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第16話 言葉になる前に

「ほら見てください、いい眺めですよ」  フィンが指差すほうを、ルシェは見つめた。  湖の水面には、残雪を冠するヴィレシャル山脈と、緑豊かな木々、そして青い空が映っていた。 「いつ見ても絶景ですね」  フィンは敷物を広げると、その上に食料の入った籠を置いた。  簡易椅子を置いてルシェに座るよう促してから、手慣れた仕草で火を起こし始める。  それから、気づいたように荷物を探り、上着を取り出した。 「こんな上等なのをブランケット代わりに使うのは、旦那様くらいですよ」  そう言いながら、シルク生地の上着をルシェの膝に掛けた。 「他にも出しますか?」  フィンの申し出を断り、ルシェは上着に顔を擦り寄せた。  発情期の間、レオンハルトは毎日屋敷を訪れては、ルシェを抱き締めてくれた。匂いを恋しがるルシェに、上着とシャツまで脱いで渡し、グレンを呆れさせていた。 (それに……あんなことまで……)  思い出すといたたまれなくなり、ルシェは頭を振った。 (でも……)  レオンハルトが自分に欲情してくれた。  それが嬉しかった。  うっすら上気する目許を上着で隠す。  火を起こし終えたフィンが、背筋を伸ばした。 「さて、珈琲を淹れましょうか。一応茶葉も持ってきましたが」 「珈琲がいいな。俺が淹れようか?」 「またそんなうすら怖いことを……俺と二人で出掛けることを話した時の、あの人の反応を忘れたんですか?」  まったくわかっていない様子のルシェに、フィンが肩を竦める。 「旦那様は思慮深いくせに、あの人のことになると鈍感になりますね」 「そうかな……?」 「でなければ、俺に向けられた嫉妬の目に気づかないはずないでしょう!」 「嫉妬……」  ルシェは、まさかと思いながらフィンを見た。  確かにその話をした時に、レオンハルトはフィンを険しい目で見ていた。けれどそれは、道中の危険がないかとか、そういう心配をしているからだと思っていた。 「旦那様だって、以前、あの人が舞踏会でどこぞの令嬢と踊ったという話を聞いて、ひどく落ち込んでたじゃないですか」  確かに自分はそうだった。レオンハルトが相手にそういう目を向けていないとわかっていても、ついフィンに愚痴を言ってしまうほどに、胸がざわめいたのだ。  ただ、これまで漠然と、自分とレオンハルトでは、愛の比重が違うように思っていた。  ルシェは彼を追いかけて、この国に来た。  結婚を申し込んだのもルシェからだ。  レオンハルトはいつも、そんなルシェの選択を尊重してくれる。 「政略結婚でもあるまいし、当然嫉妬もするでしょうよ。むしろあの人のほうが、拗らせたら容赦ないんじゃないですかね」  ルシェは無意識に、手で自分の首筋に触れた。  発情期の時に言われた言葉と、触れた熱を思い出す。  なぜ抱いてくれないのか、なぜ噛んでくれないのか、その理由を、ルシェはあの時はじめて聞けた。 (……今まで言わなかったのは、俺の選択を、邪魔したくなかったから?)  レオンハルトの、確かに自分へと向けられた、熱の籠った眼差しを思い出す。 「あれほどの嫉妬に気づかないなんて、俺はあの人に同情しますよ」  溜め息混じりにそう言ったフィンが、わずかな躊躇いのあと、口を開いた。 「……あと、旦那様はもう少し、素直になればいいと思います」 「俺……素直じゃない?」 「ほんとは誰にも渡したくないくせに」  はっきりと言われ、ルシェは狼狽えた。 「国だのなんだの関係なしに、言えばいいんですよ」 「そんなわけにはいかないよ」 「それで自分に嘘ついて過ごすんですか? 自分じゃない人の子どもを見ながら?」  自分が想像していた以上に、その光景は鮮明に思い浮かび、ルシェの心に刃を突きつけた。  俯いたルシェに、フィンが肩を竦める。  