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7 凛と立てば(2)
乾いた風が、異郷で過ごす初めての夏を吹きすぎていった。そこに混じる、つかみどころのない透明な気配が、玲凛の敏感な琴線に触れた。
やっぱり、何か、ある。
玲凛は改めて、山桜の幹に手をついた。当然、愛でるためなどではなかった。
初めて五亨庵を訪れた時、玲凛はこの桜の下に人影を見た。
あれは、誰であったのか。わずかに兄たちの面影にも似たものを感じ、玲凛は気になってならなかった。だが、玲凛は誰にも話してはいなかった。ただでさえ悩みの種が多い兄たちを、これ以上不安にさせたくはなかった。第一、そんな話を玲陽にした日には、今以上に束縛が強くなることは間違いなかった。
玲凛は山桜の下に置かれた石の長榻に腰掛けた。
いつも、犀星と玲陽はここで陽を浴びながら、朱市の様子を眺め、行き交う人々と言葉を交わしていた。貴人や官吏に無愛想な犀星も、市中の者に対しては比較的感情を表した。玲陽が来てからは、その表情はより豊かになった。
兄たちが静かに過ごす特別な席に、今は玲凛が一人で座った。膝の上に頬杖をつき、その大きな瞳は朱市を移していたが、視覚以外は全て、背中へ向けられていた。
すぐ後ろに山桜の気配があった。古木の独特の幹の質感と垂れ下がる枝が、人の腕のように生々しく、玲凛の背中に覆いかぶさっていた。
玲凛が感じ取る、命の、魂の形はそれぞれに違っていた。玲凛は目を閉じ、背後の気配に集中した。それは、山桜とは思われなかった。植物はただ、静かに強い心でできているものだった。なのに、桜から感じる魂は明らかに異質で、あまりにも人の気配に似ていた。
気味が悪いけれど……兄様たちは気に入っているのよね。
玲凛は唇を曲げて、不満そうに一つ唸った。
敵ではないはず。
それが、唯一、玲凛の希望だった。
玲凛は心を強くし、背筋を伸ばして首を回すと、山桜を見た。
人の男の姿をしたものが、幹の陰に悠然と立っていた。
木に、取り憑いている。
一瞬、安堵が玲凛の胸を撫でた。いかに傀儡といえど、植物が宿主ならば暴れまわる心配はなかった。
男の額の模様から、間違いなく玲家の嫡流であることがわかった。模様は、正確には刺青ではなかった。それは自分の肌を切り開いて作られた傷だった。見慣れない貫頭衣を腰紐で縛り、内側には女官が着付けるような薄い布の着物が見えた。だが、所詮それは、玲凛の心が作り出した虚像である。無意識のうちに行っている形の再現に過ぎなかった。
実際には、既にその存在は姿を失っていた。体は世界に溶け込み、どこにも存在しえない。
男は、そこにいるようで、なぜか光の当たり方だけが違っていた。人ならば、光が当たれば跳ね返し、影の色は沈むものだ。だが、男はすべての光がすべての場所に平等に当たっているようで、まるで一枚の平らな布切れのようであった。凹凸のないそれが、自分たちとは別のことわりの世界に存在している存在だと言うことを、雄弁に告げていた。
不意に、ざらざらと擦るような足音が玲凛の耳に届いた。耳障りな音に玲凛は目を上げた。
やけにゆっくりと、四人の人夫に担がれた輿が、こちらへ近づいてきた。まるで、一つの儀式のように、その動きは緩慢で、担ぎ手たちの表情には生気がなかった。
玲凛は、背筋が凍った。
たいていのことには動じない玲凛だが、さすがにこの有様には露骨に嫌悪を感じた。
担ぎ手の男たちは、揃いの朱と灰の着物で、皆、素足だった。その着物も、体格に合わないものを無理に着せたようで、どこかちぐはぐな印象があった。何より、その表情は崩れていて、かつて見た、軍律堂の夏史と同じだった。
何なの、あれ?
