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7 凛と立てば(1)
東雨は誰よりも知っている。玲陽が都に来てから、犀星の心がすっかりと変わってしまったことを。
はじめは、それに戸惑い、嫉妬し、悲しみも苦しみもあった。だが、今ではその変化を受け入れ、楽しみ、喜びさえ見出すほどにまでなった。
人と人が響き合うことが、どれほど毎日を豊かにするのか、東雨はじかにそれを学んできた。
この春、玲凛もまた、東雨の世界に色を増やした。
歌仙で初めて会った瞬間、東雨が抱いたのは恐れだけだった。あの衝撃は、今もなお、心を震えさせた。だが、それはすでに、多種多様な感情のひとつに過ぎなかった。玲凛は東雨の知らなかった世界を次々と開き、玲陽とは違う光を与えてくれた。
玲凛の都での影響は、東雨の生活に限ったことではなかった。玲陽もことあるごとに妹の身を過分に心配し、そのせいで犀星の行動もあれこれと忙しなかった。
玲陽が犀星の周囲で慎ましく収まっているのに対し、玲凛は外へ外へと自由な羽ばたきを見せた。
暁隊はとうに、玲凛なしでは回らないほどその力量を信頼し、同時に怯えていた。涼景も蓮章も、戦力が必要となれば玲凛を頼り、近侍の東雨を差し置いて犀星の警備につくこともあった。流派を問わず主だった武道場は狙われ、わずか十七を前にした娘にその権威を失墜させられた。道行く人々は、玲凛の姿を見れば、一瞬、話をやめて振り返った。
今や、静かに国を動かす車輪のひとつとして、玲凛は確実に紅蘭に根付きつつあった。
今日もまた、何か騒ぎを起こすに違いない。
東雨は心配と期待を半々に抱えて、玄関前の掃き掃除に励みながら、ふと、空を見上げた。夏の明け方は時が早く動く気がした。藍色の夜は見る間に白く染まり、すでに眩しい白雲がひとひら、浮かび上がった。
東雨は汗をぬぐって、畑に向かった。
常に青く揺れる葱の隣には、先日、種を蒔いたばかりの大根と人参、白菜と|蕪《かぶ》の畝があった。
今年は白菜に花は咲かせないぞ、と、東雨は気を引き締めた。甘い人参の擦りおろしと粟粉と蜜を混ぜた揚げ菓子が、今から待ち遠しかった。玲陽が教えてくれた蕪の酢漬けも、早く試したかった。
東雨自ら、今年は畑を少し広げた。玲陽はともかく、玲凛の食欲を支えるには今まで通りでは不足するのはすでに明らかだった。自分で育て、自分で摘み取り、自分で料理し、皆と分かち合うことは、東雨にとって当たり前のことになっていた。
「その当たり前が特別なのだ」
と、いつだったか、犀星が言ったことを思い出した。
「当たり前です」
幼かった東雨は、そう言い返した。
「親王が自分で野菜を育てるなんて、当たり前じゃありません」
ふくれっ面をした東雨を見て、犀星がどこか困ったように笑ったのを、東雨はよく覚えていた。
あの時の犀星は一言も言い返さなかったが、今の東雨には、真意がわかる気がした。
「東雨、おはよう」
心が小さく飛び跳ねるような声で、突然、後ろから呼びかけられた。
東雨はかがんでいた畑の真ん中から、顔を出した。
「おはようございます」
「ずいぶん早いな」
まだ夜着のままで回廊の柱にもたれ、ゆったりとこちらを見ている犀星の姿は、平和そのものである。
「日が昇るのが早いですから、自然と目が覚めます」
「そうか」
本当に心が落ち着いているのか、犀星の表情は穏やかだった。
「太陽とともに目覚め、星とともに眠る」
優しい声色が東雨を包み込むように話しかけた。
「それが自然の理であり、人の姿かもしれないな」
「難しいことはわかりませんけど、ただ当たり前にしてるだけです」
「当たり前、か」
「はい。特別ですから」
犀星は一瞬、惚けた顔をした。それから、昔を思い出したのか、東雨が覚えていた笑みを浮かべた。胸が膨らむようで、犀星の笑顔を見つめるのが照れくさく、東雨は足元の土をつま先でつついた。
あの日から、本当に色々なことが東雨を変えた。心が何度も壊れ、そのたびに生まれ変わってきた。
その時間の中心に、いつも犀星がいた。
まだ朝もやの残る中、夏の柔らかな湿気と夕刻にも似たとろみのある風に吹かれて、回廊の犀星と畑の東雨は二人にしかわからない、静かな記憶を一つに重ねていた。
若様と一緒にいるんだ……
主人と近侍が毎日顔を合わせるのは、それこそ当前のことかもしれない。しかし、自分たちは、そんな形ばかりのものとは違うのだ。
たまらなくなって、東雨は顔を伏せ、葉を避けながら大豆のさやを探った。
「若様、今朝はこれ、粟と一緒に炊きますね。味はどうします? 魚醤でも味噌でも……」
「では、塩で」
「はい」
東雨は思わず笑い、手籠に青々としたさやを集めながら、その水気のある香りを楽しんだ。
「そういえば、凛はどこだ?」
さやを探す東雨の手が、一瞬止まった。
「昨日は夜勤から戻ってないみたいです」
どこか気づかわしげに玄関の方を見て、犀星が目を迷わせた。
