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9 夏雪より(2)

「ええと……雪解け時期が南側に寄り、それ以外は北側に寄る……これって、季節によって、流れが変わるってことですか?」 「そういうことだ」  あっさりと、慈圓が答えた。  三人は恨めしげに老獪を見た。緑権が口を尖らせた。 「玄宗様、ご存知だったんですか?」 「ああ」 「ああって……だったら、教えてくれたっていいじゃないですかぁ」 「答えるのは簡単だが、自分達で考えることに意味がある」 「また、そんな面倒なことを……」  緑権は大きなため息をついた。  慈圓は笑いながら、 「それより、考えてみろ。流れが変わるというのに、宮中と都で、使われている地図がそれぞれ統一されているのはなぜなのか」  三人は再び、それぞれに地図を手に取った。慈圓が満足そうに、 「大切なのは、理由を知ることだ。結果だけ手に入れたところで、半分しか理解したことにならぬ」  玲陽は、自分が調べてきた木簡を見直した。 「測量の数字が十四里なのは、この測量が六月に行われているから、でしょうか」  緑権は、宮中の地図を見ながら、 「確か、このあたりの地域は、左相の領地でした。少しでも、自領を広く見せるために、川が最も北部に寄っているものを一般化したのでしょう」 「権力の証、ってわけですか」  これだから貴人は嫌いだ、と東雨は首を振り、都の地図の意味を考えた。 「町の人たちが、川が南寄りに流れる地図を使っているのは……あ、もしかして、氾濫、ですか?」 「そうでしたか!」  緑権が手を打った。 「確かに、この川はよく氾濫するんです。それで、都の北部は定住するには向かない。民の地図は、安全に住むことのできる範囲を表しているのかも……」 「すごい、謀児様が役に立ちました!」 「だから、一言余計ですってば」  いたずらっぽく笑う東雨を見ながら、玲陽は納得の息を吐いた。緑権がホッとしたように、 「全員間違いですから、賭けは不成立ですね!」  賭けを提案した本人が一番嬉しそうに笑った。  東雨はすべての地図をまとめ、改めて眺めた。その目に、好奇心とは別の理知の光が宿っていた。 「立場が変われば、川の流れも、その意味も変わる……」  東雨のつぶやきに、突然、沈黙していた犀星が顔を向けた。 「そうだな。些細なことかもしれないが、こういったところから、人の心を知ることができる」  ぴくり、と東雨は驚きに強張った顔で犀星を見上げた。犀星が眉を寄せた。 「すみません。若様がそんな風に人の心を語る日が来るなんて、感無量です」 「……東雨、それは、どういう意味だ?」 「いえ、喜んでいるんです」  犀星は一瞬固まり、それから気まずそうに自分の仕事に戻った。  玲陽は犀星を見つめて、優しく微笑んだ。  そうやって、私たちを、導いて下さる。  気恥ずかしそうな犀星を見ながら、玲陽は幸せだった。東雨もまた、いつしか少し、大人の顔をしていた。緑権は薪割りを免れた安堵に、胸を撫で下ろしていた。  多くを語らず、進むべき道を背中で示す。  玲陽は目を潤ませ、東雨は胸を張った。それぞれに、犀星が誇らしかった。  視線を感じたのか、犀星は手元が狂って筆を取り落とした。  玲陽は、そんな犀星の全てが嬉しかった。  こうして五亨庵で皆と過ごす時、犀星はまるで違った顔を見せた。違うように見えても、中身は二人きりの時のままだった。どこにいても、本心は、自分に寄り添ってくれる一人の人間だった。  政治家として、武人として、大切な人として、玲陽は犀星の全てが愛しかった。幼い頃から約束したように、玲陽には、犀星しか見えなかった。  玲陽の熱い視線を感じたのか、犀星が困ったように目を上げた。  