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10 湯に赴けば火を蹈まん(1)

 疑惑の渦巻く都を離れよ。  五亨庵の軍師として、蓮章が進めた策は、それぞれの心の中心を見透かしているかのようだった。  犀星は、しばらく紅蘭の城壁の外に出る機会に恵まれず、好奇心が余っていた。  玲陽は、犀星とともにいられるならば、あとはなんでも構わなかった。  東雨は、自分が亀池で積み込んだ泥炭の行く末と、噂の御領地が見てみたかった。  緑権は、中心となって建設が進み、ようやく積みかけた功績らしい功績を見て欲しかった。  涼景は、陰謀渦巻く宮中で神経をすり減らす情報戦より、実践警備の方が性に合っていた。  そして玲凛は、とにかくじっとしていたくなかった。  慈圓はうなった。言葉巧みに五亨庵の面々を言いくるめ、あっさりと宮中から追い出した蓮章の手腕に、その天性の資質を見た。  文官となっていれば、左相などに大きな顔はさせまいに。  蓮章の才覚に、慈圓は未練が捨てられなかった。  緑権は五亨庵に蓄えていた資料をもとに、計画を再考し、一足先に辰巳に戻った。  数日かけて、涼景は暁隊と右近衛に留守を任せる手はずを整えた。かくして、慈圓を五亨庵に残し、明るい空気をまといながら、一行は短い旅路についた。  厳重な手続きを踏んで、犀星は久しぶりに街の外へ出た。相変わらず輿や帳車を嫌い、自ら手綱をさばいて街道を行く旅姿には、親王としての硬質さは微塵もなかった。日差しを避けるため、と称して絹垂れの傘はかぶせられたものの、頻繁に布をよけては景色を眺めていた。  すれ違う商人や旅人たちが、こちらを見て騒がしくなった。  最初はそのたびに警戒していた涼景も、行程を半ば過ぎる頃には、苦笑しただけでそれ以上の反応を示さなくなった。  先頭を行く玲陽も傘で顔と髪を隠していたが、それでもやはり、暑さを嫌がってこっそりと隙間から覗いていた。玲陽の腰には、犀遠から引き継いだ大太刀であった。その剣術の腕前は、すでに犀星と同格かそれ以上とも言われた。  東雨は目立たず玲陽の斜め後ろにいた。形ばかり直刀を吊るしていたが、本人は抜くより先に皆の陰に隠れるつもりであった。  犀星は玲陽の真後ろに半馬身あけて馬を歩かせた。透き通る緑と、抜ける青空に白い雲、そして、時々振り返る玲陽の横顔を一望して微笑した。  涼景は半歩ずれて犀星のあとに続いた。刀を抜く動作に淀みができぬよう計算された位置だった。  玲凛は自由に薫風を駆り、前後左右に駆け回りながら、周囲の警戒と称して久しぶりの広野を楽しんでいた。何度目か、軽快な足音が東雨のすぐ脇を駆け抜けて行った。 「凛って、本当に落ち着きがない」  優しい笑顔で、東雨がため息を漏らした。玲陽も、ただにこりと笑っただけだった。  本来ならば百名を超える警備となるところを、わずか四騎を伴っただけの犀星は、終始、満足そうだった。  言いなりだな、と涼景は諦めた。一人一人の肩に掛かる責任は途方も無く重たいが、青く透明な笑みに勝る報酬はなかった。  結局、自分たちは揃って犀星に弱いのだ。  そう思わずにはいられなかった。  少数精鋭を極めたことには、犀星の個人的な要望の他にも、立派な言い訳があった。大人数で発展途上の宿場町に押し掛けては、周囲に負担をかけてしまう、という最もらしいものだった。  さらにその裏には、予算という因縁のような事情も深かった。宮中を出た後の警備にかかる諸費用は全て、警護対象、すなわち犀星の個人資産からの支出となった。  夕泉のように、母方の財があれば問題ないことも、犀星には荷が重かった。本来であれば玲家が支出すべきところであるが、犀星は玲芳の援助を断っていた。 「玲家はお金持ちなんだから、頼ればいいのに」 「血の交わりを断ちたいのだと思います」  何気なくつぶやいた東雨に、玲陽がそう、説明したことがあった。  皇家と玲家が結ばれることは、あってはならない。  それは二つの家の古くからの取り決めであった。  蕭白の独断により、玲心の悲劇が犀星を生んだ。これ以上の連なりを、犀星は望まなかった。それは、己の出自を否定するかのように|頑《かたくな》で、玲陽も何も言えなかった。  