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4 映る景色(3)
いつもの調子で、冗談にすることも考えた。だが、ふさわしくない気がした。
気の利いた言葉も思いつかず、仕方なく、涼景は沈黙した。
夜の空気は、冷えるほどではない。それでも、東雨は更に肩を縮めた。もう、子供ではないと思いつつ、涼景は幼い頃の面影を拭えなかった。
不意に鮮やかに、一つの記憶が涼景の目をふさいだ。知ってしまった、映相の呪い。
西苑で一度、今日の昼に一度。
どちらも、涼景には大きな黒い瞳だった。
涼景は唾を飲み込んだ。
夕泉が言ったことが嘘ではないのならば。自分は誰の面影を見ていたのか。
それは、迷うまでもなく、明らかに記憶の中の人だった。そうであって欲しくない、と願いながら、認めざるをえない現実が突きつけられていた。
俺は、まだ、忘れていない。
戸惑いよりも、恐れに近い感情が、涼景の胸に食い込んだ。
他の誰でもいい、あの人でさえ、なければ。
それは、祈りにも似た逃避。
長く黙った涼景を、東雨が遠慮がちに振り返った。
同じ、黒い目だ。
涼景はそんなことを思った。なぜか、一抹の寂しさを感じた。
「涼景」
名を呼ぶだけで、東雨は何も続けられなかった。
弱音を吐くほど素直になれず、強がりを言えるほど余裕もない。それが、今の東雨だった。
「ここは俺に任せろ」
涼景は、東雨を優しく見た。
「おまえは、眠っていい」
東雨は眉間に皺を寄せた。
「子ども扱い、するな」
「いいから、寝ろ」
「眠くない」
「おまえが起きていても、無駄に消耗するだけだ。明日のために、眠れ」
「命令するな」
「してない」
「してる」
東雨は横を向いた。不満はないのに言葉は続く。それは、息をするための唯一の方法であるようだった。
涼景との言い合いは、東雨にとって心おけないひと時だった。
涼景とは、本音でぶつかる。
何を言っても許される。
どんなに言葉が荒く傷つけあったとしても、だ。
相手の信頼を確かめるように噛み合うのは、心地よかった。
戯れのように言葉をかわす時、東雨の胸は騒がしくなり、そして心はふわりと軽く、じわりと温かくなった。
東雨の表情がいくらか和らいだことが、涼景にもはっきりと見て取れた。
いつの間に、こんなに近くなっていた?
腕を伸ばせば、その首に指がかかる距離。
締めて殺すことも、抱いて温めることもできた。
涼景の周囲は、常に人が騒がしい。
暁隊の元気の良さ、右近衛の整然とした忠信、五亨庵の想像を超えた政略、どこからか注がれる正体の知れない悪意。
そんな中で、自分が弱さを見せる者はあまりに少ない。
強く見せるより、弱さを見せることの方が難しい。
自分にとって、その相手は誰なのかと問えば、自然と犀星が浮かんだ。しかし、その親友は今、自分以上に追い詰められている。
今、俺は、自分の足で立たねばならない。
涼景は腹を括った。
今の犀星には、そしておそらく玲陽にも、平穏が必要なのだ。
それは逃避でもあるが、休養でもある。決して逃げられない敵との対峙を前にして、せめて心を鎮める時間を守ってやりたかった。
涼景は、心細そうな東雨の背中を見つめた。
犀星たちを思う気持ちは、東雨も同じはずだった。
ならば、共に、この夜を寄り添っていよう。
涼景は深く息を吐いた。
東雨は揃えていた足を崩した。そうしながら、白く滲んだ月を見れば、少しだけ気持ちが晴れた。
「どうせ、ここにいたって、俺は役に立たないよ」
すねたように東雨は言った。
「そこまでは言ってない」
涼景が柔らかに答えた。それ以上は東雨の自尊心を優先して踏み込まない。だが、この若い近侍が疲れ果てている事は涼景にもよくわかった。
「お前はよくやっている」
月の光で照らされた東雨の白い顔を、涼景は眩しげに見た。
夜の庭は、このひたむきな青年にはふさわしく、質素で薄い銀に染まり、土の下には力強い命が眠っているように思えた。
月の光はふわりと頭上を照らし、東雨の髪を濡らした。
わずかに引きつった涼景の頬に、初めて笑みが浮かんだ。緊張が薄らぎ、疲れが押し寄せた。だが、それは不快ではなかった。やっと自分を取り戻した気がした。
涼景は前かがみになると、体の前で指を組んだ。そして目のやり場も定まらぬままに庭に戻した。月の加減のせいだろうか、庭は、少しだけ広くなったように思われた。
「俺、いいから」
東雨の声は控えめだが、みずみずしく響いた。
「いいから、もう休め」
涼景はそっと遮った。
「東雨」
呼びかける声は犀星にも似て、慈愛の色が濃く現れていた。
東雨は上目遣いに、恐る恐る振り返った。
月明かりが涼景の目に映り、その中に東雨の姿があった。
「ごめん、おまえの邪魔はしないから、ここにいさせて」
わずかな驚きが、涼景の心臓を早めた。東雨は言い訳のように、
