと思い至る。胸の奥がまた疼き、レオンハルトは小さく息をついた。
踊りたそうにこちらを伺う貴族の娘をうまく交わし、レオンハルトはその場を離れた。給仕の盆へ空のグラスを渡し、ワインの注がれた新しいグラスを受け取る。
半分ほど呷り、あの蜂蜜酒の味を恋しく思った。だがそうしている間にも、レオンハルトの周囲には入れ替わり立ち替わり人が近づき、声をかけてくる。
レオンハルトは視線を動かした。
広間の端にあるソファで、ルシェはペルシレナ王国の王子と会話をしていた。
(あの『偏屈王子』が、おとなしく会話をしているとは)
顔を合わせるたびに嫌味をぶつけてくる彼が、ルシェを前に神妙に頷いている。それだけでも驚きだったが、不意に彼が声を出して笑ったのを見て、レオンハルトは持っていたグラスを落としそうになった。
そのあともルシェは何かを熱心に語り、偏屈王子はうんうんと頷いている。もしかしたらルシェは、ペルシレナ王国との交易も視野に入れているのかもしれない。
やがて、広間に流れる音楽の曲調が変わった。
それを合図に、名残を惜しむように人の波が徐々に引き始める。
使用人がバルコニーへと続く窓を解放すると、そこから流れ込む心地よい夜風に、広間に溢れていた熱気は、落ち着いた空気へと変わっていった。
おおかたの主賓たちを送り出したあと、レオンハルトは広間を見回した。ぽつりぽつりと残っている人の中に、ルシェの姿があった。
彼は側近に一言耳打ちをすると、レオンハルトに近づいてきた。
「陛下、少しお話をしてもよろしいでしょうか」
その声は、静寂を取り戻しつつある広間にも溶けるほどに、静かだった。
レオンハルトはルシェの眼差しを見つめ返す。
そうしてから静かに頷き、歩みを促した。
◇ ◇ ◇
「陛下、この度の国交締結、本当にありがとうございました」
人払いをしたバルコニーに立つと、ルシェはそう言って一礼した。
「貴国とは既に対等な関係だと思っている。けれど貴方の礼儀は受け取った。こちらこそ、良い関係が築けることをありがたく思う」
レオンハルトも礼を返した。
「ご覧の通りこちらはすっかり春めいているが、貴方の国ではまだ雪が残っているのだろうか」
「ええ。けれど私が帰国する頃には、すっかり溶けているでしょう」
「帰国……そうか……」
ルシェたちは一週間ほど滞在したあと、帰国することになっている。
「貴方には、蜂蜜酒を交易目録に入れるという、土産を持ち帰っていただかねばな」
「ええ、それができれば、厳しい冬の雇用を支えることができます。民たちもきっと喜ぶでしょう」
「……ああ」
レオンハルトは頷いた。
「貴方は本当に、『王太子』になられたのだな」
呟くような声音で言う。
「こうした言い方は失礼だろうが、立派になられた」
「貴方にそう言っていただけると……すべて報われる気がします」
ルシェはかすかに笑うと、レオンハルトを見上げた。
「私は、立派な王になれるでしょうか」
「もちろんだ」
頷きを返す。
ルシェは、一度唇を固く結んだあと、それをゆっくりと開いた。
「……ヴァルテア国王陛下。私は、今、私が背負っているものの大きさを知っています」
ルシェの目が、真剣味を帯びる。
その険しい眼差しを、レオンハルトは見つめ返した。
「その上で、私の決意を、貴方に聞いていただきたい」
ルシェの表情に、迷いはなかった。
彼のこれまでの生き方、彼の抱いていた価値観、そうしたすべてが、そこに宿っているようにレオンハルトには思えた。
「ローディアを発つ前から……いえ、それよりずっと前から、決めていたことです」
ルシェは深呼吸をすると、レオンハルトに告げた。
「この締結式を、王太子としての最後の務めにします」
最後。耳に入ってきた言葉に、レオンハルトは目を見開いた。
「国に戻ったら、私は、王族の籍を離れます」
毅然としたルシェの声に、レオンハルトは、すぐには言葉を返せなかった。
王太子として生まれ、あの塔で尊厳を奪われ続けていた彼が、ようやく取り戻したそれを捨てる。
なぜ。などという言葉は、レオンハルトには浮かばなかった。
空を自由に飛ぶ鳥に、なぜ飛ぶのかと問う者などいない。
「私の意思で、私は、『何者でもない』ただの私になるのです」
これほど美しい人を、レオンハルトは見たことがなかった。
そしておそらくこれからも、こんな人は現れないだろう。
「それが……貴方の選択なのですね」
囁くように言ったレオンハルトに、ルシェは微笑んだ。
それは雪解けの大地に咲く、一輪の花のようだった。
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