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9 夏雪より(3)
備拓の視野のやや隅で、夕泉の明るい黄色の影が、風に吹かれて僅かに波打った。光沢が水面に揺れる日差しのように、白く照りかえした。
体の弱い夕泉が外に留まる時、備拓はわずかながらその身を案じた。それは夕泉を慮ってというよりは、近衛という立場ゆえの配慮であった。
夕泉は、何をするでもなく、言うでもない。まるでその身を罰するように庭にあり続けた。
備拓には、そこにこそ、夕泉の語らぬ心があるように思われた。以前であれば、ただ無益なこと、体を壊せば後が煩わしい、と思うばかりだった。だが、今の備拓には別の心が働いていた。
空洞のように見えて、そこに確かに存在するもの。
それが夕泉の本質であると思い始めていた。
夕泉は、風だった。
目には見えずとも、揺れる花が存在を示すのと同じだった。
この庭で激情に駆られた玲親王の姿こそが、夕泉が揺らした花であった。
備拓は、庭を眺めた。
もう、美しいばかりとは思われない景色の端々に、痛みが潜んでいる気がした。
どんな思いで、夕泉はこの光景を作り上げたのか。
涼景は庭を、宣戦布告と言った。確かに、それは一つの見方に違いなかった。結果として玲親王の怒りを買い、その傷の修復は不可能にも思われた。
こうなることが、夕泉の望みだったのか。
備拓は違う角度を探った。
数年の間、疑うことのなかった無為無策な親王には、すなわち、悪意もまた、なかった。いたずらに玲親王を苦しめるとは思い難かった。何より、玲親王は夕泉が心をかけていた数少ない相手だという認識は、決して間違っていないという自信があった。ならばなぜ、あえてその弟を傷つける必要があったのか。
斜めの日が色づき始めていた。
直接肌を刺す陽光は、鋭く影を生み、備拓の顔の皺をくっきりと浮かび上がらせていた。苦しくなるほど立ちこめる青臭い葉の匂いが、どれほど息を吐いても、とめどなく胸の中に流れ込んできた。
備拓は、庭の花を視線でたどった。その狂おしい生命力が、地面の下に感じられるばかりだった。青草を一掴み引き抜けば、大地ごと剥がされてゆくような、分厚く絡み合って広がる根の感触が、土の下に感じられた。
世間のしがらみと同じ。
備拓は、不意にそんなことを思った。悲しいほどにもつれ、互いに支えるようで、足を引き合い、助けるように伸ばした手も、いつしか首を絞めるのだ。
人の世の解けることないがんじがらめの束縛が、土の下にも蠢いていた。
備拓が悩むそばで、夕泉はひたすら静かだった。
少し前から様子が変わってきた備拓を、夕泉は気にも止めていないようだった。
何を話しかけられても答えるつもりもなく、むしろ、最初から答えすら持たぬように、反応が薄かった。
「殿下」
迷いの見える備拓の声が、地を這って夕泉の足元に落ちた。
「本日は長きにわたりました。お疲れも出ましょう、早々に御部屋へお戻りください」
忠言にも、夕泉が動くことはなかった。
備拓が自分を案じているわけではなく、ただ会話の糸口を探しているだけだと見抜いていた。
答える必要もない。
それが夕泉の答えだ。
それでも備拓は食い下がった。
「臣にお話しいただかずとも、せめてご自愛いただきとうございます」
どこまでが真意かも知れない忠告は、夕泉の心に響かなかった。裸の枝を冬空に突き立てる木のように、内に命を秘めながら、外側は冷たく死んでいた。
備拓は今日ほど、主人の沈黙が重いと感じたことはなかった。
雪のごとき夕泉の気配の頼りなさは、瞬く間に消えてしまうほどに虚だった。その心は何を思っているのか想像もつかなかった。
確かに、主人を知らねばならぬ。