珈琲の粉に湯を落とす音が、静かに響いた。 「……俺の両親が亡くなった話、したでしょう?」  ルシェは顔をあげ、フィンを見た。  グレンの紹介だと言って屋敷にやってきたフィンを、ルシェは最初断った。「仕事がないと困る」と縋った彼が最後に神妙に語ったのが、その話だ。  雇うと告げた途端にぱっと笑顔になって給金の話をし始めたので、泣き落としのための嘘だと思っていたが。 「ひとりになった俺を引き取ってくれたのが、同郷のグレンなんです。それから兄弟のように育って」  フィンがふと動きを止め、それから少し笑った。 「俺、グレンに会うたびに、ずっと口説いてるんです」 「え……」  突然の告白に、ルシェは驚いた。 「あっちは全然その気になってくれないし、鬱陶しそうにもされるけど」  フィンは淹れたばかりの珈琲を、ルシェに差し出した。 「もし、俺が気持ちを何ひとつ伝えずに、たとえば今日死んだとしたら、あいつは兄として慕う俺の姿だけを思い浮かべる。俺は、それでもいいなんて思えない」  力強いフィンの声だった。  気持ちを返してもらえないのに、どうしてそこまで言えるのか。  そう思いながらも、羨望に似た感情が湧き立つのを、ルシェは感じた。 (もし今日、俺が死んだら……)  国王である彼は、ルシェではない誰かと添い遂げる。 (俺が、それを望んでいたと、誤解しながら)  誤解。その言葉が浮かんだ瞬間、ルシェにはわかった。 「もしグレンが俺のことを好きだとしたら、俺は、あいつが俺以外の誰かとなんて、考えたくもないな」 「俺だって――」  咄嗟に口に出す。  フィンがにやりと笑って、蜂蜜をルシェのカップへと注いだ。 「大体、庶民の俺に言わせれば、世継ぎが誰かだなんて、そんなの、なんだっていいんですよ」  フィンはそう言うと、籠からパンとチーズを取り出した。 「いい具合に火が燃えてますね。チーズを溶かしてパンに載せましょうか。今日は肉もありますからね」 「……フィンは最近俺のことを、太らせようとしてない?」  ルシェは笑いながら、今は城にいるであろうレオンハルトへと、想いを馳せた。  目の前の景色は素晴らしく、蜂蜜入りの珈琲もおいしい。  けれど今すぐにここを発って、彼のもとへと会いに行きたくなった。  ◇ ◇ ◇  執務室に入ったジラは、レオンハルトと、彼の前に積み上がった書類の山を見て、溜め息をついた。 「陛下、お飲み物でもお持ちしましょうか」 「いや、これでいい」  レオンハルトがそう言ってちらりと見遣ったのは、口のつけた跡のない、すっかり冷えた紅茶だ。  彼は昨夜から、腕を組んでは時折唸るように考え込んでいた。しかしまさか政務が滞る事態にまでなるとは、ジラにとっては想定外だ。  事情を知らない者が見たら、ただならぬその気配に、他国と戦争でも始まるのではと危惧しただろう。  宰相の自分がしっかりしなければと、ジラは山の中から昨日までに片付ける予定のものを取り出し、レオンハルトの前に置いた。 「これに目を通して、サインをしてください」 「わかった」  書類をじっくり読み込む姿を見て、ジラはひとまず安堵する。  新しい飲み物でも用意させようかと身を翻しかけた時、レオンハルトが声をあげた。 「従兄弟どのは、政治に興味があると聞いた覚えがあるが、入城の予定はあるのか?」 「は」  予期しなかった言葉に、ジラは動きを止めた。  驚きのあまり、彼の言う従兄弟が自分の息子だと理解するのに、数秒を要した。 「確かにあれは、私の息子とは思えないほど勤勉でそのようなことを常々言っておりますが、入城の予定は――」  そこまで口に出してから、ジラは気づいて言葉を切る。 「……陛下、私の息子に国王は務まりません」 「そうか」  レオンハルトは頷くと、書類を捲った。 「いよいよご決断されたのですか」  ルシェの事情は、ジラも知っている。  彼と結婚するということは、側室を持たない限り、直系の世継ぎは望めない。  