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9 夏雪より(1)

 五亨庵は宮中にありながら、孤立していた。  それは今に始まったことではないが、その傾向が強まりつつあることは確かだった。  先日、皇家の子息殺害に対する緊急の会議の際、中枢にいる者の中で、犀星だけが召集に応じなかった。  自らも血のつながりのある親族、それも、皇位継承を争う立場の皇子が暗殺されるという事態に、叔父である犀星が欠席となれば、当然のごとく、関与を疑われてもいたしかたない。いらぬ疑念を招くと周囲は不安視したが、犀星の心情を思えば、強く推すことはできなかった。  夕泉と同席することは、犀星には苦しすぎた。  現時点で、夕泉は犀星よりも高い継承権を有する。どちらの親王が身を引くべきかは明らかだった。  蓮章らの懸念は的中し、この一度の拒絶が、宮中の疑心を煽った。  その影響を最初に味わったのは、東雨であった。  五亨庵の遣いとなれば、それなりに丁寧な対応をしてくれていた役所が、途端に温度を落とした。  貸出台で目線を合わせなくなった秘府や、修繕の布と糸を差し出す手が震える尚衣局、内侍省をのぞいても、東雨を見るなりみなが顔を背けて話題を変えた。  腹が立つ。  東雨は平気な顔を装いながら、人の世の冷たさを気持ちの底に押し込めた。  宮中がこのような場所だということは、嫌になるほど味わってきたというのに、繰り返されるたび、変えることのできない自分の無力が悔しかった。  犀星が無関係であることは、誰より、東雨にはわかっていた。会議への欠席も、夕泉と対面して冷静ではいられない自身を制御するための、犀星の苦肉の決断だった。  何も知らないくせに。  やり場のない苛立ちを忘れるように、東雨は五亨庵に外の声を持ち込まなかった。  誰より辛いのは、犀星本人である。そして、それを見ている玲陽である。  奏鳴宮での会見のあと、ふたりの間でどのようなやり取りがあったのか、東雨は知らなかった。問いただすよりも、いつもと変わらずそばにいて、犀星たちから話があるまで、待つつもりだった。  主従の距離は、すでに接していた。必要なときに必要な感情が行き交う双方向の水路が、心と心を繋いでいた。  官吏たちが軒並み冷たくなっても、右近衛だけは東雨に変わらぬ笑顔を向けてくれた。右近衛は、まさに犀星の無茶に振り回されてきた最たる被害者だった。その彼らが、このような窮地にあって最も犀星を信頼していたというのは、なんとも皮肉な話である。それでも、身近な右近衛の態度が、ほかのどんな拒絶よりも救いであった。  そしてもう一つ、解決すべき具体的な課題に直面していたことも、東雨の気持ちを前向きにすることに一役買った。  何かをしていた方が気が紛れる。  東雨は五亨庵の掃除をてきぱきとこなした。  昨日、緑権が辰巳から戻り、湯治場設営の進捗状況の報告と今後の予定について、朝から皆が忙しかった。  東雨は早く内容が知りたくて、玲陽の几案に近づいた。  興味津々に手元を覗き込むと、木札と数枚の布地図を広げて、玲陽は|尺木《せきぼく》を片手で揺らしていた。  玲陽は渋い顔を東雨に向けた。 「東雨どの、これ、わかりますか?」  玲陽は、数枚の地図をふたつの組に分けて並べ直した。東雨は覚えるほどに見慣れた地形を確かめた。 「これは、どちらも、亀池のあたりのものですね」 「はい。正確な距離を割り出すために調べていたのですが、ちょっと困ってしまって……」  玲陽は|尺木《せきぼく》を地図の上にあてて、 「こちらでは、都の北門から伍江までの直線距離が、十二里、となっています」 「確かに……」  東雨は、説明に合わせて玲陽が示す尺木の幅を確かめながら頷いた。話題が気になって、緑権も寄ってきた。玲陽は緑権にも別の地図を示して、 「ところが、こちらでは、同じ場所が十五里なんです」  その誤差は玲陽にとって、甕の中の米が一晩で全て虫に変わりました、というような絶望感だった。 「それくらい、別にいいんじゃないですか?」  緑権が顔色一つ変えずに言い放った。 「大した違いじゃないです」 「違います!」  思わず玲陽は声を高めた。 「すみません、どうしても気になってしまって。それに、正確な距離がわからないと、予算にも変動があります。財源は限られていますし、完遂日数や全体の計画も……」 「それは、補正しながらやればいいんですよ」  東雨が、落ち込んでしまった玲陽に笑いかけた。 「陽様は真面目だから、気になっちゃうんでしょうけど」  と、ちらりと緑権を見た。 「それはつまり、私は真面目ではない、と?」  珍しく、緑権にも東雨の含みがわかったらしかった。 「いいでしょう!」  緑権は鼻息荒く地図を手に取った。 「十三里か、十五里か、はっきりさせようじゃありませんか!」 「おとなげない」  げんなりと、東雨が嘆いた。  玲陽は真剣に地図を見比べた。 「私もはっきりさせないと、気がすみません」  玲陽はさらに真剣さを増した顔つきで、 「この、十三里の地図は、都の民たちが一般的に使っているものです。そして、十五里のものは、宮中で利用されているものです」  玲陽は複数枚の地図を重ねた。緑権は差し出された地図を見ながら、口を曲げた。 「都のもの、宮中のもの、で、はっきり違うんですね」  東雨は首をひねって考え込んだ。 「うーん、どっちが正解か……何で判断したらいいんでしょうか?」 「難しいですね。でも、違うからには、何か理由があるはず」  玲陽は木簡の一束を、地図の間に置いた。 「それで、秘府で調べてみたんです。