備拓が必要としていたのは、上辺の社会的な情報ではなかった。夕泉の個人に潜む、隠された執着を望んでいた。
手本とすべきは、五亨庵の中にあった。涼景たちの関係のありようは、備拓には無縁のつながりだった。
なれ合いは必要ない。
そう割り切ってきた備拓は、今になってその姿勢を改めようと思い直した。
涼景との深い語り合いは、備拓の強みも弱みも明らかにしてくれた。玲凛の迷いなき強さにも触れた。祥雲の主人を思う気持ちに打たれもした。
自分より若い者に導かれると言うのも、なかなか良いものだと、備拓は思った。
過去の備拓ならば、年相応の権威と立場、貫禄と尊厳を求めただろう。しかし今、備拓の周囲にいる若者たちは、自分よりはるかに優れた感性と勇気を持ち合わせていた。
他者に学ぶことを恐れるものは、まず己を恐れよ。
備拓は自らに言い聞かせた。
「ひぐらしが終わったようにございます」
突如、備拓は話を変えた。
反応のない主人に構うことなく、備拓はさらに続けた。
「このように夏の風物に心を向けることなど長くありませなんだ」
備拓は、不意に膝を揃えて土についた。それは礼を重んじる彼には、珍しい仕草だった。うやうやしく下げていた腰を上げ、まるで夕泉と並んで、庭の景色を眺めるかのような眼差しを滝へと送った。近衛としての厳しさよりも、人としての悲しみが、その表情には如実に浮かんでいた。
夕泉の目が、一瞬備拓をかすめた。
本当に気づかぬのか、気づかぬふりをしているのか、備拓は庭を眺めたままだった。
「臣の故郷は、紅蘭より東にございます」
普段より角の取れた備拓の声が、ゆっくりと語り始めた。
「胸を張って申せるほど、確かな地名を持たぬ町にございます。幼い頃の記憶は、水に緩む砂のように曖昧にしか残ってはおらず、語ろうにもとりとめがございません。縁を結び、導いてくださった方のお力により、こうして馳せ参じることが叶いましたが、それより前は頼るものなき若輩であります」
何者も、備拓の昔話を遮ることはなかった。
「|齢《よわい》十五、臣は一介の軍卒……いや、それよりも下、雑務に近いところから始まった者にございます。名を成す家でもなく、誇れる血筋でもなく、肩書きで身を立てたこともございませぬ。剛健でもなければ、賢明でもない。やがては藻屑と消える身、その自覚だけは、若い頃から常に腹の底にございました」
思い出すこともなかった自らの半生が、備拓の瞼に蘇った。
「されど、臣は人に恵まれておりました。正規軍で臣を見出し、引き上げてくださった先達がおりました。口は荒くとも情に厚く、手荒いながらも背を支えてくださるような方々でございます。あの頃の臣は、義を重んじるなどと申せば聞こえは良い。実際は、融通が利かず、規範より外れぬように歩くのが精一杯なだけで、よくからかわれたものでございました」
それは、今も変わらぬ。
自重の笑みが、自然と口元を緩めた。
「そんな昔の話でございます。ある時、軍律を破った者があり、臣はその件を報告いたしました。経験の浅い臣には、それ以外の道が見えなかったのでございます。軍は律で成り立つもの。綻びを見逃せば、やがて裂け目になる。そう教えられて育った身でございますから、疑いもいたしませんでした」
「…………」
「ですが……違反の裏には、本人にしか抱えられぬ事情がございました。人の情が、いつでも律と両立するとは限らぬ。そのことを頭では知っておりましたのに、見ないふりをしていたのでしょう。結果として、その者は命を失いました」
備拓の告白を、夕泉は黙って聞いていた。眉一つ動かさず、瞬き一つに感情もなかった。
