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5 連なり(1)

 遜蓮章にとっての一日は、常人の倍、長い。  暁番屋にたどり着いたのは、夜も深くなった頃だった。  涼景が宮中で動くとき、自分は暁隊を任された。  近衛と暁隊を、二人で守るのが、無言の約束であり信頼であった。それは、ともに同じ道を歩くと誓った日から、変わることはない。  今夜、涼景は犀星の邸宅に泊まり込む予定になっていた。  夕泉親王との会見後の相談もあるのだろうと、今朝までは軽く考えていた。  だが、偶然にも五亨庵で聞いた話が、蓮章の心をひどく重たくさせていた。  玲陽が夕泉から受けた衝撃は、おそらく犀星も同じたろう。  玲陽が席を外した後、犀星と夕泉がどんな会話をしたのか、おおよその想像はつくものの、その中身は決して愉快なものではなかった。そして間違いなく涼景も、その場で胸狂わせる言葉を耳にしているはずである。  最悪だ。  何よりも良くないのは、自分自身の気持ちの有り様である。蓮章の心はどこまでも荒んでいた。  花街で気にかけていた女郎が、焼印事件の巻き添えで命を落とした。  その犯人を是が非でも捉えることが蓮章にとって、引き下がることのできない決意だった。ようやく得られた有力な可能性は、よりによって最も、手の届かないところにあった。  本当に、最悪だ……  蓮章は何度も恨みの言葉を繰り返していた。  五亨庵からの帰り道、慎が物陰から投げかけた言葉が耳に刺さっていた。 『おまえでは、夕泉に近づくことすらできない』  悔しいほど、正論であった。  叶えがたい仇討ちと、諦めるには苦しすぎる思い。嘆いたところで甲斐のないことであった。  蓮章は感情を抜き捨てて外側から判断し、心を二つに裂いた。  思いをかけたものを奪われた憎しみと、今目の前でなさねばならぬ使命の重さ。まさに感情と理性とを分離するために、我が胸を大きく抉り取った。 「ヨォ、今夜もそそるなぁ」  門に立っていた暁板屋の見張りが、屈託ない気楽な声をかけてきた。  蓮章はニヤリと笑った。これはもう、条件反射としか言いようがない。一瞬だけ、日常が帰ってきた思いがした。 「誰も近づけるんじゃねぇぞ」  好みでもない部下に頬を寄せ、蓮章は低く笑った。  いつもなら、任せておけと笑い返すはずの見張りが、今夜に限って決まり悪そうに唇を歪めた。 「梨花、それがなぁ……」  すまなそうに見張りは苦笑いした。 「さっき熊殺しが来てさ……通した」 「……なんだって?」  蓮章の思考が一瞬混乱した。  こんな夜中に熊殺し、すなわち玲凛が暁番屋を訪れることなどない。嫌な予感しかなかった。 「今日は、夜勤を頼んでいないぞ」 「あんたに直接話があるそうだ」  蓮章はうなった。 「言い寄りたくなるのは俺が悪い、か」  精一杯に冗談めかして、蓮章は中へと入った。  暁番屋の入り口近くの部屋には赤々と明かりが灯されていて、数名の隊士が彼を迎えた。部屋は、警備の合間に立ち寄る者のたまり場となっていた。料理や酒が切れることなく、仕事中の休息なのか、休息中の散歩代わりの見回りなのか、知れなかった。  蓮章を見ると、皆が目の色を変えてにんまりとした。  何をどれほど期待されようと、蓮章が部下に手を出すことはなかった。代わりに、花の笑みと共に差し入れの酒を机の上に置き、そのまま奥へと姿を消した。  よほどの用がない限り、隊士は奥の部屋には立ち入らない。  そこは無言のうちに、蓮章と涼景の聖域となっていた。  しかし、今は一人、傍若無人の客人が、すでに待ち構えていた。  格子窓から外をぼんやり眺めて背中を向けていたが、その背に目でもあるのか、蓮章の気配にすぐに振り返った。 「こんな時間に狩りにでも行きたいのか?」 「獲物は蓮章様」  振り返りざまに、玲凛は一言低く言った。蓮章は眉をしかめた。 「俺は、おまえの口には合わないと思うぞ」  言ってしまってから、下卑た意味であるはずはない、と、蓮章は思い直した。 「夜這いに来たわけじゃないから」  先に、玲凛が否定した。  蓮章を見る玲凛の顔はやけに険しく、まるで戦場の敵を睨むようですらあった。  蓮章は、今の今まで自分自身を悩ませていた問題を棚に上げ、目の前の少女に相対した。 「俺はまた、おまえにどんな役立たずぶりを披露した?」  半ば諦めながら、蓮章は抱えていた木簡の包みを机案の上に広げた。  それはすべて、まっさらだった。これから今日一日の暁隊での事件の数々を、細かく報告にまとめればならないのだ。  蓮章はさっさと交椅に腰をかけ、墨と硯、筆を用意し、時系列に沿って出来事を丁寧に記し始めた。  その机案を、どんと震わせて玲凛の両手が叩いた。 「役立たずになるかどうかは、これから決める」  蓮章の筆が止まり、ちらりと目が上向いた。  こちらを覗き込む玲凛の顔は、真剣そのものだった。 「俺に言えることなら惜しまないが、言えないことの方が多い気がする」  蓮章は正直に答えた。 「さっき、あいつが屋敷に来たんだけど」 「あいつ? ……ああ」  どうやら、あの影は、玲凛相手には全くの無能らしい。蓮章は午後の事件から順に書きつけながら、 「夜間警備を手分けした。