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8 脈(3)

「冷たい、か?」  蓮章は笑って見せた。 「二人揃って熱くなっても、状況を悪くするだけだからな。ちょうどいいだろ」  蓮章は歩みを緩めて先に立った。今度は、涼景がそれを追いかけた。 「……だが、蓮、大丈夫なのか? おまえが、任せろ、と言うから任せたが……」 「任せたなら、最後まで信じろ」  蓮章は涼景を見上げて、美しい目線を送った。 「おまえの参謀は優秀だぞ」 「……わかっている」  涼景は、ふっとため息をついて、張り詰めていた緊張を解放した。  犀星が欠席した時点で、こうなることは予測がついていた。 「見事に追い詰められたな」  涼景は聞く者がいないことを確かめて、つぶやいた。 「逆だ。知ってて穴に飛び込んだ」  どこか楽しげに、蓮章は言った。  涼景は疲れた顔をすることさえ疲れた、というように、預けてあった馬を受け取りに向かった。天輝殿の馬丁が引いてきた愛馬の鞍にまたがると、蓮章と並んでゆっくり外苑へ出た。 「涼、少し、遠回りしていこう」  蓮章がいたずらに誘うように、涼景を見た。 「何をのんきな。そんな時間は……」 「いいから」  蓮章の笑みがやけに懐かしく思われて、涼景は口を閉じた。  二騎は並んで裏手へ回った。  このところ、右衛房でも暁番屋でも、忙殺される日々が続いていた。ひとつを始末すると、すぐに次の問題がやってきた。涼景も蓮章も忙しさにかまけて、長く二人になる時間がなかった。顔を合わせても、短く仕事の引き継ぎをするだけで、そっけなく別れた。軽口も皮肉も本音も、何もかも遠ざかっていた。  さすがに、心が乾いた。  蓮章も同じ気持ちなのか、いつもよりも馬の歩みが遅かった。 「しかし、変わらないな」  蓮章はちらりと涼景を見た。 「右近衛は昔から、使い走りにされる。隊長がお人好しだと、部下はたまったものじゃない」 「俺のせいか?」 「他に何がある?」 「今回は、おまえが決めたことだろう?」 「元はと言えば、おまえが玲親王付きの右近衛を引き受けたのが悪い」 「そこまで戻るのか」 「どこまでも、おまえのせいだ」  蓮章は前髪を搔き上げて、 「また白髪が増える」  涼景は小さく笑った。涼景の位置からも、白糸のような髪が幾筋か日の光にすけて見えた。染髪を欠かさない蓮章には珍しい油断だった。 「そのままでいいと思うぞ」  不意に涼景の声が甘くなった。 「蓮は、そのままで十分に綺麗だ」  蓮章は呻いて複雑な表情を見せ、それから横を向いた。その反応に、涼景も何も言えなくなって、二人の間に沈黙が訪れた。  外苑の木立の陰は、わずかにひやりと心地よかった。禁軍兵が見回る他には、人影がなく閑散としていた。二人は自然と馬を止めると、梢を見上げた。鳥が鳴き交わして飛び去った。季節の巡りは思うより早かった。  目を細めた蓮章の横顔は、あまりに線が細かった。涼景の胸に、くすぶっていた不安が燃えた。 「どうして今になって、皇子が狙われたと思う?」  涼景は、問いたげに蓮章を見た。 「蓮、おまえ、本当に知らないのか?」 「安心しろ。俺は何もしていない」  二人の間に、また少し沈黙があった。 「そういえば、涼。いつになったら奏鳴宮での会見の公式記録が上がってくるんだ?」  涼景はしらばっくれて空を眺めた。蓮章は呆れながら、 「報告を書くのが面倒なら、次からは俺も一緒に行くぞ」  その言葉を涼景は敏感に捉えた。 「必要ない」  次など、ないのだから。  涼景の返答は、犀星と夕泉の決定的な断裂を告げていた。  沈黙は、相手の思考を自分に移し替える時間だった。 「これから、どうなるのだろう」  低くつぶやいた蓮章は、普段の軽さからは想像もつかない、真実の軍師の顔をしていた。 「どうなるかではなく、どうするか、だろう」  涼景もまた、一人の近衛の枠を超えて、国の根幹に触れる覚悟があった。 