親王とその近しい者たち水入らずの様子は、どこにでもいる旅人と変わらなかった。  前を行く玲陽と東雨の背中をそれぞれ見つめていた犀星と涼景は、不意に、視線が合った。どちらからともなく、頬が緩んだ。  長い時が過ぎたように思えたが、あの歌仙への旅から、まだ一年経っていなかった。期せずして、二人は同じ思い出をたぐっていた。  柔らかい犀星の横顔を、涼景は、自らも息をついて、隣で眺めた。  どちらの身にも、あまりに多くのことがありすぎた月日だった。計り知れない苦しみと悲しみ、傷を負って、それでもこうして、笑えることが奇跡のようだった。 「星」  涼景はわずかに馬を寄せて、犀星を覗いた。 「少しは、落ち着いたか」  優しい真剣さが涼景の目に宿っていた。  穏やかな表情のまま、犀星は頷いた。それから、玲陽の背中越しに道の先を見た。すでにぼんやりと、辰巳の街並みが見え始めていた。 「おまえには、本当に苦労をかける」  犀星のしおらしい言葉を、涼景は笑い飛ばした。 「今更、だ。おかげでまだ体が痛いぞ」 「あれでも、加減した」  犀星の声は静かだった。  奏鳴宮での一件は、決して流せるものではなかった。それでも、先へ進むことを選んだ。幸いなことに、犀星は孤独ではなかった。 「そういえば、あの時の礼がまだだった」  涼景はちらりと視線を揺らし、 「湯治場で、背中でも流してもらおうか」 「いいだろう」  犀星は小さく笑った。 「ただし、陽の許可が降りたら、だ」 「そんなことにも許可が必要とは、不自由なことだな」  涼景は笑い飛ばし、犀星はわずかに目を伏せた。 「親王とは、本当に不自由だ」  含みのある言葉に、涼景は息を吐いた。|鎧《あぶみ》を踏んで身を乗り出すと、犀星の青い瞳がいつもより潤んで見えた。 「俺にとって大切なのは、この先に何をするかと言うことだ」  犀星は声を抑えて、涼景にだけ囁くように言った。 「過去があるから、今がある。過去をないがしろにして良いものではないし、そうするつもりもない。ただ、今は……」 「もう、いいさ」  涼景は遮った。 「無理をするな、星。おまえにこんなところで泣かれては、俺の立場がない」 「……泣かない」  押し殺した犀星の声は、確かに震えていた。涼景は肩をすくめた。  夕泉のことばかりではなかった。  泣き言は言わずとも、犀星は短期間に身近な者を多く失っていた。  涼景は、一瞬、阻害感に似た寂しさを覚えた。  今、目の前にいる玲陽も玲凛も、そして東雨も、犀星との間に血のつながりがあった。  不意に、たまらなく妹が恋しく、そしてそんな自分を否定する苛立ちが心をざわめかせた。  気の迷いだ。  指先に感じる手綱を弄りながら、涼景はそっと目を閉じた。  敏感に感じて、犀星の目が涼景を探った。その顔に、涼景のためだけに、優しい笑みが浮かんだ。 「おまえは、いつも全力だな」  驚いて、涼景は目を開いた。 「おまえも、蓮章も、見ているこちらが痛くなる」 「……おまえに言われるようでは、俺たちもまだまだ未熟だな」 「張り合うことじゃない」 「いや、余計な気遣いをさせてしまうのは、望むところではない」  涼景は首を振った。 「星、俺たちのことはいい。おまえは、自分のことだけ、見ていろ」 「そうはいかない」  犀星は、拗ねた口調で目をそらした。 「いくら俺でも……」 「おまえだからこそ、見過ごせないのだろう?」  はっとして、犀星は口を閉じた。涼景は寂しげに、 「おまえは元より、そういう奴だ」  もう、何も言うものか、と犀星は口を結んだ。  その脇を、再び玲凛が逆走して行った。  交わる馬蹄の音は、自分たちを閉じ込める扉を蹴破るほどに力強かった。  犀星は熱砂に歪む景色を眺めた。  鞍から伝わる馬の体温より、日差しは暑く、雲は眩く白かった。  玲陽と東雨の会話が断片的に聞こえ、笑い声が重なって響き合った。  久しぶりに訪れた、解放された時間。  親しい者に囲まれ、窮屈な政治の世界を離れて過ごす平和のはずだった。  だというのに、嬉しさを感じる心が、曇っていた。いつから、これほど鈍くなったのか、犀星にはわからなかった。  