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8 脈(1)
紅蘭から南東に半日。
歌仙親王の直轄地となった宿場町で、夏の日差しにも負けず、汗水垂らして働く男がいた。
湯治場として新設された|辰巳荘《たつみそう》に派遣され、いつしかその主の座に収まっている緑仲謀である。
のんびりした文官生活に慣れていた緑権は、一歩外に出ればすぐに力仕事が待ち受けているこの環境に、はじめのうちは涙を浮かべていた。
薪割りから逃げ、東雨にさえ期待されることのなかった緑権は、まさか、自分が新事業の先鋒となるとは、思ってもいなかった。
外に出たくありません、と口癖のように言いながら、それでも毎日几帳面に川の流れと土壌の水はけ、水路の状態を確認し、あれこれと考えを巡らせた。
整理整頓を苦手とし、視野が狭く思い込みの激しい性格は、五亨庵では何かと不名誉な評価を買っていた。だが、これでも、慈圓が見込んで推挙した逸材である。使いどころさえ合えば、その底力は知れなかった。凝り性で、人が気づくことには気づかず、気にしないところにはやたらと目が届いた。
春からこちら、緑権は何度も五亨庵と辰巳荘を行き来しては、現状の報告と作業の相談に忙しかった。幾度かは、亀池での泥炭採掘のために、船に揺られ伍江を往復もした。思い立つとすぐに行動する緑権は、とにかく、仕事が早かった。ものごとを深く考えないことも、今回は幸いしていた。
親王直轄の湯治場、しかも、長距離の水運と燃料輸送まで新規開拓する事業は、歴史上、稀な突発的大計画だった。だが、指揮をとる緑権自身がその重さを理解していないがゆえに、彼の言葉はあまりに軽かった。
緑権は水捌けの悪い凹凸の土に、木の枝で図面らしき線を描いた。それを|作匠《さくしょう》たちに見せながら、
「ここに|湯殿《とうでん》を、ここに|休湯所《きゅうとうじょ》、水路はこのあたりに……夏までにお願いします」
と、頭を下げた。作匠たちはあんぐりと口を開けて顔を見合わせた。
本来であれば、無理難題極まれりという命令だった。しかし、ここで、玲陽の言葉が効いた。
ここは、歌仙親王の直轄地である。
始まりは、玲陽の大胆不敵な虚言であったが、犀星が全力でそれを現実のものにした。
実際に、玲陽と玲凛という、あまりに目立つ兄妹が、胡断を相手に大太刀回りを演じ、人々を窮地から救ったことは事実だった。
混乱の中、何人もがあの戦いを見届けていた。
白馬に金髪金眼の、紅蘭で噂の承親悌。可憐な少女の姿で戟と大太刀を振り回す|玲姫《れいき》。
外見の華やかさでは劣らない蓮章を抑え、武術でも百戦錬磨の旦次を飛び越え、玲陽と玲凛はまさに、街の英雄であった。
人々は皆、彼らを歓迎した。中でも、大店の主人は賛辞だけではなく、眼に見える金で感謝を示した。さらに、一番大きな建物をそのまま湯屋へ改装するよう、犀星へ進呈した。
もちろん、その見返りに玲親王の公認商人の銘を掲げることを願い出たが、犀星はおとなしくそれを認可した。
「五亨庵公認となったからには、清廉潔白な商売をしなければなりません」
緑権は五亨庵の威信をすべて背負って、商人たちの動きから湯の温度に至るまで、ありとあらゆる仕事を引き受け、くるくると良く働いた。
緑権の猛烈な宣伝効果もあり、宿場はすっかり歌仙親王の領地として知られ、人の出入りはさらに増えた。
玲親王が建てる湯屋なのだから、相当に荘厳な宮殿であろう、と誰もが想像した。だが、実際に出来上がっていったのは、言われなければ気づかない、質素で町の景色に溶け込んだ、実用的な平屋造りの一軒だった。知る人が見れば、いかにも犀星らしいたたずまいだった。
犀星らしさは、町の名にも表れていた。
玲陽と東雨は、古代の歴史書や地図をひっくり返しながら、美しい名をつけようとあれこれ考え続けた。だが、手続きに赴いた犀星が、その場で町の名を決めるようにと迫られ、何も考えずに答えてしまった。