「そう、だな」  蓮章は、前を向いた。 「右近衛が皇子たちの警護をしくじれば、余計に親王が疑われる」 「ああ。星と右近衛……俺を潰すために事態を利用するつもりだろう」  蓮章は頷いた。 「わかっているなら話が早い。この状況、逆手に取るぞ」 「……蓮?」 「涼、そろそろ、覚悟しておけ」 「俺は望んでいない」  二人の視線が、一瞬だけ火花を散らした。  違う。  涼景は手綱を持つ手を握りしめた。  こんな話がしたいわけではない。  自分自身に戸惑いながら、涼景は首を振った。 「……悪い」 「いや」  蓮章も、目をそらした。  すれ違ってばかりいる。  胸の奥に痛みを感じて、蓮章は呼吸を浅くした。二人きりになれば、何かが動くと期待していた。蓮章には珍しく、無策のままに時だけが過ぎた。 「なぁ」  囁くように、蓮章は言った。 「俺はさ、これからも、涼を、信じていいのか?」  涼景は唖然として表情をなくした。 「なんだよ、急に」  蓮章は困ったように唇の端で笑った。 「すまない、少し、怖くなった」 「…………」 「変だな、俺」  自嘲と言うにはあまりに重たい憂いが、蓮章の目に宿っていた。涼景は、一歩、馬を寄せた。 「蓮、俺が言えた義理じゃないが、おまえ、無理をしすぎじゃないか?」 「本当、誰のせいだよ」 「だから、それは悪いと思っている。だが、最近のおまえを見ていると、どうにかなりそうで……」  涼景は本気で、不安を感じた。  気の強い慎が涼景に泣きつくほど、夕泉の一件は蓮章を傷つけた。その深刻さは、涼景なりに理解しているつもりだった。蓮章にとって、花街は自分の居場所であり、たった一つ、逃げ込むことができる聖域だった。その平穏を崩し、罪のない女郎たちを踏みにじった夕泉の所業を、どれほど深く恨んでいるか、想像するだけで苦しかった。そして、その思いが大きいほど、何もできない自分を歯がゆく口惜しく許せないであろうことは、蓮章の性格を知っている涼景には、わかり過ぎるほどにわかっていた。 「なぁ、蓮」  涼景は、優しい声で呼びかけた。 「覚えているか? 俺たちは、二人で二人の将になると約束した。一人でどうにかしようとするなよ」 「……わかっている」  蓮章は、涼景を見つめた。灰色の目は潤んでいた。 「約束は守る。何があったって、俺はおまえの『蓮』だ」  自分に言い聞かせる蓮章の口調に、涼景は衝動を抑えられなかった。滑るように馬を降りると、蓮章に腕を差し伸べた。蓮章は一瞬迷い、それからゆっくりと地に下りた。  馬体と木立の隙間で、二人は互いを支えあった。  忘れかけていたものを思い出すための、触れるだけの抱擁。  愛でも欲でも支配でもなく、生きていることを確かめる時間。  蓮章の体は木陰の水のように冷えていて、涼景の体は日向の石のように暖かかった。水は石を潤し、石は水に熱を移した。  頬を重ね、指先をうなじにかけても、それ以上距離が縮むことはなかった。涼景の匂いを吸い込んで、蓮章は精神が蘇ってくるのを感じた。涼景も全身で感じる蓮章の体の細さとしなやかな感触に、どっぷりと浸った。  不思議なことに、二人が求めるのは互いにここまでだった。  進めないのはなく、進まない。それが、変わらぬ二人の選択だった。  二人の間には、確実に線があった。触れ合うのは相手を求めるためではなく、自分の体を確かめる行為に似ていた。 「涼、どうしたい?」  蓮章は、涼景の耳元に息を吹きかけた。 「今回の事態、おまえが望む形に収めてやる。言ってみろ」  涼景はわずかに考えた。  蓮章ならば、何を言っても、本当に成し遂げてしまいそうだった。頼もしくもあり、恐ろしくもあった。自分の言葉に、蓮章の命がかかっている気がした。 「星を、失脚させるわけにはいかない。あいつは、この国に必要な人だ」 「わかった。親王の政治的立場は、死守する」  涼景には難題と思われたが、蓮章はあっさりと請けあった。 「他には?」 「他……?」 「いつもの、か?」  腕を深くからめて、蓮章は胸に息を吸い込んだ。