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第15話 小さな城

 朝の日差しが、庭に咲くシロアザミを照らした。そこから落ちた朝露が、池に小さな波紋を作る。葉の影に隠れていたトカゲがほんのわずかに顔を覗かせたが、物音に気づいてすぐに逃げていった。  小さな屋敷の裏戸が開く。  銀色の短髪を朝日にきらめかせながら、青年が姿を見せた。  両手を空へとあげ、体を伸ばす。そうして体をほぐしたあとは、庭の手入れを済ませ、パーゴラの下で簡単な食事を摂る。  それが、彼――ルシェの一日の始まりだった。  国交締結式から、二年の月日が経っていた。  ヴァルテア王国の王都カルヴァルス郊外にあるこの屋敷は、ルシェが自分で購入したものだ。庭に咲く花も、パーゴラを覆うブラックベリーも、自分で選んで植えた。  小さくともここは、ルシェの立派な城だ。  採ったばかりのベリーと紅茶で簡単な朝食を済ませ、ルシェは屋敷に戻った。  今日は溜まった書類の整理と、エイラ夫人宛てに近況を知らせる手紙も書きたい。先月のようにうっかり出し忘れて、心配した夫人がヴァルテア行きの船に乗り込む前に。 「おはようございます」  庭に出た時のように裏戸から屋敷に戻ると、竈で火を起こしていたフィンが顔をあげた。彼は、ルシェが唯一雇っている使用人だ。毎日ルシェの屋敷に通っては、細々とした仕事をしてくれる。 「あ、またベリーだけで朝食を済ませましたね。スープを温めますから、それを食べてくださいよ」  二歳年下の彼に苦笑を返しながら、ルシェはテーブルについた。 「旦那様はすぐに食事を抜くからなあ。昨日焼いたいちじく入りのパンも出しましょう。あとはチーズと……ああ、肉がもうないや」 「そんなに食べられないよ」  ルシェはそう言ってから、もう何度も伝えている言葉を、フィンに告げた。 「その『旦那様』って呼び方、やめてくれないかな」 「他になんて呼ぶんです? 『ご主人様』が嫌だと言ったのは、旦那様ですよ?」 「名前で。俺は呼び捨てでも構わないけれど」  フィンは、困ったようにこめかみを掻いた。 「あのですね。旦那様に名字があれば、俺はそれを呼びますよ。けど旦那様には名前しかないじゃないですか」 「だから、名前で呼べばいいんだよ」 「勘弁してくださいよ」  フィンは眉を下げ、大きく首を左右に振った。 「呼び捨てなんて、友達みたいじゃないですか。いや、旦那様と友達になりたくないって意味じゃないですよ」  フィンが、やけに早口で言う。 「俺は旦那様の食事の支度をしたり、風呂の用意をしたりもするでしょう? 仕事が夜まで続く時や、嵐の日なんかは、泊まり込むこともある」  身振り手振りを交えて、フィンは語った。 「それで名前を呼び合うっていうのは……やめたほうがいいと思うんですよねえ」  首を傾げたルシェに、フィンは盛大な溜め息をついた。  物分かりの悪い子どもを諭す、親のような顔つきだ。 「こう言えばわかりますかね。『あの人』の使用人が同じように名前で呼んでいたとしたら、旦那様はおもしろくないでしょう?」 「それは……うん、フィンの言う通りだ」 「ね? わかっていただいて何よりです。俺だって、命が惜しいんですから」  冗談めかした口調だったが、フィンの目は真剣だった。  身震いしたフィンは、スープとパンを、ルシェの前へと置いた。 「さあ、くだらない話はここまでにして。しっかり食べたら、もう少しマシな服に着替えましょうね」  ルシェは自分の服を見回す。  確かに庭仕事で少し汚れてはいるが、着替えるほどではないはずだ。 「俺の勘では、今日あたり『あの人』が顔を出すと思うんです。刺繍の入った藍色の服と、他にも何着か用意しますから、ちゃんと着替えてくださいよ」  ばたばたと音を立てて、フィンが台所を出ていく。  フィンの勘は良く当たる。  スープを飲むルシェの口許が、自然と緩んだ。  ◇ ◇ ◇ 「陛下、陛下、お待ちください」  執務室を足早に出たレオンハルトを、宰相のジラ・ヘルダーが追いかける。