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6 双石(3)

 涼景の言葉は分を過ぎていた。  だが、備拓は何も言わなかった。  しばし間を置いてから、涼景は少し声の色を変えた。個人的な繊細な口調だった。 「備拓様」  涼景は、西苑での出来事を思い出した。 「かつて、私は夕泉殿下から忘れることのできない言葉を聞かされたことがございます」  備拓は眉を寄せた。 「どのような?」  促す備拓に、涼景は慎重に言葉を思い出した。 「西苑にて、夕泉様と二人になった時のこと。夕泉様が、仰られた。宝順帝を憎んでいらっしゃるのだと。  備拓の皺の刻まれた顔の奥に、さらに複雑な感情が渦巻いた。  涼景のもたらす情報の何もかもが、夕泉という人間を一つには繋いではくれなかった。  それが夕泉なのだ、と、どこかで通じている気もした。 「備拓様は、夕泉様の想い人が宝順帝だと判断なされた。だが、夕泉様ご自身が否定なされるのを、私は聞いている。それとて、真意と断じることはできない。備拓様は、どう、思われる?」  備拓は深く考え込んだ。判断しようにも材料があまりにも足りなかった。 「……情けないものだ」  思わず、備拓は漏らした。 「わしは何一つ、そなたたちには及ばぬ」  備拓の嘆きに、涼景は頭を下げた。備拓より自分が優れていると、涼景には思われなかった。ただ、違いがあるとすれば、それは恵まれていた幸運だけだった。  涼景は、もう一歩、踏み込んだ。 「歌仙様は、今、案じていらっしゃる。夕泉様が何を思い、一連の行動をとられているのか、その本質を知りたいとお考えです。あの方は動く。どのような手段を使っても解明しようとなさるでしょう」  備拓は、数度、頷いた。今となっては、夕泉よりも犀星の行動の方が、まだ予測がついた。涼景は長く息を吐いた。 「もし、穏やかならざる手段が選ばれたときには、国が揺らぐことになる。私は歌仙様に準ずる覚悟だが、無益にあの方を危険に晒したくない。近衛として、人として、それは、備拓様も同じはず」  涼景の物言いは穏やかだった。危うい未来を語るからこその配慮が感じられた。 「備拓様。どうかこれより先、我らがその前線となり、ぶつかり合う水と水のしぶきとなって、皇家の血が流れぬよう、民心に嵐が訪れぬよう、最後の守りに力を貸してくださいませぬか」  涼景の情熱ある口調は、乾いた備拓の心のひび割れに沁み渡った。夕泉に関しては迷うことは多いままだった。同時に、これが最後の忠信の機とも思われた。かつて、夏史の暴走を止められず、この度、国家の柱に傷をつけた償い。備拓は、最後の矜持を奮い立たせた。  宮中を、親王を守る左右の将。その右を担うのが、この暁将軍でよかったと、備拓は心の底から天の巡りに感謝した。 「暁どの、わしも率直に話そう」  備拓の声は少し静まって、まるで友人同士のように気負う力が抜けていた。 「情けないことだ。わしには、主人との間に、そなたと歌仙様のような熱いつながりはない。立場として心得ておくべき理解も関心もない。正規軍を離れ、心ならずもこの場所にしか、居所を見出せなかった」  涼景は姿勢を正したまま、老将の声を聞いていた。 「己の保身、職務への怠慢が、国家の危機を招いたものと悔やんでいる。わしは主である英仁様を守りできなかった。最も身近な部下であった夏史の心すら読めなんだ。そして、しまいには、親王殿下御自身にも、不要とされている……」  備拓の言い方には、自己に対する激しい嘲りと劣等感が浮いて見えていた。 「自身のことのみならば、無能と蔑まれようと受け入れよう。されど……」  備拓の声が、わずかに熱を発した。 「歌仙様に仕える暁どのの姿。歌仙様がその命をかけてお守りした犀祥雲どののお人柄。老いた目にも、その尊さはまだ見えている」  備拓は格式という枠を超えたむき出しの心で、涼景と向かい合った。 「今からでも暁殿の力になりたい。夕泉様が誰を思い、何のためにここまでの凶行に臨まれたのか。この備拓、命をかけて、その心を拾い上げてみせよう」  備拓の決心は涼景に深く刺さった。  涼景はうなずいた。  備拓の身を案じる心もあったが、それは無用の節介だとわかっていた。  涼景は犀星を。備拓は夕泉を。それぞれがそれぞれの守るべきものの前に立ち、先に露を払うのみ。  備拓は、武人としてこの世として自分の成すべきこと成そうとしている。  それを止める理由は涼景にはなかった。  止めて止まるものならば、それは忠誠ではなかった。 「心強い」  素直に、涼景は感謝した。  今の宮中で、最善の協力者は備拓を置いて他にはいない。  宝順帝や然韋の率いる禁軍が介入してくる前に、迅速に、二人の親王の良からぬ噂を潰し、清浄な関係を取り戻さねばならない。