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3 花の行方(4)
目の前の夕泉は、犀星の血を分けた兄である。しかし、それより先に、玲陽を長い呪いの中に閉じ込め、許しがたい苦しみを負わせ続けた張本人である。
どのような理由があったとしても、その一点は決して看過することのできない、紛れもない悪であった。
犀星の正義は、何をおいても鈍ることはない。
捕らわれた獣のように、あらん限りの力でもがく犀星を、涼景は歯を食いしばって抑え続けた。涼景の体躯の下で、犀星の体が激しくのたうち、軋んだ。犀星の全身からほとばしる激情は、涼景までも戦慄させた。
ただ一人と決めた人のために、犀星の全てが泣いていた。
存在が根底からわなないていた。
犀星の思いにさらされながら、夕泉は至って静かだった。自分に挑みかかろうとする弟の姿を見ても、なおその静けさは揺るがなかった。
諦めているのか、それとも全てを見通しているのかわからない、冷めきった心。それが夕泉の有り様だった。
涼景に、犀星はひたすらに抵抗した。
それは振り払うためではなかった。制御を超えた力をぶつけ、押し潰されることを求めていた。
犀星の抵抗は、|止《と》めてくれと縋っていた。
涼景の答えは、|逃《のが》さない覚悟だった。
文字どおり命を盾に、涼景は犀星を抱きしめて離さなかった。
強靭な腕にすがり、犀星は呻いた。身じろぎするたびに、涼景の腕が食い込み、体が重くのしかかった。
激しい力の衝突の中で、犀星は喉をわななかせ、叫んだ。
「たとえいかなる理由があろうと、私が許すことはない」
その声は肌を伝い、涼景にまで狂おしく響いた。
「人を想う心を知るなら、今の私がわかるはずだ」
「……哀れな」
夕泉の声は決して取り乱しはしない。それは、しなやかに風に揺れて折れることのない、白い花にも似ていた。
犀星は上半身を無理にのけぞらせ、身を乗り出して手脚を突っ張らせた。
涼景は体重をかけてそれを留め、決して自由にはさせなかった。
ひときわ大きく、犀星が動いた。体勢が傾き、涼景の左腰で刃が地に当たって音を立てた。
これだけは、決して抜かせてはならない。
抜けば、最後だった。
備拓と夕泉を相手にして、涼景に負ける気は無い。だが、斬り合いになったが最後、それは犀星の敗北となる。
兄に刃を向ける、それだけは避けねばならない禁忌である。
夕泉はしっかりと犀星を見下ろした。
その目は、どこまでも玲陽のものであった。心も体も自由を奪われ、犀星は耐えた。
夕泉は表情を動かさないまま、しかし、すべての根底を覆すように、重く、声を沈ませた。
「伯華、すべてはそなたより始まりしことぞ」
夕泉の声は穏やかで、真実を知る者の余裕があった。
犀星は一瞬動きを止めた。それからまた深く息を吐いて、鋭く夕泉を眼差しで貫いた。
「どういう、意味だ……」
「すべては、そなたが招きしこと」
夕泉は繰り返した。
「されど、それはそなたの罪ではない。皇家と玲家の血の交わりゆえ」
「私の血に、何の関係がある?」
犀星は再び、声を乱した。|蒼氷《あお》の親王の面影はとうになく、あらわになった感情が迸る。
涼景の全身に汗が浮いた。だが、踏みとどまってくれるのならば、いくらでも身を挺する覚悟があった。涼景はしびれる手脚にさらなる力を込めた。
そうしながらも、涼景には夕泉の次の言葉が恐ろしくてならなかった。
読みきれない夕泉の言動は、どこで犀星の最後の理性を砕くだろう。
夕泉の目元が不敵に歪んだ。
犀星の感情を決壊させる鋭い言葉が、夕泉の喉元まで迫っているようで、身の毛がよだった。
「夕親王殿下、これより先はご容赦を!」
思わず、涼景は声を張り上げた。
「歌仙様も、どうか、お心を収めください。兄上様への乱心、義に反することにございます」
「下がれぬ!」
犀星は思うに任せて叫んだ。
「私が始まりと言うのなら、訳を言え!」
犀星の叫びは庭中にこだまし、広縁で待機していた備拓たちの耳にも届いた。
限界である。
玲親王の乱心は、夕親王の身の危険。
異常な光景に痺れを切らし、備拓と十数名の左近衛が砂利を踏み荒らして駆け寄ると、犀星と涼景を取り囲んだ。
涼景の鋭い眼光に睨まれて、左近衛は数歩、後退った。備拓は夕泉のそばに立ち、片手を太刀にかけて、隙のない目で涼景たちを見据えた。
しばしの沈黙。犀星と涼景の荒い息が混じり、空気が緊迫感に張り詰めた。
動けば、血を見る。時代が、均衡が崩れる。
