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第17話 願いの行き先

 うたた寝をしていたルシェは、がさごそと荷物を漁る音で目を開けた。薄目で見ると、フィンがブランケットを取り出している。  柔らかそうな布地のそれをルシェに羽織らせようとしていたフィンは、目が合うと「起こしてすみません」と謝った。 「冷えてきたので。椅子をもう少し、火に寄せますか?」 「ううん、大丈夫だよ」  ルシェは黄色が混ざりかけた空を見上げた。今日は夕方までここで過ごして、陽が落ちる前に帰ることになっている。 「うーん、思ったより寒くなりそうだ」  同じように空を見上げたフィンが呟く。  そろそろ、帰る頃合いだろう。  荷物をまとめ始めたフィンを見て、ルシェも椅子から立ち上がった。途端、寝起きの体は情けなくふらついてしまう。倒れそうになるのを、咄嗟にフィンに抱き止められた。 「足を捻っていませんか?」 「う、うん」 「旦那様はまだ座っていてください」  わかった、とルシェが告げようとした時、馬のいななきが聞こえた。直後、「何をしている!」と、良く知る人の、けれど聞いたことのない声が響いた。  ルシェの視線の先に、黒馬に乗ったレオンハルトの姿があった。少し遅れて、木々の向こうから栗毛の馬に乗ったグレンも姿を見せる。 「なんで……」  次に会うのは、早くても三日後のはずだ。  その寂しさを紛らわすために、今日は遠出をしてここまで来たのに。  馬から降りて近づいてくるその姿を、ルシェは呆然と見つめた。  体に触れていた手がぱっと離れる。 「俺は、何も!」  フィンの叫び声とほぼ同時に、レオンハルトに抱き寄せられた。 「前々から、お前のルシェを見る目は怪しいと訝しんでいたぞ」 「いや、違います、誤解ですって!」 「何が誤解だ! あんな風に触れるなど……!」  ルシェは、レオンハルトの胸から顔を上げて、怒鳴る姿をぼんやりと見つめた。それからフィンとの会話を思い出し「あっ」と声を出す。 「嫉妬……」  ルシェの呟きに気づかないレオンハルトが、さらなる怒号を浴びせようと口を開く。その時、背後から近づいてきたグレンが、心底うんざりとした口調で言った。 「陛下、認めたくはありませんが、その男は昔から私に懸想しております。ですから、無駄な怒りは一刻も早くお鎮めになり、ここへ来た本来の目的を思い出していただくのが賢明かと」  この場を収めるために放たれたグレンの言葉は、だが逆に、この場をいっそう騒がしくしたのだった。  ◇ ◇ ◇  事態が収拾した頃には陽はすっかりと落ちてしまい、会話もそこそこに、ルシェたちが乗ってきた幌馬車で帰ることになった。  御者は行きと同じくフィンだが、ルシェの隣には、レオンハルトが座っている。  フィンは明らかに気を遣って、いつもは開いている御者と荷台の間のカーテンを早々に閉め、さらに完全に視界を遮るように荷物を積むと、手綱を握った。  馬車が走り出す。  厚手のマットが敷かれた長椅子に並んで座りながら、ルシェはちらりと、レオンハルトを見た。 「グレンは大丈夫かな……」  なんとなく気まずさを感じ、ここにはいない人の名前を口に出す。  グレンは、レオンハルトが迷いもなくルシェと一緒に幌馬車に乗るのを見て諦めたのか、黒馬を引いて先に戻っていった。「国王専用の黒馬がいたら、逆に目立ってしまうでしょう」と呆れつつも、その顔はやけに穏やかだった。  くれぐれも注意を怠らず屋敷までお守りするように、とフィンに言い聞かせていた姿を思い出し、ルシェは口許を緩めた。 「俺に用があったみたいだけど……何かあったの?」  心を落ち着かせたルシェは、レオンハルトを窺い見た。 「ああ……」  レオンハルトの精悍な顔に、真剣味が帯びる。 「あなたに伝えたいことがあって、居ても立っても居られず、馬を走らせたのだ」  最速の駿馬で駆けつける理由が思い当たらず、ルシェは身構えた。その不安の色を感じ取ったのか、レオンハルトが顔色を変える。 「悪い報せではない。……いや、あなたにとってもそうであれば良いと、私は願っているが」  レオンハルトを見つめたルシェは、なぜか急にそうしなければいけないような気がして、彼の方へと体を向けた。  両手を取り、それをひとまとめにしてぎゅっと握り締める。 「ルシェ?」 「お、俺の方から先に、話してもいい?」  沈黙を肯定と受け取って、ルシェは口を開いた。  けれど、言葉が出てこない。  この人を、自分だけのものにしたい。  素直な気持ちを伝えれば、彼は応えてくれるだろう。  けれどそれは、何者にも代え難いこの人から、ひとつの選択を奪うことになる。  この人が歩むかもしれない未来。  多くの人たちが望むそれを。 (本当に俺が、奪ってもいいの?)  