二人を繋ぐ想いの糸が、東雨たちにも見えるようだった。緑権が、東雨に耳打ちした。 「東雨、あのお二人、帰宅してからはどんな様子なんですか?」 「え? どんなって、仲が良いですよ。喧嘩しても、じゃれあいみたいなものですし、すぐに元通りになりますし」 「それは想像がつきます。そうじゃなくて……」 「え?」 「だから……」  こそこそと話していた二人の後ろで、一際大きな、慈圓の咳払いが聞こえた。 「謀児、余計な詮索をしている暇があるなら、薪割りでもしてこい!」 「い、いえ、私は計画書の修正が!」  緑権はつまづきながら自分の几案に戻った。慈圓が、じろり、と東雨を見た。 「それで? どんな具合だ?」 「……玄草様まで……」  東雨は肩をすくめた。 「多分、何もないです……毎晩、静かですから」 「嘆かわしいことだ」  慈圓はやれやれ、とため息をついた。 「今更、後継云々を言うつもりはないが、野とも山とも知れないとは」 「俺だって不思議なんです。でも……いいんですよ」  東雨は静かに笑った。  急に、現実が思い出された。  夕泉のことも、皇子の事件のことも、決して簡単にはすまないとわかっていた。それでも、こうして夏の日差しが差し込む艶やかな五亨庵の、静謐な空気の中で、眼差しを交わし合う犀星と玲陽の姿は、それだけで十分に幸せそうだった。  これで、最後にせねば。  備拓は覚悟を決め、左近衛の隊列を伴って奏鳴宮の外門をくぐった。宝順の皇子に関わる緊急の会議を終えての帰還であった。  議場で、いつにも増して夕泉は空虚だった。我が子を失った宝順よりも、さらに心をなくしていた。  玲親王が無表情の下に本心を隠しているのに比べ、夕泉は似て非なるものだった。  仮面のように表情は動かなかったが、その裏に激情があるかと問われれば、それは否であった。秘めながら想いを燃やす犀星と違い、夕泉は火種すらない静寂なのだ。  夕泉のその気質が、長年にわたり備拓の関心を奪ってきた原因の一つであった。探ろうにも、あてがなく、甲斐がない。  それでも、と、備拓は自己を責めた。  夕泉に潜む、人であるがゆえの消し難い熱。それが此度、玲親王との間に亀裂を生んだ。備拓の、主君に対する理解が及ばなすぎた。それもまた、事実だった。  帳車が、奏鳴宮の入り口にぴたりと寄せて止まった。そばの近衛が扉をひき開けると、気配もなく、そろりと夕泉は屋敷へ入った。  備拓は黙ってそれに続いた。近衛の半数が馬と帳車の始末に動き、残りの半数が備拓の後に続いた。  屋敷に残っていた近衛に先導され、一行は奥へ向かった。  備拓は夕泉の斜め後ろを歩きながら、肩のあたりまで視線を上げた。  最近、夕泉は以前にも増して、表情を変えないことが多くなった。一日、姿を見せないことも増えた。人目に触れることを嫌うのは昔からだが、議場で大勢に囲まれ、近衛とともに回廊を歩んでも、心は今まで以上に内側に向かっているように思われた。  奏鳴宮は、その全てに柔らかな匂いが染みついていた。屋敷のどこにいても、日の出から日没まで、琴や笛の抑えた音が響いていた。姿は見せず、音だけをつかさどる妓人たちは、奏鳴宮で奏でることに誇りを持っていた。ここでは何より、楽の腕だけが問われた。川にせせらぎが立つように、この宮には美しい音が満ちていた。  その音色は、奏鳴宮の呼吸のようであった。  誰の目にも、夕泉が楽を愛しているように見えた。見えてはいたが、備拓にはそれすら危ぶまれた。どこに本当の夕泉の心があるのか、霧の向こうに隠されたままであった。  警備の間、常に視界の中に夕泉はいた。目に見えていながら、その心を、かけらも理解してはいなかった。  