左右の近衛隊長は必死にその場を収めようと、目配せし、牽制するが、鍵を握るのは二人の親王だった。
「五亨庵」
夕泉は静かに呟いた。
それは決定的な一言のように、犀星の胸に突き刺さった。
夕泉の目が煌めいた。
「そなたが石を目覚めさせ、新月の光を導いた」
静寂と、水の音。
そして、高鳴り続ける心音と、言葉にならない乱れた息。
涼景はその全てを、犀星の内側に感じた。
「光理に呪いを負わせたは、そなた」
夕泉は、繰り返した。
意味と言葉がうまく噛み合わず、それは何度も犀星の耳の奥で反芻した。
犀星の目から、夕陽の残光が宵に飲み込まれるように、光が引いていった。
代わりに、瞬く星のように涙が潤み、煌めきを増した。
一瞬遅れて、緊張していた体から力が抜け落ち、涼景の腕がそれを支えた。
激情が、凍りついた。
真っ青になった犀星の顔を、夕泉はただ静かに見下ろした。
「そなたは、何も知らなかった。それだけのこと。知らずとも、世の道理は変わることなく、真実は常に真実のまま」
犀星の頬に、涙が落ちた。唇がかすかに動いたが、声は聞こえなかった。
犀星自身、どこかで気づいていたのかもしれなかった。五亨庵と自分との縁。それは決して、偶然や幸運ではない、さだめの奔流であった。
感じながら、自分を司る見えない巨大な力が、直視することを拒んでいた。
いつしか犀星の身体の熱は失せ、力も失せていた。崩れ落ちた犀星を支える涼景の胸は、友と同じ痛みに引き裂かれていた。
「そなたに一つ、頼みがある」
夕泉は庭の景色へと目を向けた。
「光理の力を借りたい」
犀星のまぶたが、かすかに震えた。
「この庭は、そなたたちのもの。ここで再び傀儡を喰らうがよい。一人とは言わぬ。此度は、そなたがそばにいるではありませぬか」
「…………」
「そなたたちのさだめに従い、五亨庵に力を。この世に平穏を」
涼景の背筋が冷えた。兄である夕泉の頼みは、すなわち断ることを許されない命令であった。
犀星の心音が、その速さを増した。血の流れが変わったことを、涼景は敏感に察知した。
「世を救うさだめより逃れしことは、世を滅ぼす道と同じこと」
声を荒らげないがゆえに、夕泉の言葉は鋭利だった。
犀星を刺す一言一言が、瞬く間に心を血で染めた。
傀儡喰らいこそが、五亨庵の力を強める最も大きな要因となり得るという真実。
そしてそれが、世の平穏を守るということわり。
玲陽はすでに孤独ではなく、犀星がその身を癒し、ともに生きることを許される未来。
夕泉はそばに寄ると、犀星を見下ろした。その目には、愛情も蔑みも、何の感情も見えなかった。
涼景にはただ、どこまでも黒い瞳が、犀星という光を飲み込むかのごとく掲げられているようだった。
涼景は息を飲んだ。
事情を理解していない備拓たちは、ただ、犀星と涼景が動けば、すぐにでも刀を抜く気配である。
だが、すでに事態は、斬るか斬られるかという段階をとうに超えていた。
すでに、犀星の心は、散々に斬り裂かれていた。
真っ赤に染まった心の断面から、おびただしい感情の血が噴き出して、涼景を染めていた。
声も言葉もなく、涼景はその血の味を噛み締めた。
心折られた犀星に、もはや、何も期待はできなかった。
自らが玲陽を煉獄に落としたという現実は、徹底的に犀星の魂を打ち砕いた。
夕泉は犀星の顔を覗き込んだ。金色の目は優しく、まるで玲陽が犀星の心を溶かすような甘ささえ浮かべていた。
「わたくしが力を貸そう。さすれば、五亨庵の力も整い、そなたの平穏も、この国の安寧も守られよう」
涼景の中で、何かが千切れる音がした。
決定的な断絶だった。
涼景の腕に身を預けていた犀星の奥から、あまりに静かな、そして、はっきりと芯を持った声が響いた。
「国など、滅びれば良い」
小さいが、血を吐くような犀星の声に、滝の水が一瞬途切れた。
備拓も左近衛も、そして涼景も、ぞくりと鳥肌がたった。
犀星は、紺碧の目を上げた。
そこには、蒼い氷と言われた、あの、揺るぎない表情があった。
「陽は私の全てだ。それ以外に、価値はない」
涼景は全身が震えた。それが歓喜であることに、遅れて、彼は気がついた。
「兄上が何を望もうと、それがいかに世の正論であろうと、私は、世界より、陽を選ぶ」
言いやがった。
思わず、涼景は乾いた笑い声を漏らした。
狂気じみた、だが、堪えられない何かが、魂の底から湧き上がった。
毅然とした犀星の蒼い瞳が、|爛《らん》と輝いていた。
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