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4 映る景色(1)

 夕泉の居室に接した小庭は、喧騒を忘れた異界のようであった。  心地よい湿り気を帯びた風が石灯篭の隙間を抜け、高い音を響かせた。中庭から続く細い流れが最後の池となり、せせらぎは優しく時を奏でていた。  三方の視線を遮る高い木の壁には、小さな黄色い花を咲かせる蔦が豊かに茂って垂れ下がっていた。  色づき始めた太陽の光が箱庭の中に漂い、全てが懐かしい色に染まっていた。  何もかもが夢幻のごとく。  玲親王が去った奏鳴宮は、役目を終えた骸のように静まっていた。  夕泉は庭の長榻に腰を下ろし、身動きもなく、正面を向いていた。  夕陽を浴びても、白い着物は、なお、やはり白かった。  数歩離れた位置で、備拓は黙ってその背中を見つめていた。  右近衛の伝令が、犀星が無事に五亨庵へ戻ったことを知らせにきたのは、もう、随分前のことのように思われた。  左近衛は通常の守りにつき、夕泉は一言も口をきかないまま、時だけが過ぎた。  備拓は、夕泉の膝の端から覗く百合の一輪に目を向けた。  血がにじんだように赤らむ花の芯が、潤んで見えた。  夕泉自ら手折った花は、やけに眩かった。  何が起きているのか。  備拓には、まるでわからないままであった。  かつての備拓ならば、それでよい、と心を閉ざし、寡黙に役目をまっとうするに徹しただろう。だが、今回は随分と、気持ちがざわついていた。  歌仙親王と承親悌のありよう、涼景と祥雲の対応、そして、主人である夕泉の不可解。  それらが絡み合って彩なす景色を前にして、自分だけはまるで完全な傍観者であるかのように、外側に置かれていた。  今までも、似たような状況は数え切れないほどあったはずだった。  だというのに、今はやけにそれが気に障るのだ。  時折、思い出したように、夕泉は手元の花を揺らした。花は、備拓の知らない記憶と結びつき、こたびの一陣の嵐の何もかもを見届けたかに思われた。  夜を呼び込む|蜩《ひぐらし》が一匹、どこかで鳴き始めた。  普段は気にも止めないその声が、備拓の耳の底にひときわ大きく流れ込んだ。  備拓は屋敷の部下の配置を確かめた。いつもと変わらぬ日常のその景色が、なぜか午前中の出来事をすっぽりと飛び越えて、何事もなかったかのように塗りつぶしていた。  まるで幻。ふたりの親王の再会は、誰もが予想だにしていなかった最悪の形で終わりを告げた。  刀を抜く事はなかった。暴言を吐くことすらなかった。ただ、玲親王の悲鳴だけが滝の水を遡った。  何を、お考えなのか。  備拓は、物言わぬ夕泉を見つめ続けた。  日が落ちれば、交代の時刻である。奏鳴宮の夜勤を部下に任せ、天輝殿に向かわねばならない。  だというのに、今日はどうにも立ち去る気になれなかった。  夕泉の姿は暮れの光と同化し、儚さはその衣の透ける色そのものだった。すべての光を吸い、自らの内に閉じ込める。それでいて、何者にも染まらない。  備拓は無言のまま、夕泉のそばに片膝をつき、じっとその腰帯のあたりを見つめていた。着物は一切乱れず、帯は微塵も緩まない。それなのに、朝日の中に立っていた時よりも少しだけ乱れて見えた。  袖口から覗く指先が、百合の茎をくるりと弄んだ。 「殿下」  喉の奥から備拓は声を絞り出した。  話しかけても夕泉が答える事は滅多にない。大抵はそのまま聞き流し、心に留めているのかすらわからぬままに時が経つ。ただ一方的に備拓が報告し、返事も得られぬままその場を去るのだ。  だが、今、備拓は覚悟を決めていた。  玲親王の叫び、涼景の命がけの制止、そして我が|主《あるじ》夕泉の、事情はわからぬまでも、深く相手を突き刺す、言葉の刃。  あの場で、刀を抜いたのは夕泉だった。  玲親王を傷つけ、涼景を追い詰め、兄弟の間に確実に溝を作った。備拓には、それが悔やまれた。備拓の夕泉に対する無理解が引き起こした悲劇だった。  なりふり構わず、犀星を抱き止めた涼景の懸命さに比べ、自分はどれほど無自覚に怠惰であったことか。  知ってしまった上には、覚悟を決めるしかなかった。 「殿下」  再度、備拓は声を張った。  夕泉の目がどこに向いているのか、それすら知ることもなく、ただ、奇妙な焦りが備拓を突き動かした。長榻の脚に張り付いた苔が、湿った色で暗く光っていた。  それは夕泉の心そのもののようで、備拓は次の言葉が見つからなかった。それでも、このまま立ち去ることはできないという、使命にも似た思いだけは強く、その胸に湧き上がってきた。  つまびく琴が、屋敷の奥から聞こえた気がした。水のせせらぎも、玉飾りの触れ合う音も、何もかもが蜩の間を埋めて、刻々と時を押し流してゆく。  だというのに、備拓と夕泉との間には、|澱《おり》のように濁った水がいつまでも動かずに溜まり続けていた。