それで、顔を出したのだろう」 「後をつけたらここに来た」  蓮章はなんでもないというように、 「そりゃ、見回りを終えたら戻ってくるだろ。それがどうした?」 「様子が変だった」  眉ひとつ動かさず、玲凛は追い打ちをかけた。 「蓮章様に対して、感情が剥き出しだった。とても、仕事で訪ねたとは思えなかった」  屋根裏で、ことりと音がした。 「相変わらず鋭いな」 「当たり前でしょ。魂の形は正直だから」 「魂の形……」  その言い方に蓮章はいぶかしんだ。  玲凛は、よくわからない言い回しをすることがある。玲凛には、馴染みのある言葉なのだろうが、蓮章にはいちいち疑問が浮かんだ。  玲家の知覚というものは、実に浮世離れしている。見方によっては、犀星や玲陽もその離れた部類に属することに、納得がいった。 「それで、凛。わざわざを追いかけてきたのは俺に会うためか? それとも、あいつ?」 「蓮章様」  玲凛は言った。 「別にあいつでもいいけど、蓮章様の方がいろいろ詳しそうだし、せっかくだから本物に聞いたほうが早いと思って」  蓮章は努めて手は止めないよう、一文字ずつ木簡に記し続けながら、心の半分を玲凛に傾けた。 「俺に何を?」 「今日、何があったの?」  いきなり、か。  書くべき報告以上に、多くのことがあった。  軽い小筆の毛先が震えてた。  どうやら、仕事になりそうもなかった。  開き直って、蓮章は筆を置き、頬杖をついた。 「何が、とは?」  玲凛は、几案の端に腰を乗せた。  いつもは蓮章が涼景にするのと同じ無礼を、この少女が堂々とやって見せるのを、蓮章はわずかに唇を引きつらせて眺めた。 「兄様たち、今日、夕泉様のところに行ったんでしょ?」 「ああ。おまえだって、事前に知ってたことだろう」 「後で話を聞かせてくれる約束だったから、大人しく引き下がったのよ。なのに、帰ってきても、陽兄様も星兄様も、笑ってるだけで何も言わない」 「…………」 「涼景様に詰め寄ったけど、はぐらかされた。東雨を脅してみたけれど、泣くだけで答えにならない」 「つまり散々手は尽くしたというわけだ」 「そういうこと」  玲凛は獲物を見るように、蓮章を見下ろした、 「あいつの様子もおかしかったし、蓮章様なら何か知ってるんじゃないかと思って」 「俺は奏鳴宮へは行っていない。ずっと、都を走り回っていた」 「知ってる。でも、暁隊に出仕するのが遅れたでしょう。どこかに寄り道していたんじゃないの? 五亨庵とか?」 「おまえは一体何者なんだ……」  思わず蓮章は天井を見上げてつぶやいた。 「まったく、あいつより使えるな」  また屋根裏で音がした。蓮章は観念して、 「それで、俺が何かおまえに情報を渡せたら、役に立つってわけだ」 「そういうこと。知ってること全部しゃべって欲しい」 「どうして?」 「知りたいからに決まってるじゃない。私だけ、のけものにするつもり?」 「あのなぁ……」  蓮章はまじまじと血気盛んな玲凛を見た。 「好奇心旺盛なのは良いことだし、おまえは有能だから情報を渡しておく分には問題ないんだが」  と、言い淀んで、 「涼も親王たちも黙っているんだろ? あいつらが何も言わないのに、俺がばらしたとなれば、間違いなく殺される」 「今ここで私に殺されるのと、後で涼景様に殺されるの、どっちがいい?」 「涼に決まってる」  それは冗談とも思えなかった。 「だが、言わないぞ」  蓮章は終わるあてのない、木簡を揃えた。玲凛は肩をすくめた。 「ほんとに頑固なんだから」  文句を言いながらも、玲凛はそれ以上は無理だと悟った。  ここしばらくの付き合いで、蓮章の生真面目さを、玲凛は理解いていた。軽い外面を装うくせに、中身は鉛玉のように重たいのが蓮章だった。玲凛が手玉にとれるのは、どうやら屋根裏で冷や汗をかいている影の方である。 「じゃあ話を変えるけど」  玲凛は食い下がった。 「今度はなんだ?」  蓮章は、次こそ報告書に向き合おうと、筆を構え直した。 「あの焼印」  その言葉に、あっさり筆が止まってしまった。 「確か、ここに保管してたわよね」 「ああ」  蓮章は立ち上がると、棚に据え付けられている引き出しの一つを開いた。 「あれ以来、出してはいないはずだから……」  言いながら中を確かめ、その手が宙で止まった。 「おかしいな。おまえに見せてから動かしていないんだが」  言いながら心当たりを探るが、見つかる気配は無かった。 「待っていろ」  蓮章は玲凛をそこに残し、素早く入口の部屋の隊士に声をかけて幾つかやりとりをすると、すぐに戻ってきた。  その顔色は複雑だった。困惑と焦りと苛立ちと、そして玲凛の反応に対する若干の恐れが混在していた。 「しばらく前に涼景が持ち出したそうだ。宮中で保管すると言って、証拠を一式」  蓮章は悔しそうに斜め下を睨んだ。 「持ち出したのは涼じゃない」 「どうして言い切れるの? 重要な証拠なら、より安全な場所に持っていくのは不思議じゃないと思うけど?」 「それなら、俺に黙っているわけがない」  それは信頼でもあり、自信でもあった。 「それなら、誰が持ってったって言うのよ?」

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