握っていた手がするりと抜け、ルシェの手を包んだ。  顔を上げると、優しいレオンハルトの眼差しがあった。  かすかに開いたルシェの唇から、吐息が零れた。 「……俺が告白した時のことを、覚えている?」  囁くように言う。もちろん、と言うように、包む手の力が強くなった。 「俺はこの国に着いたばかりで、住むところも決まっていなかったのに、あなたに気持ちを伝えたいと、そればかり考えていて」  レオンハルト宛てに手紙を書いた。  届くかもわからない、ましてや会える保証もなかった。ただ伝えたい一心で、『あなたが教えてくれた水鏡の前で会いたい』と、願いをしたためた。 「あなたは来てくれた。今日のように、馬に乗って」 「気づくのが遅れて、二日もあなたを待たせてしまった」  悔しそうに言うレオンハルトに、ルシェは首を振る。 「俺の気持ちを、あなたは受け取ってくれた」  その時だけじゃない。  いつも、彼はルシェのことを考え、寄り添ってくれた。 「俺は、気持ちを伝えるだけのつもりが、結婚して欲しいなんて、口走ってしまって」 「……本気ではなかった?」 「俺の目を見たら、本気かどうかはわかるでしょう?」  頷くレオンハルトを見て、ルシェは微笑んだ。 「あの時、あなたは初めて俺の名前を呼んでくれた」  レオンハルトが目を見開く。 「そう……だったか? いや、名を呼んだことは憶えている。だが、初めてとは……」 「初めてだったよ。俺が塔にいた時も、塔を出たあとも、あなたは俺の名前を呼んではくれなかったから」 「そ、うか。意識したつもりはなかったが……」  考え込んだレオンハルトが、何かに気づいたのか息を吐いた。 「……今思えば、無意識に呼ばないようにしていたのかもな。名を呼べばもっと先が欲しくなると、わかっていたのだろう」  レオンハルトの、どこか遠くを見るような眼差しが、ふっと和らいだ。 (彼が好きだ)  想いが、胸にいっぱいになって、あふれ出てくる。 (……この気持ちがきっと、俺を永遠に生かしてくれる)  ルシェは、もう一度レオンハルトの手を上から包み込むと、自分の額をそこにあてた。 「レオンハルト、あなたはこの国の王」  祈るように、ルシェは言った。  何かを言おうとするレオンハルトを制し、ルシェはまっすぐに、彼の瞳を見つめ返した。 「誰もが望むあなたの未来、可能性。それを、あなたに与えることは、俺にはできない」  レオンハルトから、たくさんのものを与えられた。  新しい価値観。  塔から出るという選択。  自由に羽ばたける翼。  レオンハルトは、それはルシェ自身が掴んだものだと言うだろう。  けれど、標を与えてくれたのは、間違いなくレオンハルトだ。 「俺があなたに俺の全てを捧げても、それは、あなたから奪うものの代償にはならない」  感情が込み上げ、喉が詰まる。  けれど、泣くわけにはいかなかった。  ルシェは唇を噛み、ゆっくりと深呼吸をした。 「とても怖い。怖いけど……俺は、あなたが守ろうとした俺を、捨てないと決めた」  レオンハルトの息を呑む気配が伝わってきた。 「俺も最後まで守り抜く」  微かに震えるレオンハルトの手に、ルシェは唇を落とす。 「だから、レオンハルト・ヴァルテア。あなたのうなじを、俺に噛ませて」  言葉を告げ、息を吐いた瞬間、抱き締められた。 「ああ……いくらでも。ルシェ、俺はあなただけのものだ」  レオンハルトの切なげな声。その言葉を、ずっと胸に秘めていたのだと思わせる声だった。それが思い込みではないと、ルシェは信じている。 「俺も、あなただけのものだよ」  囁き、どちらともなく唇を重ねた。息を継ぐのもままならないほどに、お互いに貪り合う。  その勢いのまま、長椅子に倒れ込んだ。  ルシェはレオンハルトの黒髪を掻き上げ、もっととねだった。もっと欲しい。口づけだけじゃ足りない。 「はぁ……っ……あぁ……」  仰向けになったルシェの口端から、どちらのものかわからない唾液が流れる。それを追うように這った舌が耳朶を舐め、それだけでルシェの腰はびくりと跳ねた。 「あっ……っ」  レオンハルトの唇が首筋を撫で、うなじを覆うネックガードに触れた。 (噛んで欲しい……今すぐに……)  レオンハルトが、ネックガード越しにうなじを甘噛みする。  ルシェはじわじわと熱くなっていく腰をレオンハルトに押しあてた。レオンハルトのそこも、すでに硬くなりかけている。 (足りない、それだけじゃ……)  うなじに歯を埋めて欲しい。  契約の証が欲しい。 (もっと……もっと……)  突然、ガタリと馬車が揺れた。  ルシェは、自分たちがどこにいるかを思い出し、慌てて起き上がった。真っ赤になった顔を隠したくて、手近にあるブランケットを取り、顔を埋めて蹲る。  それを眺めたレオンハルトが、ふっと口端を吊り上げた。 