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7 凛と立てば(3)

「忘れないで」  玲凛は何者にも屈しない目で、陰陽官を見下ろした。その瞳はいつも以上に、激しい思いで揺れるように輝いていた。 「私たちは、血に飲まれたりしない。私も、陽兄様も、星兄様も、玲の血なんかに、縛られたりしない」  紀宗は細い目を、初めて、玲凛へと向けた。わずかな隙間から、黄色っぽい白目と小さな黒目が覗かれた。 「すでに、時は動き出した」  紀宗の声は、一定だった。 「五亨庵の石は情に潤う。天へと通じる許されぬ道。進み行けば自ずと滅び、されど、真実もまた、見えよう」 「真実?」  玲凛は紀宗の話術に乗せられぬよう、呼吸をずらしながら、 「わざわざ、命がけで出向いてまで知る価値のある真実、なのかしらね」 「新月の光」  玲凛は、目を瞬き、そして、見開いた。 「陽兄様の……」  紀宗はじっと玲凛の顔を見上げながら、満足そうに唇を横一本にした。 「光の届かぬ、闇の域地。そなたならば旅することも叶おう」  紀宗の小さな体が傾いて、長榻から降りた。 「ちょっと!」  背を向けた紀宗を、玲凛は乱暴に呼び止めた。 「意味のわからないことだけ言って行かないでよ。ちゃんと説明して」  紀宗はほんの少しだけ、振り返るように首を傾げ、すぐに前に戻った。 「天への登り方、望むならば推しもする」  玲凛は、一気に気を鎮めた。  降ってきたように、紀宗の言わんとしていることが透けて見えて、途端に世界がぐるりと回った。途方もない穴が、目の前に開いていた。 「……あんた、どういうつもり?」  玲凛は紀宗の後ろ姿をじっと見た。その体の奥から、腐るほどに熟した果肉を思わせる匂いが漂っていた。 「好奇心」  紀宗は風が土をこすり取る声で言った。 「見てみたいだけのこと」  玲凛はそれ以上、引き止めなかった。  来た時と同じ速さと不穏さで、紀宗は玲凛のそばを離れていった。  何かに操られた男たちが立ち上がり、紀宗を乗せた輿が緩慢に動き出した。  大きな赤い傘が陽炎に揺れながら去って行くと、少し先の朱市が安堵したように活気を取り戻した。玲凛はじっとそれを見送った。  聞きたいことはまだまだあった。だが、今は紀宗の示した道を熟考するだけの時間が欲しかった。何より、背後に感じる気配を始末するのが先決だった。  紀宗が遠ざかるに連れて、じっとりと、重たいものが背中に張り付いてきた。  桜に宿る、父祖の魂。  悪意は感じられなかった。玲凛は心を空にした。たとえそれが自分の遠い先祖の魂魄であったとしても、玲凛には、同情はなかった。何も感じない相手に、傀儡もまた無力であることをよく知っていた。  夏空を冠し、玲家のもっとも古い時代と、新しい時代とが密着していた。濃厚な二つの魂には、互いへの私的な情は一片もありはしなかった。血を欲し、血を拒む。相反していて、接しても決して溶け合うことのない境界が、二つを隔てていた。  玲凛のこめかみに汗が流れた。  暑さと寒さを同時に感じ、頭がどう処理していいのか混乱していた。  玲凛は震えてはいなかった。だが、立ち上がることもできなかった。  人形のように長榻に腰掛けたまま、見開いた目が空虚に光を映していた。  玲凛には遠ざける手段もない重たい情念。身動きも出来ず、逃れる術もわからぬまま、朱市の人の景色だけが動いていった。  気丈に、玲凛は山桜に心を傾け、同時にそこから心をそらし、自らの身を守りながら、精一杯に理性を働かせた。感情ではなく、ひたすらに思考を冴えさせた。  紀宗が話した事は全て真実と思われた。玲凛自身が気づいてしまった以上、それを否定することはできなかった。  自分で見て聞いて感じたことが、全て紀宗の話はと重なっていた。  玲凛は襟を探った。そして、小さく舌打ちした。昨日、蓮章に渡した後だった。自分の真名を変形させ、長い時をかけて力を込め続けた護符だった。同じものを作ろうにも、時を要した。  枝が両側から迫ってきていた。枝と感じたのは、人の腕にあたる感覚だった。背後から押し潰す圧力。抗いがたい重さに、玲凛は立ち向かった。  歯を食いしばって、玲凛は立ち上がった。  重苦しい何かが、ずるりと背中を滑って遠のいた。臆せず、玲凛は振り返った。  古い桜の樹肌の中へ、形のないものが一息に吸い込まれていくように見えた。夏の昼に立つ陽炎か揺れ、それは確かに山桜と同化した。  実害は無い。  玲凛はそう、判断した。実害がないのなら、恐れる必要もない。  理詰めで、玲凛は確信を強くしていった。  男は特に何かを思う顔ではなかった。 「祇桜、か」  玲凛の声にも、男・祇桜は一切、反応しなかった。 「あんたが祇桜だってことは信じる」  玲凛は一歩木に近づいた。玲凛は、そっと幹に手をついた。そこに感じるのは、ただの古い木の感触だけだった。  紀宗の内側に嗅いだ毒々しさもなかった。輿を担いでいた男たちの異様さもなかった。  心の警戒は解かずとも、怯えなくて良い。  