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4 映る景色(2)
初めて、備拓は心から、そう思い、それを伝えた。形ばかり思いのない主従であった。備拓ばかりか、夕泉もまた、そうとしか見てはいなかったはずだった。
今見せた涙とて、ただの気まぐれとさえ取れた。
だが、きっかけはたとえ、ほんの一瞬の気の迷いであったとしても、そこから先が本心ではないと、誰にも言い切ることはできない。
備拓は目線を夕泉の膝の上に据えたまま、体をわずかに背を伸ばした。
「臣には殿下の心はわかりかねます」
一言一言を差し出すように、備拓は続けた。
「それは我が身のいたらなさ、恥ずべきことと存じております。されど、あえてお尋ね致します。殿下の御心を、承りたく」
慎重に、備拓は告げた。
夕泉から、あきらめのため息が漏れた気がして、備拓は恐れた。
気づけば、鞘を握る手が震え、小口がわずかに音を立てていた。
沈黙は、息苦しく喉につかえ、こわばった首の後ろに痛みが走った。それでも、備拓は動かなかった。ここで席を立ち、奏鳴宮を後にしても、心を置き去りにしてしまうことが、備拓には見えていた。
「わたくしに話したいことが終わりか?」
背筋が冷えて、備拓は息を吐いた。
いつものけだるげな声が、そっと降ってきた。
拒絶。
いや、単なる問いか。
声色から真意を悟れぬほど、備拓と夕泉の関係は遠かった。それでも問わねばならない。言葉を選び、呼吸を選び、時を数え、夕泉の胸の内にあるものを、さぐり当てたかった。
やがて風が吹き、笛灯籠が低く鳴った。
再び、備拓は胸に息を吸い込んだ。
「かつて殿下は玄武池の視察をお望みになられました」
「五亨庵を気にしてのこと」
夕泉が、素早く答えた。その呼吸の重なりに、備拓はわずかにうろたえた。夕泉の言葉は偽りではない。しかしすべてではない。
備拓はさらに続けた。
「臣にはそうとは思われませぬ」
それは臣下としてあるまじき声であった。同時に、備拓が長く秘め、解き放ちたいと願った叫びでもあった。
「玄武池での怪しげな出来事、殿下はその場を離れようとはなさらなかった。すべてをご存じであったのではありますまいか」
揺れていた備拓の目が、見るべきものを見定めたかのように、強い光を放っていた。
「そして本日、殿下はいかなる目的があって、あれほどに玲親王を追い詰めなされたのか」
じっとりと絡む気配が、夕泉の方から熱のように伝わってきた。
「恐れながら、申し上げる。兄として、人として、殿下の歩まれる道を、臣は認めることができませぬ」
備拓は額に浮く汗を感じながら、歯を食いしばった。
夕泉が、得体の知れない存在から、さらに自分を飲み込む怪物へと変貌する恐怖が、沈黙となって覆いかぶさってくる錯覚を覚えた。
今まで触らずに距離を取り、そっと接してきたからこそ捕らわれずに済ませた真実が、逃れがたく目の前に立ち塞がっていた。そうなると承知で、自ら縄に首を差し入れ、備拓は床板が抜ける時を待つ囚人の心地で、自らの鼓動を聞いていた。
一言たりとも答えはなく、代わりに、夕泉の膝に花が置かれた。花びらが一枚はらりとはずれ、備拓の目の前に落ちた。
それが意図したことか否か、備拓にはわからなかった。
喉はまだ、締め上げられない。
備拓は残された時間を惜しむように、口を開いた。
それでもやはりとはねばならぬのだ。
「殿下を責める意図にあらず。ただ、あまりにも、臣の知る殿下と違うご様子に惑うばかりにございます」
備拓の言葉の最後に、乾いた夕泉のため息がかかった。
「そなた、わたくしの何を知る?」
備拓は喉が引きつった。
夕泉の一言は、あまりに真理であった。
知ろうともせず、目を背け続けてきたこと。無関心は、備拓が思う以上に、夕泉に刺さっていた。
もう、言えぬ。
備拓は目を閉じた。
諦めた深い息が、まるで自らのものであるかのように、耳元に聞こえた。
「されど……」
幻聴のように甘く、緩く、夕泉は続けた。
「今までのそなたより、はるかに良い」
丸い声は、備拓がよく知る、物憂げで儚い、夕泉のものであった。
時は等しく過ぎ、悪夢のような出来事も闇夜に沈む。
涼景は、犀星の寝室の前で、ぼんやりと回廊に座り、庭を眺めていた。
背後の部屋では、静かに犀星と玲陽が眠りについていた。
あまりに長い一日は、まだ、夜の半ばをを過ぎない時分であった。
半分開かれた部屋の戸から、涼景は中を覗いた。何事もなかったかのように、寄り添って眠る犀星と玲陽の寝顔が、やけに幼く思われた。
結局、何も、なし、か。
涼景はひっそりとため息をついた。
奏鳴宮から戻った犀星は、玲陽に何一つ、話さなかった。犀星を待ち望んでいた玲陽も、黙って抱きしめただけで、語る言葉はなかった。二人とも、顔色はよくないままだったが、その他には、あまりにいつもの二人だった。
涼景も東雨も何も言わず、ただ、少し離れて、普段と変わらない睦まじい二人の姿を見守っていた。
屋敷に戻り、並んで夕餉の支度をし、昨日と同じ食卓を囲み、洗い髪を梳かしあい、夜着の合わせの深さまで、何も変わらぬ日常。
眠りの前に口にする茶の色も温度も炊く香も、特別なことは何もなかった。
気味が悪いほど、変わり映えのない夜。
まるで、今日一日が、すっぽりと抜け落ちて消え、誰も思い出すことのない無に帰したような光景だった。
犀星を送りがてら、屋敷に残った涼景は、また、ぼんやりと庭に目を向けた。
どうしても、離れる気にはなれなかった。
これから、どうするつもりだ?