「凛、どうかしたんですか?」
自然と東雨は尋ねた。
期待から少しずれた、長い沈黙が訪れる。
それはすなわち何かがあったことを示す、犀星の無言の返答だった。
東雨は、じっと犀星の顔を見つめた。
黙って犀星は東雨を見返し、軽く息を吐いた。
「かまどに火を入れておく」
そう言って、犀星は裸足で厨房へと姿を消した。
何かあったんだ。
東雨は真顔で大豆を吟味しながら、確信した。
犀星は決して自分に嘘はつかない。その代わり、言えない何かがある時、必ず沈黙するのだ。
誤魔化しているわけでは無いのだと、もう、東雨にはわかっていた。
沈黙はすれども、偽る事はしない。
それが犀星なりの誠意であり、包み隠さぬ人との接し方だった。
言葉以上に、犀星は真実に生きる。
東雨は一瞬だけ、本気で玲凛のことを心配した。
暁隊で問題でも起こしたか。
それとも、道場破りが火種となったか。
まさか、近衛に入りたいと言い出したのではないか。
あの涼景すら国の大幹部なのだから、何が起きてもおかしくはない、と、東雨の不安は深くなっていった。
玲凛が何かすると決まって、周りが大変な目に会うのだ。
それでも……
東雨は、集めた大豆のさやを丁寧に揃えながら思った。
凛には凛の思うように生きて欲しい。
朝焼けが少しずつその光を強くして、先ほどよりも畑の景色がはっきりと見えるようになった。葉の一枚一枚に留まる小さな雫も、その間を這う蟻の姿も、指に残る黒々とした甘い土も。
一筋の白い光が、塀の隙間から鋭く差し込んできた。
そうだ、早く行かないと。
東雨はまた急に日常に戻って、井戸で大豆を洗い、厨房に向かった。
「山桜まで、です」
国境を宣言するように、玲陽は何度も玲凛に言い聞かせた。
玲陽と約束して、玲凛は一人五亨庵を出ると小径を進み、曲がり角の山桜まで来た。
思いきり体を伸ばして、夏の匂いを吸い込み、最後は深く、吐ききった。日差しは硬質で、引き締まった足元の白い土に弾ける音さえ聞こえるようだった。
「全く、絶対、星兄様に似たんだわ」
次第と激しくなる玲陽の執着に、玲凛はさすがに愚痴をこぼした。
玲陽は、犀星からの束縛を喜んで受け入れるばかりか、むしろ、まだ足りないとせがむほどだった。とてもではないが、玲凛が同じ熱量に耐えられるはずもなかった。
自由にしたところで、玲凛の腕前に匹敵する剣客は宮中にはいなかった。ましてや、白昼堂々、となれば人目もある。危険性はほぼないのだが、玲陽には目の前の現実よりも、不安の方が優先されるらしかった。
夏の陽気で、地面から立ち上る陽炎が、ゆらゆらと朱市の活気を包み込んでいた。賑やかな掛け声に混ざって、わずかに怒鳴り合いも風に乗って流れてきた。それを諫めるのは、禁軍に代わって、朱市の警備に当たる右近衛であった。犀星の五亨庵が近いこともあって、この辺りには見慣れた衛士の姿が多かった。
涼景様も大変ね。
玲凛は、宮中で生きる武人の不自由さに肩が下がった。涼景の多忙は、玲凛にさえよくわかった。奔放な親王の警護に加え、暁隊を率いての都警備、有事の際には遠方に駆り出され、政敵には散々に恨みを買い、その上雑用と呼べるあらゆる仕事が、涼景の元には舞い込んでくるのだった。
力のないものが、力のあるものに寄りかかり、酷使し疲弊させていく。それは搾取に違いないと、玲凛は大人びたことを思った。
宮中のしがらみに巻き込まれるのはごめんだったが、もっと自分を試してみたい欲求が玲凛には常にあった。一つ一つ、壁を崩していくことが楽しく、そこに大きなやりがいを感じた。
誰の真似もしなくていい。どうせ私は、私にしかなれない。
都に来てから三月を過ぎる頃には、玲凛からは当初の気負った力が抜け、溌剌とした生来の生命力溢れる歌仙育ちの奔放さが花開いていた。常に身に付ける寿魔刀と大太刀が、誇らしく輝いて響き合った。
故郷の玲芳から届く文には、そんな玲凛を案じて、宮中には関わらず安寧に過ごすように、と、毎回注意がしたためられていた。
母の忠告をはありがたかったが、それを守るか否かは玲凛の気持ち次第だった。
涼景から、備拓とのつなぎを頼まれたのはその頃だった。
ちょうどいい。
玲凛は山桜を見上げて思った。
夕泉の情報は、私も欲しい。
玲凛の目下の関心事は、皇家の血についてだった。玲芳が知れば、それこそ玲家の総力を挙げて歌仙に連れ戻されかねない案件である。母の懸念も理解しつつ、それでも自分を貫くのが玲凛だった。
その推進力は、浮ついた好奇心ではなかった。自分につながる人々が、何らかの形で皇家の、宝順や夕泉の影響下に置かれていることへの挑戦だった。
玲凛にとって誰より大切な玲陽の喉元に、得体の知れない刃が突きつけられているような感覚は、とても看過できなかった。
母上、ごめんなさい。
迷いのない瞳で、玲凛は山桜の緑の枝越しに、故郷より薄い青空を見上げた。
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