玲凛は幹を、その強い指で締め上げるように掴んだ。まるで、敵の首を絞めるかのような威力だった。さすがに生木を握力で砕くほどの力はなかったが、それでも木の表面はギシギシとこすれた音を立てた。 「あんたが、どんな影響を持つのか、知りたい」  玲凛は幹に向かって言った。 「星兄様は、この場所に惹かれたと言った。陽兄様も、あんたの正体は知らずに気に入っている」  玲凛は、片足で根元を踏み鳴らした。 「この土は五亨庵の下まで続いている。あんたは五亨庵と繋がっているんでしょう? ちょうどいい。五亨庵にも話があったところなの。でも、あいつには口が見当たらない。代わりに、知ってること全部私に話してもらおうか」  都の路地裏で、気の荒い者を相手に暁隊が凄むのと、今の玲凛は同じ態度だった。この世ならざるもの、しかも己の祖に当たる魂を相手に、玲凛は一歩も引かず脅し続けた。もともとの気質もあるだろうが、暁隊の影響が嘆かわしい形で染み付いていると言えた。 「祖先だなんだって、そんなことは私にはどうでもいいんだ。もし陽兄様や星兄様に害をなす気なら、あんたを消す。あんたは人間の身で術を使い、代償としてこの場所に閉じ込められた、運のなかった、ただの男。大事なのは一つだけ。あんたが害になるかどうかだけ」  玲凛は繰り返した。 「答えなさい。何をしようとしている?」 「……木は喋らないよ」  突然、後ろから泣きそうな声が飛んできた。玲凛は慌てて振り返った。  声の主を探すと、東雨だった。犀星に頼まれた秘布への遣いからの帰り道だった。荷物を両腕で抱きしめて、目をまん丸にして玲凛を見ていた。 「……文句ある?」  一瞬、玲凛は苦い顔になった。 「あんただって、よく、畑の野菜に話しかけてるじゃないの?」 「あれは、美味しくなって、ってお願いしてただけ。問い詰めたりなんてしていない」  東雨は眉を寄せて、 「それ、歌仙の風習なの?」 「は?」  玲凛は思わず、桜と東雨を見比べた。東雨は視線を小径の奥へ向けた。 「若様も、よく木と話していたから」 「私を星兄様と一緒にしないで」  玲凛は怒ったふりをして東雨の追求を避けた。  犀星の風変わりな性質と同一視されたくはなかった。だが、それ以上に、別の懸念が玲凛にはあった。  犀星は、本当に、祇桜の声を聞いていたのではないだろうか。  玲凛は、不審そうに睨んでいる東雨を見た。  犀星のこととなれば、東雨がしつこく尋ねてくることは間違いなかった。傀儡、玲家、祇桜、術。そんなものに、むやみに東雨を巻き込みたくはなかった。逃れられない血の宿命を背負っていると知らされた今となっては、なおさらだった。 「そういえば……」  東雨は一瞬、目をそらした。 「凛、おまえ、また何かしでかした?」 「何よ、それ?」  玲凛は桜を忘れたように、長榻に座った。東雨は隣に腰掛けながら、 「若様が、今朝、おまえのこと気にしていたから」 「別に、何もしてないわよ」  玲凛には、心当たりがありすぎた。 「星兄様に気にされても、嬉しくないんだけど」 「そういうんじゃなくて、また、問題でも起こしたんじゃないのか?」 「何をしてもいいけどさぁ」  呆れ気味に東雨が言った。 「凛は頭がいいんだから、ちゃんと考えてよ。問題を起こされたら、みんな大変になるんだから」 「私がいつ、問題を起こしたのよ」  玲凛は顔をしかめたが、本気でなかった。東雨とのやりとりは、一つの挨拶のようなものであった。 「起こしてるだろ。暁隊の仕事とか言いながら、食い逃げした男を叩きのめしたって聞いたぞ」 「あれは私だけじゃないわ。旦次たちだって一緒だったもの」 「西の剣術道場をまた二つ、潰したって」 「ただの腕くらべをしただけ」 「とにかく、目立つことはしないでよ」  東雨は荷物の包みに口元を埋めた。 「大変な事件が起きて、騒がしくなりそうだから」 「何それ、聞きたい!」  一気に玲凛の声が勢いを増した。  東雨は予想していたと見えて、おとなしく、秘府で耳にした話をかいつまんで話した。 「昨日、一晩に二人、人が殺されたって。それも、皇子と皇女が一人ずつ」 「大事件じゃないの!」  玲凛は慌てる貴人たちを想像した。 「跡継ぎ問題、とか関係しているのかな」 「わからないけど、たぶん」  東雨はさらに顔を伏せた。 「他の皇子達のところにも、脅迫の様子があるみたいで、中央区は戦々恐々としている。陛下は正式に跡継ぎを決めていないから、もしかしたら、本当に全員、狙われるんじゃないか、って」 「全員ってどれくらい?」 「正式に知らされているだけで、五十人くらい」  東雨は目元を曇らせて、朱市の活気を見つめ、 「皆様、俺より年が下なんだ。何も悪いことしていないのに、どうして怖い目に遭わなきゃいけないんだろ……」  玲凛は黙り込んだ。  様々なことがあまりに一度に押し寄せて、どこから先に考えるべきか、わからないほど混乱していた。

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