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6 双石(1)
朝ぼらけの中に、優しい横顔が眠っていた。
目覚めたときに、いつも触れる場所に、その人がいる狂いそうなほどの幸福。
遠い故郷を夢見て、夜毎に泣いていた犀星は、もはやどこにもいなかった。記憶の中からさえ、いつしか姿を消してしまっていた。
目の前の光景が、犀星の朝を光に変えた。
じっと閉じられた白いまぶたを見つめ、犀星は心で話しかけた。
俺は、罪人なのだ。
俺のせいで、陽は全てを狂わされた。
導きであり、希望だと信じていた五亨庵との出会いが、故郷の孤独に突き落とされていた玲陽に油を浴びせかけた。
忘れ得ぬ想い人だと誇らしく告げた言葉が、夕泉に火を放たせた。
何もかも、俺が招いた。
ひたすらに己を呪い、責め苛んだ挙句に、犀星は玲陽の言葉を思い出した。
昨夜、何も言えないままに抱き合って眠りに落ちる時、玲陽が一言だけ、耳元で囁いた言葉だった。
「あなたがあなたを責めるのは、絶対に見たくないのです」
玲陽はそう言って、心から安心した笑みを見せた。
玲陽が、どこまで真実を知っているのか、犀星にはわからなかった。少なくとも、犀星の実の兄が、玲陽の身に生涯の傷を負わせ、呪縛の一端を招いたことにだけは、間違いなく気づいてしまったはずだ。
それでも、すべてを受け入れようというのか。
自分でも制御できない犀星の感情の渦が、夢の中にまで押し寄せてきて、玲陽を殺す夢を繰り返し見続けた。
目が覚めるたびに恐怖で叫びそうになり、息づく玲陽の熱に救われた。
奏鳴宮から戻って以来、二人の間はそんな調子だった。
何も言わない玲陽と、何も言えない犀星の、言葉ではない無言の葛藤と無言の赦し。はじめは決して消えない痛みだと覚悟した犀星の胸から、緩やかにそれは遠ざかりつつあった。
薄情な、無責任な、自分勝手な。
同時に、戸惑い続ける忘却だった。
静かに心の底からそう思った。
何も考えることなく、夢一つ見ることのない眠りは、前日の目まぐるしい出来事、全て洗い、清め、心に留めるべき確信だけを、胸に突き刺したまま残していった。
犀星はその一つ一つに触れ、そして自分の手で、もう一段深く押し込んだ。
決して抜けぬよう、忘れることがないよう、痛みを。
儀式のようであり、ただひたすらに詫びるようでもあった。
昨日の事は互いに一言も交わしていない。
それはそれぞれの胸に思いが満ちて整えられ、言葉になるために必要な沈黙だった。
どれほど辛い作業であろうと、真正面から向き合うことが必要な瞬間もある。
今がその時だと犀星も玲陽も知っていた。
夏の朝は時の感覚がずれていくようだ。
目覚めたいようでもあり、まどろみたくもある犀星は、わずかに指先を動かした。
すぐに玲陽の襟に触れ、暖かな柔らかい体が、一欠片の警戒もなく、そこに置かれていた。
共に眠ろうと約束した時、それは決して話さぬと言う思いを一つ現実の形に変えた瞬間だった。
初めから同じ場所にいたようで、決して同じではない。
二人、その近さと共に過ごした時間に甘えて口を閉じれば、関係は切れる。
どうもつながる思いは確かにある。
語らないからこそわかり合える心も確かにある。
しかしどれほど関係が深まろうとも、人が人の全てを理解することはできない。
何も言わずとも全てが通じ合えたら、どれほどに心が軽いことだろう。
だが、信頼はあっても惜しんではならない。おごってはならない。
それはやがて怠慢となり、二人の間に手を伸ばしても届かない溝を作るのだ。
大切な人であればあるほど、全てを尽くして向き合わねばならない。裏を返せば、それができる相手を、人は大切だと思えるのだろう。
犀星は、心の中で言葉を探り続けた。
自分の思いを丁寧に精査し、短く飾らず、正直に音にするための、玲陽に伝えるための孤独な仕上げを静かに続けた。
ゆっくりと動く、玲陽の肩。呼吸は、まだ安らかな眠りの底にいることを教えてくれた。
眠る玲陽を見るのが犀星は好きだった。
苦しまずに静かに眠れる時間は玲陽が、長く失ってきたかけがえのないものを取り戻していく時間だった。
自分はそれを守りたい。
ただその一念だけであった。
深く触れたい気持ちを抑えて、代わりに一瞬も見逃すものかと言う眼差しで、眠る姿をその目に焼き付ける。
毎日少しずつ揺れ動いていく二人の関係、それは季節の歩みにも似ていた。
同じ時の中を一番そばで共に歩む。
過去に何があろうと、今を生きる。
今日が明日につながっていなかったとしても、目の前だけを精一杯に生きること、犀星が信じるのは瞬間だけだった。
少しずつ世界が白んできた。
その一瞬、一瞬の変化さえ、犀星は、これまでにないほど深く噛み締めた。