目に映る景色はあまりに色鮮やかだというのに、手を伸ばす気にはなれなかった。 「若様!」  東雨が変わらぬ笑顔で犀星を振り返った。 「もうすぐ、ですよ」  犀星は一瞬遅れてぎこちなく笑い、頷いた。東雨の笑みがわずかに薄れた気がして、犀星は傘の絹を下ろした。玲陽が不安そうに二人を見比べた。その一連の様子を、涼景は黙って見守っていた。  犀星は、先だけを見つめた。  紅蘭の南東に発展した宿場町は、歌仙親王の直轄地として新しい時代を迎えた。安易な親王の即断により定められた辰巳の名は、玲陽と東雨の失意をよそに、あっさりと人々に受け入れられた。 「なんだか、わくわくします」  東雨は、資料として読んだ木簡の記述を思い出した。 「人口はもう、三百に届きそうだって、謀児様が報告なさってました。旅の人たちが多い時は、四百を超える日もあるとか」 「宿はうまく増えているようですけど、競争が激しくならないよう、治安にも力を入れなければなりませんね」  玲陽は、無意識に鞘を撫でた。 「治安、か……」  東雨は涼景を見た。涼景は頷いた。 「そちらの検証と報告を、蓮から言い付かっている」 「さすが蓮章様、抜かりがない」  東雨は皮肉めいた笑みを見せた。 「謀児様の話では、花街の自警団の経験がある人を雇ったって」 「洲のことだな。あいつなら、星にも懐いているし、腕も確かで顔も広い」 「涼景より、役に立ちそうだな」  からかうように、東雨は言った。涼景はにやりとして、 「ああ。俺より気が荒いがな」  東雨の笑みが引きつった。 「大丈夫です、きっと」  玲陽が優しく微笑みかけた。  東雨は先を見た。  霞んでいた辰巳の町が、もう、すぐそこに迫っていた。  質素な二本の柱が立っただけの町の入り口に、緑権に指示された男が待っていた。 「馬は水源から離しますので、ここで預けて下さい」  男の後ろには、選び抜かれた馬の使い手が並んでいた。 「それでは、私はちょっと、町の周りを見回ってきます」  犀星たちが馬を預けるのを見届けて、玲凛は馬上から言った。 「涼景様も星兄様もいるから、大丈夫だと思いますけど、陽兄様に何かあったら、ただじゃおきませんから」 「わかっている」  涼景は請け合った。颯爽と駆けていく玲凛の後ろ姿は、夏風のように自由だった。  東雨は興味深げに宿場町を見回した。町と言うからには、塀で囲まれ、区画整備された大通りと店の並び、宿場らしい馬のいななく活気ある場所を想像していた。  だが、実際には地面はぬかるみ、ところどころには穴が開き、水が溜まり、建物も間隔が広く空いていて、その隙間に二軒は建てられるのではないかと思われた。 「わざと、広く道を取っているんです」  東雨の目線に気づいて、玲陽は言った。 「花街と同じです。花街も、火災時の延焼を抑えるために、軒の間を広く開けて、木を植え、水路を整備したでしょう? この町はまだ建物の並ぶ初期段階ですから、花街よりも計画的に整えやすいと言えます」  半分納得し、半分不満そうに、東雨は少しだけ首を傾けた。 「でも、少し土地が勿体無い気がします。なんだか、殺風景で……」 「甘いですね、東雨!」  突然、どこからともなく、堂々とした緑権が姿を現した。  犀星たちが到着したとの知らせを受けて、待ちかねた顔で仲間たちを見回した。 「殺風景に見える、など、水を司る五亨庵の近侍とは思われぬ言葉です」  面食らった顔で、東雨は緑権を振り返った。五亨庵にいるときとは別人の様に、緑権は堂々と顔を上げ、手を広げてあちらこちらを指し示しながら、 「この路地には、これから、下水を通すんです」 「下水、ですか?」  東雨は、不覚にもその気迫にたじろいだ。 「いかにも! 水は上と下の二筋を分け、等しく管理せねばなりません。町とは人の生活の場所、家を並べれば出来るものではない。そのそばには常に水があり、水の道に沿って、人は町を作るのです」  それは、俺が言ったやつだ。  東雨たちの後ろで、犀星は無表情を決め込んでいた。緑権はさらに弁舌に力が入った。 「水の流れを読み、風の道を測り、火の走り方を封じて、はじめて生き残る町になるのですよ」

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