「眠れないんだ」
自分自身の言葉に戸惑ったような東雨の横顔を、涼景は見つめ続けた。
今夜はこの顔を一晩中、眺めているのも良い。
そばにいても、ぬくもりを感じない距離。
手を伸ばすことができないのは、弱さか強さか。
涼景は東雨の背中と、庭と、月とを、視界に収めた。
不安も困惑も消えることはない。今日という日はあまりに重い。それでも、日が昇る前までの間、束の間、すべてを忘れていたかった。
涼景が一つ、大きく深呼吸をしたその時、門の方で人の声がした。
正面の応接室の扉が静かに開かれ、涼景は目を見張った。白っぽい影がこちらを見ていた。
東雨がぎくりと体を縮めた。
雲間から光が差した。
「蓮章様…」
照らし出された庭へと、薄い色の着物を揺らして、蓮章が降りてきた。
東雨は安堵の息を吐き、身なりを整えた。反して、涼景の顔は厳しくなった。
涼景は素早く立ち上がると、庭の中ほどまで蓮章を迎えに出た。蓮章は、ちらりと犀星の部屋を伺った。
「親王は?」
「眠っている。……何かあったのか」
涼景は、低く声をした。その口調には、東雨に聞かれたくないという気配があった。
蓮章に化けた慎が、どこか切羽詰まった目で涼景を見た。
「いきなり悪い。だが、頼みがあってきた」
「頼み? あいつからか?」
慎は息を止めて、まじまじと涼景を見た。
蓮章が追ってやまない、毅然とした武人の目は、近くで見ると迫力に身がすくんだ。
慎は狼狽えそうな体を奮い立たせて、
「違う。俺から、だ」
涼景は眉ひとつ動かさず、見下ろしていた。
慎は胸の底から声を絞り出した。
「涼景、頼む、あいつのそばに行ってくれないか」
儚げな小声がささやいた。小さくとも抑え切れない思いが、今にも火花となってほとばしりそうなほど、感情がせり上がっていた。
涼景が深く、眉を寄せた。
「どうした? あいつの身に何か……」
慎は唇を噛んだ。
すべてを話してしまいたかった。
蓮章が今、どれほどの苦痛と悲しみで、心を痛めているのか、何もかも、ぶつけたかった。
だが、あえて、慎は堪えた。
蓮章が涼景に知られることを望まないと、誰より慎は知っていた。悔しく、いたたまれないほどに、誰より近くで見続けてきた。
慎の沈黙を、涼景が破った。
「あいつの頼みならいくらでも聞こう。だが、すまないが、俺はおまえには何もしてやれない」
そんな無力は、慎にはとうにわかっている。涼景は光の中に生きる。守るべきもの、やらねばならないことも数限りなくある。
影に生きる自分の小さな言葉を真に受けているほど、余裕はない。
それでも、慎は引かなかった。
「涼景」
呼び声はどこか、歪んでいた。
「あいつを止められるのは、あんただけだ」
涼景は目を開いた。
「ここは俺が代わる。だから、頼む、あいつのそばに、いてやってくれ」
これほど、慎の言葉が重たかったことはなかった。その身を切るような想いにさらされ、涼景は一瞬目を落とした。
蓮章が、待っている。
それは、涼景の苦悩も混乱も、明日の不確かさも、すべてを忘れさせるに十分だった。
だが、それが通じない。
今は、受け入れられない。
涼景には、一人にできない相手が、すでにいた。
……すまない、蓮。
気にするな。
心の中で詫びると同時に、蓮章の声が聞こえた気がした。
「あいつの頼みじゃないのだろう?」
涼景は、あえて突き放すように、慎に問うた。
悔しげに、慎は顔を歪めた。
「ああ、違う。俺の一存だ。だがな、これだけは……!」
「断る」
涼景ははっきりと答えた。慎の呼吸が乱れて音を立てた。
「あんた……本気で言ってんのか?」
慎は震える声を隠そうとはしなかった。光を失ったはずの灰色の目が鋭く光った。
「あいつ一人にするってのかよ!」
涼景は首を振った。
「悪いな。今夜は……」
涼景の目が不思議そうにこちらを見ている東雨を捉えた。そして、そのさらに先の暗い部屋へと向いた。
慎は必死に呼吸を抑えながら、それでも、涼景から目を離さなかった。
犀星の元を離れらなれない事情も、理解していた。
だが、理解しようと、認めたくないことが、慎にはあった。
血がにじむような声で、慎は呻いた。
「涼景、後生だ。おまえじゃなきゃ、だめなんだ……」
「……断る」
沈黙が立ち込め、慎は白くなるほどに両手を握り締めた。それから、不意に、静かに指を開いた。だらりと垂れた両腕と、下がった肩が、何かを手放したのがわかった。
「わかった……もう、いい」
絶望が、慎の顔に浮かんでいた。蓮章の影をまとい、慎は涼景を見つめた。
「あんた、最低だ」
吐き捨てた慎の声は、冷めきっていた。
涼景の胸の奥で、ごとりと何かが音を立てた。それでも涼景に迷いはなかった。慎は踵を返すと、来た時と同じように素早く姿を消した。
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