宿場は正式に|辰巳《たつみ》と名が定められた。
紅蘭の南西に位置する、というだけの、あまりに安直な命名だった。玲陽たちが愕然と涙したのは言うまでもない。
湯屋の運営を預けられた緑権は、そんな細かいことを気にする性格ではなかった。
「名より実です」
緑権は犀星の口癖を引っ張り出してきては、前例のない勢いで事業を進めていった。
夏は盛りを迎え、朝っぱらから蝉の声がやかましかった。
周囲は農耕地帯で、夜は蛙が大声で鳴きわめいていた。
一箇所しかない井戸は、不良であった。地面から吐き出される色のついた水は、どうしても生活には使いにくいものだった。
緑権は犀星たちに知恵を求め、新たな水脈を探った。犀星の指示に従って、伍江の道筋や傾き、表層を覆う植物の種類、土の色や質など、細かく調べた。その甲斐あって、伍江の影響を受けない地下水を直接掘りあてることに成功した。井戸を起点に、町全体に緩やかな傾斜を作り、上水路とため池、排水網も整備した。
水は犀星の図面通りに、見事に流れた。
玲陽の観察眼と、花街で培ってきた犀星の治水力、そして緑権の途方もない度胸が、瞬く間に奇跡のような水網を作り上げた。
その勢いに押された作匠たちの懸命な働きにより、湯治場の内装も急速に形を見せ始めていた。緑権は今までになく仕事に熱が入った。慈圓や犀星のように、同時にいくつものことを処理する力はないが、一つのことなら任せてくれと、最近の緑権は胸を張った。目の前のことに夢中になる力には、目を見張るものがあった。
ここ数か月で、緑権に対する評価は格段に上がっていた。
人との交流が苦手な犀星と、何かと周囲に敵をつくる慈圓の苦手を補うのが、そもそも緑権が五亨庵に選ばれた理由であった。
とかく相手に侮られるにこやかな態度と、何を言われても心に堪えない鈍感さ、何度断られても諦めることを知らないしつこさは、剛より柔の武器だった。
開業前でも、湯治場には多くの者が見物に訪れた。
従来の商人や馬借が、冷やかしで中を覗き込むと、緑権は好機とばかりにあれこれ案内してまわった。
「今ちょうど排水路の勾配を確かめていたところです!」
などと、満面の笑みを浮かべて出迎え、まだ柱だけの部屋の前で手を広げ、完成形を熱く語った。よくわからない、という客があれば、その場で石や木切れを並べて模型を示し、さらに饒舌に語りつくした。
「ここが湯殿です。朝日は東から入り、蒸気が光るのです」
言いながら、石が組み合わされた空っぽの浴槽に客たちを並べて、肩まで湯に浸かる想像を強要した。
「この石は二寸ずらしてあります。湿気が逃げるからです」
隙間を示して、壁の構造を説明し、裏側に連れて行くと、
「ここから抜けた熱が建物の床伝いに流れる仕組みです。これで、足元から全体が温められ、湯冷めの心配もありません」
さらに、奥の湯沸かし窯の前に立ち、
「ここの湯はすべて、玄武池で採掘された泥炭を燃料に沸かされています。これも、歌仙様のお考えです」
「泥炭は買えるのか?」
「もちろん!」
物好きな客が口を挟もうものなら、緑権はさらに畳みかけた。
「今後は隣接の雑貨商でお求めいただけます。ご希望でしたら、予約をお受けしますよ! 今でしたら、少しお値引きして……」
上流で泥炭生産を預けられている東雨が知らない間に、すでに下流では商談がまとまっていた。
「湯治場は儲かるのか?」
「よく、お尋ねくださいました!」
別の客に尋ねられて、緑権は丸聞こえの声で、秘密のように顔だけ神妙にして、
「実は、儲からないんです」
目を白黒させる相手に、緑権は嬉しそうに、
「歌仙様は、儲けより、人々の目線に立ってお考えになる方です。人が健康になれば、その分景気が上向いて、世の中のまわりがよくなる、とお考えです」