温もりと力強さに身を委ね、支えられる心強さに安堵を覚えた。 「そう、だな。無関係な者を巻き込みたくない。そして最後は、燕涼景と遜蓮章が、二人揃って生き残ること」  蓮章は涼景の肩に押し当てた口元を緩ませた。 「わかった。俺に任せておけ」 「蓮、どうするつもりだ? 右近衛だけでは苦しいぞ」 「追加された警備については、備拓の力も借りられるよう、手配してみる。幸い、仲をこじらせたのは親王同士だ。近衛の連携はむしろ、強固となっている。暁隊はしばらく、旦次に権限を委譲しておけ。俺も補佐するが、おまえが常駐することはできない」  夏の午後、木陰で寄り添いながら、蓮章は権謀術数を口にした。 「涼は予定通り、親王の護衛に徹してくれ。この際、都を離れて辰巳の湯治場にでも連れていけ。凛が一緒ならば、おまえの負担も減るだろう。それに、東雨も守ってやれる。あいつの正体を知る者が他にいないとは言えない。万が一、狙われるとややこしいことになる」  耳元で静かに冴える蓮章の声は、涼景には心地よく聞こえた。 「だが、今、星が都を離れると、邪推されないか? ただでさえ、あいつが領地を申請したことで、拠点を築くつもりではないかと疑う者もいる。これ以上、あいつの立場を悪くさせたくない」  連章はわずかに首を回して、涼景の首に顎先を乗せた。 「その心配はもっともだ。当然、避けられない疑いだろう。だが、それ以上に、今起きていることを解決する方が先だ」 「毒殺事件の犯人か?」 「そうだ。そこを明らかにすることで、親王の疑いを晴らす。その間、離れていてくれた方が俺も動きやすい」 「追及には、禁軍が矜持を持って乗り出してくる。おまえが動けば反感を買うぞ」 「慣れている」 「慣れるな」 「誰のせいだ?」 「……俺だな」  話すたびに、体が微細に振動した。肌で感じる声は、涼風よりも優しかった。 「この際、親王を距離的に離した方がいい。調査と警護、その上、予測できない親王の面倒まで、同時にこなすのはさすがにきつい」 「わかった。星は俺が預かる」 「気をつけろよ。火薬庫を抱えて歩くようなものなんだから」 「火薬も、火がつかなければ害はない」 「火をつけて回るのが得意な連中ばかりだろう?」 「……誰のことだ?」  涼景には、思い当たりすぎた。 「とにかく、涼は時間を稼いでくれ。長くは待たせないつもりだ」 「ああ。だが、おまえも慎重に動けよ。荒事になればおまえでは危ない」 「そうならないよう、祈っていてくれ」 「…………」 「どうした?」 「……祈るより、俺を頼れ……」  聞こえなくてもよい、というほど、涼景は弱く言った。蓮章の胸の中に、穏やかな日だまりが広がった。 「涼が、俺を守りたいって気持ちは嬉しいが、公私混同は禁物だ」  不意を突かれて、涼景は喉が詰まった。 「心配するな。もしもの時は、慎がいる。あいつは俺の代わりに死んでくれる」  蓮章の言葉は、どこまでが本気とも知れなかった。久しぶりに聞くためなのか、冗談のようには思われず、涼景は戸惑いながらわずかに腕を強めた。その手ごたえのなさに、肌が泡立った。 「蓮、おまえ、また痩せたんじゃないか?」 「夏だから薄着にしただけ」  嘘だ。  一層、背中を抱きしめて、涼景は目を閉じた。  馬が小さく鼻を鳴らし、二人の姿を光から隠した。木立の陰、青草の匂いが立ち上る道の隅。互いの輪郭をなぞり、その形を己が身に刻む。  この日、最も長く深い沈黙を、葉擦れの音が彩っていた。 「なぁ、涼」  幼い頃、共に暮らしていた夜に聞いた、甘えた蓮章の声が、涼景の胸に溢れた。 「俺は、絶対に、おまえを助ける」 「蓮……?」 「解放してやる」 「…………」 「だから……」  自らの言葉の先を、蓮章も知らなかった。  閉じた瞼の裏に熱いものが溢れて、蓮章はそれ以上目を開けていることができなかった。

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