忘れかけた夢のように、奏鳴宮での犀星の苦悩がちらついた。
玲陽に甘えて眠る犀星の顔は、涼景の腕の中で荒れ狂った人と、別人のようだった。
屋敷の外では、時折、わっと大きな笑い声が上がった。今夜は、普段より多くの暁隊士を配置していた。外からの敵よりも、犀星が予想外の行動をとった場合に備えるため、という方が正しかった。
涼景の視界に、中庭の畑が影絵のように映った。実に乏しく虚に飾られた奏鳴宮とのあまりの落差。だが、地に足のついた堅実な暮らし。
尊い想いがして、涼景の心がほんの少し緩んだ。
手入れされた畑でのびのびと育っている葱と韮は、もうじき食べごろらしかった。東雨がの言葉を思い出した。葱は|羹《あつもの》にしてとろみをつけ、韮は卵と合わせて焼く。そう言って、明るい顔で東雨は笑った。あの笑顔は、今朝のはずだった。それが、今はあまりに遠い。
上弦の月が、柔らかな軒の影を庭に落としていた。雲がうすくたなびき、光が映って余計に明るかった。風はなく、しん、と静まった庭の隅から、高い虫の音がいく筋も響いてきた。
涼景は腰の後ろに手をついて脚を投げ出し、空を仰ぎ見た。そっと目を閉じると、ぬるい空気が、わずかに甘く香った。
もう、夏だ。
季節があまりに早く、理由のない焦りを覚えた。
目を開き、また、月を見た。雲がわずかに動いて、形を変えていた。
犀星の屋敷に泊まり込むのは、いつ以来だろう。
最近は何かと忙しく、顔を見せても朝まではいないことが多くなっていた。涼景の目が陰りを帯びた。
少しずつ、確かに移りゆく時間の中で、自分たちはいつまでも、同じではいられない。どこへ向かっていくのか、何を掴んだらいいのか。
旋風に吹かれる木の葉のように、心がばらばらに散っていきそうで、涼景は唇を固く結んだ。
軽い足音が、回廊の板を通して涼景の手のひらに伝わってきた。小さく丸い期待が、胸に生まれた。
振り向くと、夜着に、一枚毛氈を羽織った小柄な人影が、まっすぐにこちらに歩いてくるのが見えた。東雨だった。
涼景は黙ったまま、目で姿を追った。
東雨は静かに涼景の隣に腰を下ろした。短い裾から覗いた、子供のように細い足やたらと目についた。二つの瞳がじっと庭に向けられていたが、見えているとは思えなかった。瞳はさらに遠くか、それとも、心の内に向いていた。
つられるように、涼景もまた、同じ方を向いた。二人の視線が並行に庭を横切り、正面にある応接室の閉じられた戸に刺さった。
遠くから、蛙の鳴き声が聞こえる気がした。
わずかに身じろぐ気配があって、ふたりは揃って部屋の中を振り返った。玲陽の手が褥を引き寄せ、整えて、犀星に掛け直すのが見えた。そして再び、穏やかな眠りが訪れた。
「なぁ」
犀星たちを眺めたまま、東雨が発した。
「……明日の朝、何を食べたい?」
涼景は瞬いた。それから、暗く沈んだ畑を見た。
「新鮮なやつ」
「……わかった」
月が雲に隠れ、庭がぼんやり暗さを増した。粛々と、虫が鳴いていた。並んで正面を向いたまま、二人は口を閉じた。
不自由な夜が全てを閉じ込めていた。
月がまた照り、庭の影を濃くした。
「聞かないんだな」
涼景が、聞き取れないほどの声で、ぽつりと呟いた。東雨は頷いた。
「どうせ、言わないだろ」
また、沈黙が続いた。
やがて、東雨が口を開いた。
「おまえだって、聞かないじゃないか」
「おまえだって、言わないだろ」
互いが問いも答えも知っているやりとり。再び、東雨は頷いた。
「……なぁ」
東雨は毛氈を掻き合わせた。
「いや、いいや」
よくわないけれど、と言いたげに、東雨は口をつぐんだ。
涼景は、そっと東雨の横顔を覗いた。
今日一日、あまりに多くがあり過ぎた。涼景でさえ、動くことが辛いほど、疲弊していた。慣れていない東雨ならば、尚更のことだった。体よりも、心が受け止めきれなかった。
肩を落とした東雨を見下ろし、涼景の唇がゆっくり動いた。だが、声は出なかった。
こういう時は、どうしたらいい?
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