玲陽との時間、それが自分の全てだと、後悔なく断じることができた。
ひときわ大きく玲陽が動き、長く息が吐き出された。
目覚めの近さを感じて、犀星はわずかに指先に力を込めた。
襟の奥の喉に触れると、くるりと丸い骨が動いた。
そして、薄い金色のまつげに縁取られたまぶたが、何度かためらいがちに瞬いて、それからすっと開かれた。
眠りから覚めた玲陽の瞳は、まさに新しい太陽だった。
その淡い色の瞳に、自分一人が写っていることが嬉しかった。
すぐ間近に迫った犀星の顔に、玲陽は安堵を浮かべた。
「おはようございます」
唇が動いても声にせず、玲陽はいつものように微笑んだ。
おはよう。
犀星は頬とまぶたに口づけし、愛しそうに鼻をすり寄せた。
寝起きの玲陽は甘い匂いがした。
密かに犀星はそんなことを思っていた。
玲陽が体のことを言われたくないと心得ていて、伝えたことはない。
それでも犀星は、朝が来るたびに玲陽の匂いに満たされ、心が目覚めるのだ。
一番に呼んで欲しい声に、一番聞きたい名で呼ばれ、犀星は、襟に添えていた手をずらし、玲陽の手を握った。
指先を絡める力は甘かったが、通い合う熱は確かだった。
薬指のあたりに、鼓動すら感じた。
「ねぇ」
玲陽が声を出した。
「私は何も、変わりません」
それは玲陽が一晩かけて磨いた、川底の小さな美しい小石のようだった。
犀星は、しっかりとうなずき、受け取った。それから、自分の小石をそっと差し出した。
「共に、痛みたい」
玲陽は微笑んだ。夜明けの光よりもそれは眩く、犀星を照らしていた。
宮中において、噂は一夜にして、国をひっくり返す。情報はすなわち力であり、迅速なことは、その勝敗を分けた。
奏鳴宮での二人の親王の会見から一日、昼には宮中、夕刻には、都にまでその噂が流れてくる始末であった。
一体どこに穴があるのか。
涼景は既にその欠損を塞ぐ気にもならなかった。
人の好奇心は雲霞のごとく湧き出すものであった。自分だけが知っている秘密は語りたくなり、自分に責任のない噂話は広げたくなるものだ。これはいつの世も人の性だった。
そう理解しながら、涼景は後始末をせざるを得ない立場にいた。普段より暁隊の守りを厚くさせ、右近衛を都にまで配備した。そして自身は、備拓に呼び出されるままに軍律堂へ向かった。
馬上の涼景を、すれ違う誰もが横目に見た。その目にはいつもの侮蔑とは違う種類の興味があった。軍律堂の前で、涼景は馬を降りた。案内の官吏が迎え出て、法廷の脇に連なる部屋の一つに通された。
部屋の中は殺風景で、ただ一つ、壁に『律』の文字の額がかけられていた。置かれた几案も交椅も上物ではあるが、年季が入り、あちらこちらに怒りに任せて誰かが蹴飛ばしたと思われる傷があった。
記録係の尚書令がいるほか、部屋の中には、備拓だけだった。
涼景が席に着くと、扉が固く閉められた。
備拓がすぐに口を開いた。
「暁どの、申し訳なかった」
備拓の謝罪に、涼景は肩を落とした。非はどちらにもある、と言う顔だった。
「我々には、止めようのない事態だった」
涼景は、丁寧に答えた。
「玲親王が夕親王の元へ赴くと決めていたのは、ずいぶん昔のことのようです。古くからの約束であるから断れないと、玲親王は仰られた」
備拓はうなずいた。
「こちらも似たようなことを仰せだった。昔から約したことゆえ、どうしても果たさねばならないのだと」
一晩しか過ぎていないというのに、そう語る備拓はすっかりやつれたように見えた。
「丁重に準備を整え、守りを怠ることなく招待すべき、と」
涼景はうなずいた。
「夕親王のお心遣い、十分に伝わってございました。私もてっきり、良き会談になると、油断しておりました」
今度は備拓がうなずいた。
「互いに、|主人《あるじ》を読みきれなかったと言うことか」
備拓の言葉には、夕泉を理解できない自分への自嘲も含まれていた。
「ですが」
涼景は首を横に振った。
「これは、我々の理解を超えております」
涼景の言葉は、決して言い訳ではなかった。
誰もが夕泉と犀星の仲がうまくいっていると信じていた。本人たちですら、わかりあえるものと始めから決めてかかっていた。
どこで歯車が狂ったのか、傍で見ていた涼景にも難しい問題だった。
備拓は声を潜めた。
「暁どの、私は直接、お二人の会話を聞いてはいない。お教え願えませぬか。私の目には、どうしても夕泉様が先に仕掛けたように見えるのだ」
記録係の尚書令が、一瞬、筆を止め、ちらりと二人に目線を投げてきた。涼景はそちらを見た。
「私的な話ゆえ、記録に残す必要はない」
涼景の言葉に、尚書令は木簡をよけ、筆を置いた。
「私にも、全てが見えているわけではありません」
涼景は言った。
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