単純に近衛としての役割を果たす、その観点から言えば、備拓は充分すぎるほどに職務に忠実だった。己の都合で役目を軽んじたことはなく、優先順位を誤ったこともなかった。いつも夕泉にとって最も良いと思われる決断を下してきた。たとえ個人的に強いられる辛さがあったとしても、それでもなお、逃げることなく受け入れてきた。  知らねば。  備拓にとって、是が非でも乗り越えねばならない問題が、逃れられない目の前にあった。それは、己の怠惰の種と呼ぶものだった。  備拓が後悔する無関心は、裏を返せば今まで夕泉のもとに居られた唯一の理由でもあった。他者から関心を寄せられることを嫌う夕泉にとって、備拓は心のすりへらぬ相手だった。  二人の思いは期せずして、互いのあり方と重なって、関係は長く続いた。  遠い心とは真逆に、体の距離は近かった。  備拓が望めば、夕泉に会うことは容易だった。涼景が犀星との面会に許可を必要としないのと同様に、備拓は用件の有無に関わらず、自由に奏鳴宮に出入りし、部屋の御簾を揺らすことができた。  難しいのは、その先だった。距離は近くとも、見えぬものがあまりに多かった。  不意に、夕泉は左近衛の先導からそれた。  備拓は目を見張った。  まっすぐに私室に案内しようとしていた近衛が、数歩遅れて立ち止まった。  黙ったまま、夕泉は角を曲がり、広縁から中庭へ降りた。  近衛の視線が、指示を待って備拓に集まった。備拓は広縁に近衛を待機させ、屋敷内の警備の配置を言いつけてから、自分もまた、庭に出た。  奏鳴宮の庭の影は静かに柔らかく、日の光と季節の匂いを閉じ込めていた。  日暮れが近くなっても、なぜかこの場所には透明な明るさがあった。それはやたらと磨き上げられた建物の壁や柱、屋根の梁にも宿っていた。  滝の音と琴の響きが絡み合い、せせらぎの合間に笛が混ざった。  風情ある景色が、涼景から真実を聞かされた今となっては、拭い去れない不気味さをはらんでいた。  石をひとつ踏み、高床の小屋の屋根の下に入ると、夕泉は毛氈を敷いた長榻に腰を下ろした。壁のない、六本の柱で支えられた瓦の屋根は、白い釉薬に光を溶かして滲んで見えた。  踏み石のそばに、備拓は片膝をついた。  夕泉と二人きりになる機会は、過去にも幾度もあった。そのたびに、主人の気持ちを引き出せないものかと、と思案した。奏鳴宮の奥深くに身を隠す夕泉の、さらにその胸中の深くを探ることは、簡単ではなかった。  夕泉自身の性格もさることながら、備拓とて、気軽に人に親しむ性分ではなかった。まして、長年、無言の中で構築されてしまった関係を崩すのは難しかった。  あまりに情けない。  いかに自分を嘆いていても、せんなきことだった。  挨拶は短く、簡潔に報告するだけで終わるの常だった。  戸惑いを毅然とした眼の奥に隠しながら、備拓は考え続けていた。  どのような問いかけも、無意味に思われた。幾度も試み、その度に夕泉は沈黙を守っていた。今更になって、胸の内を明らかにするとは考えにくかった。  それでも備拓は、諦めなかった。  夕泉の機嫌を損ね、職を追われ、命を失うことになったとしても、引き下がれない局面だった。  それはもはや近衛の忠誠ではなく、人としての備拓のけじめである。  言葉のない時間が、主従の間を通り過ぎていった。  夕泉の顔を、備拓は見たことがなかった。見たいと思ったこともなかった。ただ、いつからとはなく、物悲しい面ざしであるような気がしているだけだった。常に面紗で顔を隠し、ふと視線が流れても、直視することは避けられた。それゆえか、備拓は夕泉を人としてより、そこにあるものとして、客観的に捉えていた。

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