夕泉の百合がわずかに揺れて、花弁が静かに回った。 「……お疲れでございましょう」  備拓はかろうじて、そう口にした。その言葉のほかには、何も出ては来なかった。  本当に問いたいことは、別にある。  悲しいほどに、思うようにはならない。  もしこれが燕涼景であったならば、そして相手があの青い髪をした親王であったとしたら、おそらく何のためらいもなく、存分に言葉をぶつけ合うことができるのであろう。  だが、備拓にそれは叶わない。  長年染み付いた宮中でのやりようは、どんな時にも備拓を縛った。結ばれた縄目を緩めようともがくほどに、痛く食い込んだ。  何を、お思いなのですか?  備拓の心は言葉にならず、ひたすら胸中を巡るだけだった。それはまるで、いつ果てるともしれない蜩の声のようであった。 「今年は、早いの」  不意に、単調だった音が、波だった。  備拓は我が耳を疑った。伏せた目がさまよい、しかし、間違いなくそれは、自分に向けられた主のつぶやく声であった。 「悲しき声よの」  寡黙な夕泉が、二言目を重ねたことに、備拓は驚いた。  重なることのない眼差しと、心。  だが、確かに同じ響きを聞いていた。蜩の声が、共通の世界だった。それだけで、影と影が重なったような、頼りなくも確かな一致に心が安堵した。 「殿下は、蜩がお嫌いですか?」  備拓の口をついたその問いが出たのは、無意識だった。それもまた、本当に知りたいことではなかったはずだが、不思議と、正解である気がした。  夕泉は百合を、そっと口元に引き寄せた。 「好きも嫌いもない。ただ、想い出が深いだけ」 「想い出……でございますか」  備拓は思わず繰り返し、そして、戸惑った。完全に気後れして、流されている気がした。  それでも、腐った水に沈んだまま、ぼんやりと歪んだ雲を見上げているより、心が軽く感じられた。  夕泉の揺れる袖が柔らかく弧を描くのを、祈るように見つめ続けた。  はらりと、膝の上に細い銀の紐と、薄絹のメンシャが落ちた。  備拓は咄嗟に目を上げかけて、慌ててそれを下ろした。  夕泉が素顔を見せる事は珍しかった。 「想い出……なのだろうか」  先ほどより、はっきりとした夕泉の声が、備拓のそばに落ちてきた。 「ただ、忘れることが叶わぬ記憶というものは」  備拓の全身に鳥肌が立った。夕泉の言葉を、備拓は初めて聞いた気がした。膝のメンシャが、ぽたりと雫に濡れた。備拓は我が目を疑い、声を失った。  目の前で、忠誠を誓うべき主人が涙に暮れる。  この状況にとるべき対応など、備拓には想像もつかなかった。  一瞬、青い目からこぼれる涙と、守るように包み込んだ深いえんじ色の交錯が蘇った。  近衛とは、近くを衛り、控える者。  踏み込む者にあらず。  その線を超えた五亨庵の有り様を真似ることなど、備拓に出来ようはずもなかった。  ひたすらに、困惑と胸の高鳴りで、備拓はうろたえた。 「殿下……」  たまらずに呼びかけるだけで精一杯の備拓に、夕泉はかすかに気配を緩めたようだった。 「すまぬ」  再び、理解しがたい言葉に、備拓の感情がかき乱された。 「忘れよ。そなたには、関係のないことゆえ」  それは、紛れもない拒絶だった。  同時に、すがりたい真意でもあった。  このような友情を備拓は知らない側に使えて、もう五年を過ぎるが三年になるが、その間一度たりともある字が不要に自分に話しかけることなどなかった。  言葉は常に記号であり、景色であり、手順であった。  そこに感情はなく、共感も同情も理解も求められてはいなかった。  今、はじめて、それは夕泉の言葉であった。備拓は、体の震えを感じた。  近衛隊長を務めていようと、夕泉を重んじる心がなかったのは、備拓の不徳ではなかった。夕泉の言動がそれを決めていた。  しかし……  と、備拓は心の底で思った。  尊敬がなくとも、心がないわけではないのだ。  関係のないことで、あるはずがない。今の私には。  備拓は意思を持って、涙する主人の思いに一歩、踏み込んだ。 「殿下に関わることは、臣に無関係とは参りませぬ」  自分でも驚くほどに、はっきりとした声が出た。  それは無礼な一言であったのかもしれない。  近衛としての分を超えた、まるで犀星と涼景のようなつながりを求めていたのかもしれない。  それでも備拓は止めなかった。  もうここから先、止まることはできなくなっていた。 「臣は罪を犯しました」  自然と備拓の口から告白が漏れた。 「我が罪は、主の心を知らぬままに、上辺をなぞったことにございます」  夕泉は何も言わなかった。ただまた一つ、涙が落ち、わずかに色濃く布に染みてゆく。 「臣は殿下の近衛にでございます」

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