「罪、罰、律。理屈はいくらでも並びましょう。けれども、人一人の命を断つというのは……どれほどの正しさを積み上げたところで、後味が薄れるものではございません。あの時、自分はようやく思い知ったのでございます。軍卒は帝の盾。命は帝の前に差し出すもの。そう心得ておりました。恥ずかしながら、それでもなお、胸のどこかに、わずかな翳りが残ってしまった。その迷いが、戦場で刃を鈍らせました。手を誤り、傷を負い、しばらくは立つことすら叶わぬ身となりました。……情けない話でございます」
それは、備拓が三十を半ば過ぎる頃だった。次の春には将軍の地位も確実と目される矢先の出来事で会った。
「前線に立てぬ身となった臣に、手を差し伸べてくださった方がおります。殿下もご承知の英仁様にございます。恩情を賜り、それゆえに、ここに立つ身となり申した」
備拓はわずかに感慨に耽り、また、口を開いた。
「殿下。臣は高貴な出ではございませぬ。立派な志を抱いていたわけでもございませぬ。ただ、拾われ、教えられ、許され、それでもなお、失った命の重みだけは忘れられずに、今日まで参りました。道をそれぬよう、|轍《わだち》に逆らわぬ車輪のごとく、一筋に歩んできた所存です。そのような身が、殿下のお側で剣を帯びております。このことだけは、誇りではなく、覚悟として、申し上げたかったのでございます」
備拓は語り終えると、静かに微笑した。
|真《まこと》を知ろうとするのなら、まず|己《おのれ》が明かすこと。
夕泉の目元が動いた。それはわずかに備拓の視線をかすめるだけのものであったが、確かに沈黙を沈黙として捉えるまなざしだった。
「そなたは……」
夕泉は、何か言いかけて黙った。
備拓は息を飲んだ。たとえそれ以上言葉が続かなかったにせよ、夕泉が自分を呼んだということが、一つの大きな山を動かした実感につながった。特別な言葉がなくとも、沈黙を破ったそれだけで、夕泉の心に波が立ったことが明らかだった。
水音は、雪解けの音にも聞こえた。
「わたくしに、想いを傾け、心に寄り添って下さった方がいらした。たった一人だけ」
備拓は耳を疑った。夕泉の一言は、|曙光《しょこう》のように備拓の思考の地平を照らした。
「されど」
夕泉は静々と、
「どれほど思えども、やがては離れ行くもの。その方の記憶からわたくしが抜け落ちていくのを知った時、わたくしもまた、手放そうとした……」
開こうとする花弁は握り潰され、蕾のまま枯れてゆく。
色を失った花は、しんとして、寂しげに空に映えた。
それが自らの運命だと夕泉は達観していた。
「されど……」
備拓はじっと耳を傾けていた。
「伯華が、わたくしの望みをつないでくれた」
朽ちゆく花に水を注ぎ、手を添え、風を教え、日の光に当てたのは、犀星だった。
崩れ落ちる白い滝の響きが、玲親王の痛切な叫びと重なり、水に濡れた岩肌が碧玉の瞳を思い出させた。
「あの人と出会い、わたくしは気づいたのです。どれほどの隔たりも、妨げるには及ばぬと」
意図しない涙が、夕泉の目に溢れた。それは夏の乾いた風に溶け込む、一瞬の出来事だった。
「あの人を捨てるか、わたくしを捨てるか。迷うこともなく」
夕泉の声は少しずつ遠ざかり、すでに、ささやきに近かった。
心が内側に折りたたまれていくのを見せられているようで、備拓は弱々しい声を懸命に辿った。
「……その方とは?」
備拓は声を絞り出した。柔らかい場所に、踏み込んだ感触があった。夕泉ばかりか、それは誰に対しても感じたことのない体温だった。
答えを待つ長い静寂の後、夕泉は備拓へ体を向けた。
「わたくしを、新月の夜、石の間へ」
夕泉の声には初めて聞く響きがあり、それが長く秘めていた胸の奥から吐き出されたものだと告げていた。
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