足を止めようとしないレオンハルトの半歩後ろにつきながら、声をあげた。 「ルヴェア侯爵が、お目通りを願いたいと」 「スノーア川の氾濫の件だろう? それについては昨日書類にまとめたはずだが」 「詳細を詰めたいと申しておりまして」 「領地まで視察に来いとか、そういう話だろう。悪いが貴方のほうから断っておいてくれ」 「しかし……」 「では別の者を視察に送ると伝えろ。視察など建前で、年頃の娘をあてがう算段だろうからな」 「……またでございますか」  肩を落とすジラに、レオンハルトは苦笑を向ける。  一年前――レオンハルトが婚約を発表した時から、この手の策略はたびたび行われていた。相手の名が秘匿されたことで、実は婚約というのは嘘で、今まさに相手を探しているのだという根も葉もない噂までが、まことしやかに流れている。  さてどうしたものかと頭を悩ませながら、レオンハルトは居館を出て厩舎へと向かった。  裏手に回ると、馬車の点検をしていたグレンが、顔を向けずに馬たちを指差す。 「手前の栗毛に馬具をつけて、連れて来てください」 「いきなりか。人使いが荒いな」 「当然です。この馬車に乗る貴方は、『下級貴族のレオン』ですからね」  王城には不釣り合いの、装飾がひとつもない質素な馬車から手を離したグレンが、レオンハルトを見て眉をひそめた。 「……まさか、その格好で向かわれるおつもりですか?」 「駄目だったか? この前は色が派手だと言われたから、黒を選んだのだが」 「色だけ見れば地味ですが、シルク生地に袖口飾りと細かな模様のレースまで……こんな服を着る下級貴族はおりません」 「そうか。では」  レオンハルトは厩舎のフックから、使用人たちが使う雨よけ用の外套を外すと、それを羽織った。 「着替えに戻る時間が惜しい。それに下級貴族のレオンも、見栄を張りたい時はあるだろう」 「彼が気後れしなければ良いのですが……」 「久方ぶりの逢瀬だぞ。調子に乗った恋人を笑ってもらうさ。さあ急ぐぞ。馬はどうやって繋ぐのだったかな」  グレンは溜め息をつきながら、ハーネスを手に取った。  ◇ ◇ ◇  ルシェの屋敷の裏に馬車が停まる。  レオンハルトが降りるより先に、屋敷からフィンが出て来た。彼の慌てた様子に気づいたレオンハルトは、顔色を変えて馬車から飛び降りた。 「男爵様……!」  フィンの表情から事態を察したレオンハルトは、屋敷に駆け込んだ。二階にあがり、一番奥にある部屋の扉を開けた。  途端、発情期特有の、濃厚なフェロモンの香りが鼻先に触れた。音に気づいたのか、ベッドの上の丸い塊がびくりと震える。  レオンハルトはベッドに近づくと、それを優しく撫でた。  しばらくそうしてから、そっと、ブランケットの端を持ち上げる。  今にも涙が零れそうな紅紫色の瞳が、レオンハルトを見つめた。 「薬が……あまり効かなくて……」  レオンハルトは、サイドテーブルに置かれた薬瓶を見た。  ルシェの発情期を鎮める薬が効きにくくなったのは、半年ほど前からだ。その原因が、精神からくる体質の変化だということを、レオンハルトは侍医から聞いている。 「レオン……レオン……」  レオンハルトは外套を脱ぎ捨てると、上着も脱ぎ、それでルシェを包んだ。その上から抱き締めて、ルシェの顔を覗き込んだ。 「ルシェ、俺はここにいる」  名前を呼ぶと、ルシェは息を吐き、レオンハルトの胸に顔を埋めた。  ぶわりと立ち上がる香りに理性が飛びそうになるのを堪えながら、レオンハルトはルシェの髪を撫でる。 「長い髪も似合っていたが、短い髪のあなたも良いな」 「婚約を取り消してもいい?」  唐突にそう言ったルシェが、直後に頭を振って「いやだ」と否定した。 「取り消したくない。ごめんなさい、俺……」 「ああ、わかっているよ」  二人で話し合って、婚約を発表した。  けれど、結婚に至るまでの道は、容易ではない。  レオンハルトは王であることを捨てられず、誰よりもルシェがそれを望まなかった。  何者でもない、そして子を為せない者が、大国の王の伴侶となる。  