それができるのは、涼景たちだけであった。 「動きを探り、衛士を使って報告させよう。右衛房がいいか? それとも、五亨庵か? 場合によっては暁隊でも構わぬが」  宮中の慣習を守るだけの備拓から、そのような選択肢が出ようとは、涼景も思ってはいなかった。一瞬、驚きと安堵で、涼景の緊張が緩んだ。 「私か、遜梨花が良いが……」  涼景は考えた。様々な仕事で飛び回っている涼景たちを捕まえるのは、なかなかに難しかった。 「玲仲咲をご存知ですか? 気性は荒いが、腕も立つし信用もできる。秘密の保持には向いている。私たちが見当たらぬ時は、彼女に渡していただければ」 「わかった」  備拓は承諾した。 「玲仲咲どの、か。何度か、お会いしたことがある。活発で、意志の強い娘だった」 「武術の腕前もご存知のはず。本来ならば、相当な戦力となりますが、女の身ゆえ」 「暁どのにとっては、さぞ、口惜しいことでありましょうな」  珍しく、備拓が個人的な言葉を言った。 「わしもわずかしか知らぬが、良い体幹と太刀筋、何より、ぶれることのない目をしていた。あれは、千騎に値する」 「いずれは、引き入れたいと考えてはいますが、今は暁隊で実力を磨かせているところ」  涼景は、玲凛の話題に、少し、声を軽くした。それから、改めて、全く別のことを思い出した。 「備拓様、これは個人的なことなのだが」  涼景は、本当に個人的な、できれば忘れてしまいたい些細なひっかかりに手をかけた。備拓の足元から、そっと話題を差し込んだ。 「一つ、夕泉さまの言葉で、どうしてもわからぬことがある」 「私は暁殿が思っているほど、本当に何も知らないのだ」  備拓の事情は決して謙遜ではなかった。 「わかることのうちで構わない」  涼景はかすかな心細さを感じながら、 「備拓様、私は以前、奏鳴宮を訪れたことがあっただろうか?」  不思議そうに備拓は首をかしげた。 「以前とはいつ頃のことをおっしゃっている?」 「西苑から戻ってからです」 「戻ってから……」  記憶を頼り、備拓は一つうなずいた。 「それならば、覚えている。わしが記憶しているのは、紅花祭の前に一度。会見の計画を練り上げるための合議を、奏鳴宮で行った。あの時、暁どのはお一人で訪問になり、夕泉様と私と三人で、警備の予定を立てられた。お忘れになられたか?」 「警備の予定を……いや、その事は覚えています」  涼景は深く記憶を掘り下げた。 「あの時の警備計画の書き付けは、今も手元にありますし、あれがあったからこそ次の仕事に進めることができた。ここへ来た時に屋敷の作りも見学し、地図を覚えたことも確かだ」 「ならば、なぜ、そのような不確かな問い方をなされた?」  備拓はただ不思議そうに首を傾げた。 「わしの記憶では、暁どのが奏鳴宮を訪れたのは、その一度きりだと」 「確かに私もそう記憶しておりますが、ではその時……」  と、涼景は恐る恐る確信に触れた。 「私は夕泉様に、何かをお届けしましたか」 「届ける?」 「何かを。夕泉様にお持ちした事は?」 「あぁ……  意外なため息が備拓の口からこぼれた。 「あの時暁殿は、竹簡木簡に加えて、布に包まれた荷物を一つお持ちであった」 「荷物……」  涼景の予感が、的中していた。  黒色の布に包まれた細長いものだ。  中身までは知れぬが、夕泉様があらかじめ頼んでおいたものであったようで」  暁殿は部屋に参上すると早々に夕泉様にお渡しし、それきりで話題にすることはありませんでした」  涼景は膝を乗り出した。 「私、でございましたか?」  何を言うのだ。と思わず備拓が面食らった。  だが、涼景の目は、今日一番に真剣だった。 「ああ」  備拓は、大きく頷いた。 「ご様子に変わったところはなかった。暁どのも、夕泉様も」 「左様にございますか」  涼景には、その時の荷物が何であったか予想がついていた。自分はあろうことか証拠品を持ち出し、それを最も渡してはならない人物の手に返した。  自分の記憶にない、自分の行動。  まさか……  夕泉の言った、意味のわからない言葉が、ここで効いてきた。 『わたくしでは、御しきれぬ。一度の情で動かせるは、そこまで』  夕泉に利用された……  自分には理解できず、避けることも叶わない力が、自分を動かしている可能性に、涼景は強い不安を感じた。  揺らいではならないのだ。  自分は、犀星のために、この国の安定のために、決して、己の意思以外の介入を許してはならない。  気を強く持て。  涼景は、自分に言い聞かせた。  表情をなくし、何かに耐えるような涼景の目を、備拓は、静かに見つめていた。

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