「次の発情期に、あなたがそうやって丸くなっても、俺はもう遠慮しなくて良いのだな」  ルシェは、レオンハルトの唾液で湿ったネックガードに触れた。  遠慮をしなくなった彼に、自分は抱かれるのだ。  ルシェの顔はますます熱くなった。その時どんな痴態を彼に晒してしまうのか。それはほんの少し想像するだけでも身悶えするほど恥ずかしかったが、待ち遠しいと思う自分もいる。 (まさか俺が、発情期を待ち遠しいと思うなんて……)  愛おしそうにルシェを見つめていたレオンハルトが、不意に肩をすくめた。 「今更だが、あなたに先を越されてしまったのは少し悔しいな」  えっ、と目だけをレオンハルトへ向ける。そういえば、彼が馬で駆けてきた理由を、まだ聞いていない。 「あなたと同じようなことを伝えたくて来たのだ。……いや、こんな言い方ではますます格好がつかない」  レオンハルトはそうぼやくと、急に真剣な顔つきになった。 「ルシェ、あなたは、俺から奪うようなことを言っていたな。けれどそれは間違いだ。あなたが奪うのではない。俺が、それを選ぶのだ」  そう言ったレオンハルトが、微笑みを浮かべた。 「愛しているよ、ルシェ」  自分の顔が一瞬で燃えるように熱くなるのを感じ、ルシェはブランケットを被った。 「頬を赤らめるあなたも愛らしいな」  さらにそんなことを臆面もなく囁かれ、ルシェも何か言葉を返したくなった。  できるだけ甘く、レオンハルトが思わず赤面してしまうような言葉を。 「俺も愛している。ずっとあなたを愛し続けるよ、レオンハルト」  結局、レオンハルトの言葉をそのまま返すだけになってしまった。  頭上で、レオンハルトが喉を詰まらせたような声を出す。呆れられてしまったのか。そう思いそろりと仰ぎ見ると、彼は耳まで真っ赤になっていた。 「……あなたからの愛の言葉は、心臓に悪い」  自身の胸に手をあてて、レオンハルトは呼吸を整えた。 「だが、言葉が本当に刃となって心臓を貫くとしても、この甘美な瞬間を、俺は手放せそうにない」 (俺もそうだよ)  そう言葉に出そうとして、けれど急に胸が詰まって俯いた。鼻を啜ると、レオンハルトが焦ったようにルシェの背中を撫でた。 「ルシェ、刃というのは比喩だ。心臓に悪いと言ったのも、決して嫌だという意味ではない」  必死になるその姿に、ルシェの心臓がきゅうと締め付けられる。  レオンハルトの言った通りだ。心臓に悪いのに、それはとても甘い。 「あなたって、とても格好良いけれど、とても可愛らしい人でもあるんだね」  涙を拭ったあと、つい、そんなことを言ってしまった。  目を丸くしたレオンハルトが、しばらくしてルシェに寄りかかった。 「……ルシェ、困ったぞ」 「どうしたの?」 「発情期まで耐えられるか、自信がなくなってきた」 「耐えるって……うなじを噛むのが?」 「いや、うなじは発情期に噛まなければ効力はないだろう。そうではなく、な」  ルシェがその言葉の意味を理解したとき、また馬車がガタリと揺れた。長椅子から落ちそうになるのを抱き止められる。 「……我慢しなくても、いいんじゃないかな」  レオンハルトの胸の中で、ルシェは言った。その直後に、あることに気づいて「でも」と目を伏せる。 「もう何年も……その……後ろは触っていないから、慣らさないと……」  もちろん多少の痛みは我慢できるし、それはルシェにとっての喜びだ。けれど、レオンハルトはルシェがほんのわずかに顔をしかめただけでも、自分を責めてしまうだろう。  そうならないように、自分でしっかりと準備をしておきたい。  何かを思案していたレオンハルトが、「そうだな」とかすかな声で言った。 「では、ともにゆっくりと慣らしていこう」 「え? お、俺は自分で――」 「ルシェ、その愉しみを俺から取り上げるなどとは言わないでくれ」  レオンハルトは、ルシェの額に唇をあてて懇願した。 「で、でも、忙しいでしょう? 今日だって、無理して来たんじゃないの?」 「誰よりも愛するあなたのことを最優先にするのは、当然だろう?」  真剣な顔でそう言ってから、レオンハルトは口角を吊り上げた。 「だが、あなたに失望されるのは困るからな。政務を放り投げる真似は……できる限りしないと誓おう」 「絶対、じゃないんだね」 「そうは言えない俺の気持ちを、あなたも知っているだろうに」  もちろん、知っている。 (もう一度愛していると言ったら、この人はどんな顔をするのだろう)  ふと湧いた悪戯心が、ルシェの胸をくすぐる。 (もしかしたら、レオンハルトも同じようにいろんな俺の顔を見たくて、言葉を紡いでいるのかも)  そう思ったら急に可笑しくなり、そしてどうしようもなく愛しくなって、ルシェはレオンハルトに口づけた。

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