側室を持つか、養子を迎えるか、他の道を探すか。  遂に決断したのかと、ジラは身構えた。 「お式については、私よりも適した者がおりますので」 「いや、まだ決定はしていない」  書類から目を離さずに、レオンハルトは答える。 「私は彼と婚約した時から、決めてはいるのだがな……」  レオンハルトはペンを取りサインすると、書類を閉じた。  椅子に深く腰掛け、目を瞑り腕を組む。  ジラはその間に書類を確認した。それを脇に抱えて、執務室を出る。  しばらく経ってから戻ると、レオンハルトはまったく同じ姿勢で眉を寄せていた。 「陛下、やはり何かお召し上がりに――」 「貴方に、聞きたいことがあるのだが」  腕を解いたレオンハルトが、灰青色の瞳をジラに向けた。 「俺を王ではなく、甥として見た意見を聞きたい」 「はあ」 「俺のことを、どう思う?」 「どう、とは。魅力的であるかどうか、という話でしたら、大層魅力的であるとお答えしますが」  もちろんそうではないことを、ジラはわかっていて白を切った。  レオンハルトが、深く息を吐く。 「……俺は幼少の頃から、血を残すことを最大の務めと教わり生きてきた。厳しいフェロモン訓練も、オメガフェロモンに惑わされないためのものだ」  ひとつ呼吸を挟み、レオンハルトは言葉を続ける。 「父上が夭折されて、国王になった時、その考えはより強くなった。……だが」  レオンハルトは目を伏せた。 「俺は、彼が子を為せないと知った時、世継ぎなどどうでも良いと思った」  レオンハルトの声に後悔はない。ただ、唐突な心変わりを今でも不思議に思うような、そんな響きがあった。 「今でもお変わりありませんか」 「もちろんだ。そもそも、ヴァルテア王室は同一血統ではないだろう? 俺が調べたところ、七代前の王は実子ではなく甥に継がれている」 「そこまでお調べになったのでしたら、養子を取ることにして、堂々とご結婚されればいいでしょう」  レオンハルトは答えず、また腕を組んだ。  彼が何を考えているのか、ジラは察している。  レオンハルトが恐れるのは、血筋を残さないことではない。  そうすることで、ルシェが傷つく可能性を、恐れているのだ。  ルシェに生殖能力がないことは、ほんの数人以外、誰も知らない。  だが、大国のアルファの王に世継ぎが生まれず、養子を取るとなれば、批判はおのずと配偶者へと向けられる。  貴族の中には自身の血を王室に入れようと、側室を捩じ込もうとする者も出てくるだろう。 「……守ればよろしいのではないでしょうか」  思わずジラが言うと、レオンハルトは片目を開けた。 「当たり前のことを言うな。そんなことは大前提だ」 「ならば側室を娶られますか?」  レオンハルトに睨みつけられ、ジラは肩を竦めた。 「陛下……いえ、叔父として、と言われたので、失礼させていただきます」  ジラは背筋を伸ばすと、レオンハルトを睨み返した。 「忠犬のように待つ姿は立派とも言える。だが、愛する者の、口に出せない願いを汲み取る度胸すら持てないとは、叔父として情けない」  レオンハルトは呆然とし、それから、どこか力が抜けたように、目を伏せた。 「……度胸、か。確かに俺は、あの人と出会い、自分の弱さを突きつけられた」  レオンハルトは、自分の力を過信してはいない。  けれど思い返せば、あんなふうに戸惑い、迷い、翻弄されるのは初めてのことだった。 (それは俺が、彼以外を選ぶことができないからだ)  彼に色々な選択肢を与えたつもりでいて、自分はとうの昔に、ひとつの道に縛り付けられていたというわけだ。  その滑稽さに、レオンハルトは笑みを浮かべた。  そして気づいたからには、進まなければならない。  愛する者の、本当の願いを、叶えるために。

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