その事実が、決意したはずのルシェの心を、ふとした隙に蝕んでしまう。 「あなたがそうやって何度言おうとも、俺は婚約解消には頷かない」  レオンハルトは、ルシェの髪に唇を落とした。 「だから、何度でも俺を困らせてくれ。その度に、あなたの心を繋ぎ止めよう」 「……俺のうなじを噛んで」  レオンハルトに縋りつきながら、ルシェが言った。  うなじを噛む。それは、オメガがアルファにすべてを捧げるという証だ。 「俺の……俺の全部は、あなたのものだよ」  ルシェは啜り泣いた。 「あなたもそれがわかっているのに、どうして抱いてもくれないの?」  一際強くなったフェロモンは、明らかにレオンハルトを誘っている。  レオンハルトは息を呑み、それから首を左右に振った。こうした時、己の欲と戦うのは、水の中で呼吸を試みるほどの苦痛を与える。 「俺に魅力がないから? 俺をそうした目で見られない?」  レオンハルトは困ったように息を吐いた。  ルシェの体を包んでいるブランケットの隙間から、自分の下肢を潜り込ませる。そうして昂っているそれを、ルシェの腰に押しあてた。  びくりと震えるルシェの耳許で、レオンハルトは囁いた。 「発情期のフェロモンを嗅いだからではない。あなたの寝顔を見ることが多くなった時から、たびたびこうなってしまうのだ」  レオンハルトは、ルシェの髪、そして額とこめかみにもキスをした。 「俺は性欲が薄いと思っていたが、あなたにすっかり変えられてしまった」 「……でも、抱いてくれない」 「俺が毎夜ここに通い詰めて、情夫のようにあなたを抱けば、あなたの心は晴れるのか?」  ルシェは答えなかった。 「一度あなたを抱けば、俺はあなたを手放せなくなる。あなたを俺だけのものにしたくなる」 「してよ! だからうなじを噛んで欲しいって俺は――」 「あなたも、俺のうなじを噛んでくれる?」  ルシェが息を呑む。  レオンハルトの言葉は比喩だったが、真意は伝わっただろう。 「ルシェ、俺は、あなた以外の誰とも寝るつもりはない」 「でもあなたは……」 「王であることも捨てない」  レオンハルトは、ルシェの体を抱き締めた。 「あなたは、俺が余所の者と世継ぎを作ってもいいと考えている。……それがあなたの本当の願いであれば、俺は叶えるが」  腕の中のルシェは震えていた。 「あなたを抱いた俺は、他の者は決して抱けない。あなたの所為ではない。これは……俺の弱さだ」  そして心ではずっと、願い続けている。  ルシェが、献身だけではない契約を、自分に求めてくれることを。  もぞりと体を動かしたルシェが、顔をあげた。  頬を流れる涙を見て、レオンハルトは暴れ出しそうになる情欲を抑える。それをかすかに眉を寄せるだけの仕草に留め、親指でルシェの目許を拭った。 「あなたの瞳は、どんな時も俺を惹きつけてやまないな」  鼻を啜ったルシェが、ほんの少しだけ、口許を緩ませた。 (今、俺がどれだけ胸を震わせているか。それを知ったら、あなたは笑うかもしれない)  けれどそうした反応もまた、レオンハルトには喜びなのだ。 「……レオン……口づけてくれる?」  思いがけない言葉に、レオンハルトはわずかに目を見開いた。  そして微笑み、ルシェの顔を両手で包む。  閉じられた瞼、頬、そして唇へと。  一度離してから、もう一度。  開いた唇の隙間から差し出された舌を優しく喰み、けれど決して絡めず、角度を変えて何度も唇を重ねる。 「ぁっ……」  腰を揺らしたルシェが、腕の中で身震いをした。  彼が自分を責めてしまう前に、レオンハルトは自身の熱をルシェの腿へと擦り付けた。こうした劣情を彼に見せたのは、これが初めてだ。 「っ……ぁ……ぁっ……っ」 「ルシェ……っ」  荒い吐息を共有するように再び唇を重ね、そして儀式のように、頬、そして瞼へと唇を落とした。  そうしてレオンハルトは、ルシェが疲れて眠りに落ちるまで、彼の背を優しく撫で続けた。

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