東雨が聞いたら、全力で首を横に振りそうなことを、緑権は堂々と言ってのけた。実際、儲けはさほど、期待できないのが実情だった。重要なのは、出費がかさまないことだった。
朝の早い時刻には試し湯と称して、門の前にひざ下まで浸かれる湯舟を用意し、長榻を並べて腰かけて足だけ浸からせた。
「ほら、ぬめりがあるでしょう? これは地の奥より湧き出た土の力が溶け込んでいるのです」
この調子で、緑権は人々の関心を誘い、その奇抜な人となりが噂になって、さらに見物人が訪れた。どんな文句や難癖にも、笑顔で応対し、すべてを湯治場の宣伝にすり替えた。これは計算ではなくその性格ゆえのなりゆきだった。
最初は胡散臭い目を向ける者も多かったが、着実に緑権は興味を持たれる存在となった。
歌仙様の湯治場は面白そうだ。
そんな話が人づてに広がった。
人の動きは辰巳だけに限ったことではなかった。周辺の農業地帯にも、少しずつ、変化が起きていた。
かつて、北方の千義との戦いで農地を失った者たちが、意図して辰巳の周りに集まりつつあった。
犀星が緑権に命じた計画の中には、農地の拡張も含まれていた。
泥炭に加えて燃料となる菜種油の畑を増やすように、との指示だった。その実行のために、緑権は開墾にも人を呼び込んだ。宿場の外側に居住地を設け、その外側に畑を持たせた。今まで、農地のそばに暮らすことが主流だった農民たちは、町の中に住まいを構え、そこから自分の農地へと働きに出た。これは、今までにはない形式だった。
分散して畑のそばに暮らしていれば、確かに日々の移動は少なくて済んだ。しかし、中心に集まることで得られる利益も大きかった。一番の利点は、集団として対抗できる防衛力だった。個別では盗賊の襲撃に弱いが、町となれば自然と警備の体制も生まれ、人命も財産も守られた。
また、畑に手がかからない時期には、別の仕事も見つけやすかった。農民の短期の雇用場所として、辰巳荘も一役買っていた。湯治場の建設のための人員確保だけではなく、開業後の働き手の確保にも繋がった。農業に従事できない体の弱い者も、町の中では細かな仕事を得ることができた。
情報交換が進み、正しく新しい知識が短期間で広まったことも、暮らしを助けた。
人口の密集は衛生環境の悪化を招きやすいが、そこは、犀星の得意とするところだった。花街で培った治水の経験から、防火や衛生的な水環境には細心の注意を払い、宮中にも負けない仕組みを最初から織り込み済みの計画だった。
さらに、安珠に話しを通し、医庵を用意して診察と後進の指導を頼んだ。
治安の面でも、犀星は抜かりがなかった。かつて、花街で知り合った|洲《しゅう》という男に声をかけ、自警団を組織していた経験を買って、新たな自治警備組織を任せた。
慈圓は戸籍を整備し、人の流れを管理した。
町の性質上、人は常に入れ替わるが、それでも、宿屋や雑貨商、馬借や農民は、この町に籍を置くとし、歌仙親王の直轄民として、社会的な立場をはっきりとさせた。金のない犀星には、彼らへの援助は期待できなかったが、町の運営について、直接申し入れを行うことが許された。
「大きくして手が回らないのも、小さすぎて運営が滞るのも良くない」
犀星は、そのさじ加減を図りながら、旧来の形にとらわれない新しい町のあり方を実践していった。
緑権は前線でそれを見ながら、犀星の言葉に納得した。
人は増えれば良いというものではない。
緑権は真面目腐って考えていた。
増えれば増えたなりに、必要になるものがある。
その整備が整うまでは、あまり多くを受け入れてはならない。
町の規模には限界がある。
来るものを受け入れるのは容易だが、追い出すとなると、それは想像以上に難しい話だった。
緑権はここで、思い切った策に出た。
住居を持ちたい、という者たちを、希望する職種に応じて、幾つかの組に分けた。そして、その力量の順に選ぶ、と公言した。
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