玲凛は四肢を緊張させた。
周りの人々は輿を避けて通った。それは男たちの異様さを恐れるより、もっと単純に、身分のある者と距離をおいて、関わりたくないという様子だった。姿の歪みはやはり、常人の目にはわからぬらしかった。
輿の上に広げられた赤い日傘の下には、子どもかと思われるほど小柄な体格の男が一人、足を折って背を伸ばし、座っていた。輿が揺れても揺らぎもせず、まるで置物のように体温が感じられなかった。
男の頭は重たそうな分厚い巾で覆われ、夏空の下とは思えない重ね着だった。細い目は開いているのか、閉じているのかもわからなかった。
陰陽官だ。
身につけた装飾と襟の文様から、玲凛はすぐに正体を察した。
五亨庵に近づく陰陽官・紀宗の話は、犀星から聞いたことがあった。
玲凛は膝頭を握った。玲凛にとっては、皇帝よりも近づきたくない相手のように思われた。人の世の浮き沈みを左右する陰陽を司り、それを政治の場に持ち込んだ陰陽官は、玲家では蔑みの対象とされていた。玲凛にそこまでの蔑視の意図はなかったが、かつて、玲陽が受けた扱いの|一事《いちじ》だけで、十分に嫌うに値した。
ちらりと紀宗がこちらを見た気がした。小径より、少し手前で輿を止めると、紀宗はそこに皆を待たせ、こすれるような足取りで小股に玲凛の元に近づいてきた。
玲凛はじっと顔あげていた。ここは五亨庵の敷地も同然である。そして自分はその犀星が許した客人である。以前、左近衛と出くわしたときには、女だからと散々に扱われた事が思い出された。
負い目を感じる必要などない。
玲凛はしっかりと紀宗を見た。細い目は玲凛と、そしてその後ろの桜とを見比べているようだった。
「そなた」
しわがれた、ぼそぼそと言う声がそうつぶやいた。
「玲家の娘か」
「あんたが紀宗って人?」
玲凛の声には強さがあった。どんな訳があろうと。玲陽に対して紀宗が取った行動を、玲凛が許せるはずがなかった。
「あんたが何をしようとしてるか知らないけど、五亨庵には入れない」
当然、玲凛には紀宗を静止する権利などない。権利はなくとも、力はあった。
紀宗は何も答えず、玲凛の隣に腰掛けた。
ぎょっとして、玲凛は横へ退けた。紀宗はひるむどころか、気にもとめていなかった。
紀宗の背は、玲凛よりわずかに低いほどだった。だが、顔に刻まれた皺と経験は、並々ならぬものであることを伺わせた。特別な血の気配はないが、知識と好奇心、そして執念めいたものが顔に滲んでいた。
「なぜここにいる?」
唇を動かすこともわずらしいように、紀宗はぼそりとつぶやいた。くぐもった声は、玲凛の気を余計に逆撫でした。
「どこにいようと、私の勝手じゃない」
玲凛は、暁隊に喧嘩を売る口調で言い放った。朱市の端にもその声は響いていたが、気遣わしげに目線は送るものの、誰もが関わりを避けた。宮中では、陰陽官は何かと敬遠されることが多かった。目をつけられてはかなわないと、少しばかり市場は静かになった。
「この桜が気にかかると見える」
玲凛は腹をくくった。思う以上に、紀宗はあらゆることを見通していた。ここは、玲陽に関する恨みは別として、話を聞き出す方が得だと、玲凛の好奇心がしきりにせがんでいた。
「随分と古い木だけど、いつから?」
玲凛はぽつりと言った。
「この地に都ができた頃より」
空行く雲に向かって、紀宗が答えた。玲凛は声を低めた。
「どうやら、『人』がいるようね」
それは遠極的な言いまわしだったが、紀宗にはそれだけで通じた。
「さすがは、玲家の」
紀宗の、喉にものが詰まった話し方は癪に障ったが、あえて玲凛は聞き続けた。
「都の始まりの頃、枝で首をくくる者が多く出た」
玲凛の脳裏に、花街で見た少女の最期が思い出された。
「今は覚えのある者もないが、当時は人食い桜として知られた」
紀宗の口ぶりは、まるで見てきたようであった。
「遠き日、ある男がそれを憂い、自らの命を持って染み付いた恨みを清めた。額に炎の刻印を持つ男」
玲凛は怪しんだ。
玲家本流の者が、この地を訪れたことがあるというのか。
「それ、いつの話よ。大昔のことを持ち出されたって簡単に信じられるわけないんだけど」
「信じるか否かより、そなたはすでには知ってしまった」
玲凛はごくりと喉を鳴らした。
確かに、木に宿る魂を感じた。木の前に男の影を見た。それは紀宗に話を聞くよりも前に、彼女自身が本能で感じ取ったことだった。
「男の名は、|祇桜《ぎおう》」
紀宗の一言に、玲凛の顔から血の気が失せた。
祇桜の名は、玲家嫡流の女児にのみ語り継がれるものだった。
かつて仙女と交わったという男、玲家の始祖となった女の父だった。どのような死を遂げたのか、それは玲家の当主とて、知ることのできない歴史の闇だった。
それが突如、あまりに意外な形で目の前に開けた玲凛は、わずかに息を浅くした。そして同時に、途方もない大きな力が、その背中にのしかかってくるのを感じた。
桜は、玲の血を待っていた。
「この木は今でも人を食らうのだ」
紀宗のかすれ声が続けた。
「歌仙様も新月の光も、そしてそなたも、その身の血ゆえにここへ呼ばれた。逃れられはせぬ」
玲凛の記憶から、母の言葉が浮き上がってきた。
決して宮中へ行ってはならない。
その本当の意味が、まさに背後に迫っていた。
今更ながら、案じてくれた母に申し訳なさを感じた。
震えが走るのを押し殺し、玲凛は目に力を込めた。
「だから、どうだって言うのよ」
玲凛は言い放った。
「この桜が何であれ……宿るものが何であれ、私たちがここに来たのは、私たちの意思」
玲凛の世界の後ろが、重たい息遣いに塗りつぶされていた。前だけを見つめて、玲凛は拳を握った。
「私たちを、甘く見ないで」
「人食い桜は、今でも……」
「黙れ!」
玲凛が叫び、紀宗の語尾が喉の奥に消えた。
わずかにしびれた足で立ち上がると、玲凛は臆することなく紀宗を睨みつけ、そして桜を振り仰いだ。幹の向こうに人影が、確かに一人、こちらに半身を向けていた。額に赤い、炎の|章《しるし》があった。
紀宗の言葉が出任せではないことは玲凛が誰よりも知っていた。だが、それは恐れるに至らぬこと、死者の思いがどうであれ、玲凛はそこに沈むつもりはなかった。
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