これは、その写しです」 「この数値は?」  数字を見るのが苦手な緑権が、早くも諦めかけていた。 「地図が作成された時の、測量結果です。でも、この結果によると、距離は、十四里なのです」 「また、違うんですか?」  東雨は泣きそうになって、 「余計に、わからなくなってきました」 「そうなんですよ。それで、今、兄様に頼み事をしていて……」  玲陽が言いかけた時、ちょうど、五亨庵の扉が開いて、犀星と慈圓が戻ってきた。 「兄様、お帰りなさいませ」  玲陽は反射的に立ち上がった。ぱっと金色の髪が揺れて、嬉しさが肌から立ち上るのが見えるようだった。 「これ」  犀星は穏やかに、手にしていた巻き布を、玲陽に渡した。 「おまえが待っていたのは、俺じゃなくて、こっちだろ」  からかうように笑って、犀星は自分の席についた。 「そんなこと…… 兄様のことも、待っていました」  うつむいて布を握りしめる玲陽を見て、犀星は楽しげに目を細めた。東雨と緑権、慈圓は顔を見合わせて、にやりと笑った。  どのような時でも、ふたりの他愛ないやりとりは五亨庵の救いだった。 「それ、なんです?」  緑権が犀星のもたらした布を見た。玲陽は無意識に抱きしめながら、 「軍用地図です。これが、一番正確だと思いましたので、涼景様にお願いしてもらったんです」 「なるほど、確かに涼景が使うものなら、信憑性があるかも」  東雨は期待を込めて、玲陽の手元を見つめた。  頷いた玲陽が地図を開こうとした時、緑権がそれを止めた。 「せっかくだから、賭けませんか?」 「賭ける?」  緑権の提案に、玲陽と東雨は顔を見合わせた。 「はい。果たして、どの数字が正しいのか」  黙ったまま、犀星がちらりと、三人を見た。 「光理どのが最初に選んでください。一番、よくご存知だと思いますから」  玲陽は数秒、思案して、 「では、測量結果の十四里にします。数字で示してあるものは、これだけですし、他の地図は書き起こす際に間違えた可能性があります」 「なるほど、光理どのらしい選択です」  もっともらしく、緑権は腕を組んだ。東雨は半分あきれた様子で、 「では、次に謀児様、選んで下さい」  緑権は余裕を浮かべ、都の地図を指した。 「宮中の地図は帝も使いますし、それに、もし誤りがあれば、真っ先に責任者の命が飛びますから。少なくとも、仙水様の軍用地図と一致するのはこっちです」  鼻を膨らませて、緑権は満面の笑みを浮かべた。東雨は横から、残った地図の山を引き寄せた。 「……では、俺は民が使ってる地図ですね」 「いいんですか、東雨どの、残ったもので?」  玲陽が気遣わしげに問うた。東雨はにっこり笑って、 「俺は最初から、これを選ぶつもりだったので。確かに、安い地図ではありますけれど、商売や旅などで、一番よく利用するのは民です。その民たちが信用しているものですから、事実に一番近いと思います」 「確かに、道理ですね」  三人のやりとりを、犀星は口元を緩めながら聞いていた。そのままの顔で、奥に座った慈圓を見ると、向こうもこちらを見て、ニッと笑った。 「おまえたち、何を賭けるんだ?」  慈圓は、わざと興味なさそうな調子で問いかけた。 「そうですね……」  東雨が天井を睨んで、 「お金は持ってないですし……それじゃ、薪割りにしませんか?」 「え?」  緑権が、あからさまにたじろいだ。 「わ、私、力仕事はどうにも……」 「謀児様、辰巳でも怠けているんですか?」 「怠けているのではなく、休んでいるだけです!」  久しぶりに見る東雨と緑権の掛け合いに、思わず玲陽も笑いをこぼした。  緑権は思いついたように、 「東雨、これからは薪より、泥炭の時代です」  対する東雨が、いたずらっぽく笑った。 「泥炭はまだまだ高価なんです。量産できるようになるまでは、薪の方が安くて済みます」 「そ、そうなんですか!」  緑権の顔色が悪くなった。胸騒ぎがして、東雨は目を細めた。 「まさか、辰巳で泥炭を無駄遣いしてないでしょうね?」 「そ、そんなこと!」  緑権の慌てぶりが、全てを肯定していた。無駄遣いどころか、元値をはるかに割り込む安売りの予約を取り付けたなど、口が裂けても言えなかった。 「だったら、薪割一択です。実利にかなってます」 「私も異論、ありません。負けた者が三束作ること、でどうです?」  二人に見つめられて、緑権は声を沈ませた。 「光理どのが、そうおっしゃるなら……」 「陽様は、謀児様と違って文武両道ですから、薪割りなんて朝飯前ですよ」 「一言余計です」  緑権が口を曲げて東雨を睨んだ。それさえ、和気藹々とした一幕であった。  賑やかな友人たちを眺めて、犀星はふと、心が遠のくのを感じた。  耳鳴りの声が強くなった。  低く高くうねる声が、背骨の奥を掻きむしった。冷や汗が浮いたが、それを拭う気力すら湧かなかった。  犀星はそっと、目を閉じ、息を整えた。  瞼の向こうで、東雨の笑い声が弾けた。目を開くと、玲陽の笑顔がたまらなかった。見慣れた五亨庵の景色が、少しずつ自分の心から剥がれ落ちていくようだった。 「陽様、早く!」  大きく響いた東雨の声に、犀星は我に返った。  三人が額を寄せ合って、犀星が届けた地図を広げていた。  涼景が軍事の際に用いる地図だけに、その正確さは期待できた。そこには、思いがけない結果が待っていた。  玲陽が目を見張った。 「川が、二本、ありますね」 「どういうことです?」  緑権は身を乗り出した。東雨は細かな書き込みを指先で追った。

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