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10 湯に赴けば火を蹈まん(2)
「はぁ……理想はわかりましたけど、具体的には何をどうしたんです?」
東雨が、わかるように話してください、と目で訴えた。勢いに乗った緑権はさらに動き回って指差しながら、
「何度も言いますが、まず水です。上水と下水は、決して交わらぬように注意を払わねばなりません。飲み水は匂いのない地下水脈に沿って井戸を掘りました。沈殿させずとも使える素晴らしい清水です。井戸は町の高い方、つまり、紅蘭に近い方から、順に水脈に沿って並んでいます。井戸一つに、区画が一つ。井戸仲間が一つの組織となるのです」
「あれも、おまえの入れ知恵か?」
涼景が、犀星に耳打ちした。犀星は黙って頷いた。
遠慮するそぶりもなく、緑権はさらに、足元の地面に掘られた溝を示した。
「そして、これが下水です。ただの溝じゃないですよ。竹と粘土で補強した、いわば、亀池と同じ作り方をした水路です。ここはもともと、北から南へ緩やかに土地が下っていますから、その勾配に沿って両脇に溝を通します」
東雨は、信じられないほどに緑権の説明が的確なことに驚き、玲陽を見た。玲陽は何も言わず、わずかに苦く笑っていた。
緑権は一行の先頭に立って案内して歩きながら、
「下水は、上水よりも使い道が多いんです。雨も汚れも、すべて町の外へ流すことができます。そればかりか、途中で溜池を使い、うまく外苑へ流してやることで、下流域の畑の肥やしにもなるのです!」
すでに知れ渡っている農村の常識も、緑権が語り始めると、まるで天下を揺るがす新技術のように新鮮だった。
「糞尿は捨てるものではない。集め、寝かせ、畑へ返す。町と農地は切れない仲。使えるものは何でも使う、倹約精神こそ、町を支える根幹です。まさに、伯華様の御領地にふさわしい!」
高らかな緑権の結論は、犀星をたたえたのか馬鹿にしたのかわからなかった。
東雨は、そろそろ緑権のうんちくに疲れたように、肩をすくめた。
「確かに、水が大事って話は、俺も子どもの頃から散々聞かせれてきましたけど……」
「まだまだ、あります」
東雨の願いもむなしく、緑権の勢いは止まる気配がなかった。
「火についても同じです。建物の間を広く取るのは、贅沢ではない。火の道を断つためです。いずれは、燃えにくい常緑の木を植えようかと。木蓮などは香りもあって良いです」
東雨は、あるはずのない香りが鼻の奥に漂う気がしてきた。
「あと、道の交差ごとに空地があるでしょう? 井戸から引いた水溜めもちゃんと用意しています。屋根は少しずつ茅ぶきから瓦に変えるように進めているところです。壁ももちろん土塗りにしています。公共厨房を町中に何箇所か作り、そこで皆で見張りながら火を使います。燃料の節約にも、防火対策にもなる妙案でしょう?」
机上の空論、とも思われていた理想的な計画を、緑権は一切の妥協をせずに奮闘していた。緑権に振り回され、酷使されたであろう作匠たちの苦労に、犀星と玲陽も責任を感じた。
「この短期間に、素晴らしい成果ですね」
玲陽h、素直に認めて微笑んだ。緑権は嬉しさで頬を赤らめながら、
「町は、これからもっと変わっていきますよ。百年先に、火に呑まれず、疫に倒れず、水に困らぬ形を、作って見せます!」
緑権の意気はどこまでも高く、犀星たちの罪悪感はそれ故に深かった。
犀星たち四人が、緑権に続いて歩く姿を、遠巻き町の人々が見守っていた。
緑権はすでに辰巳で名も顔も性格も知られていたが、犀星がこの場所を訪ねるのは初めてだった。人々は犀星を探しつつ、残念ながら、さらに目立つ玲陽についてざわめきあった。
犀星が歩みを速めて、玲陽と東雨の間に割り込んだ。自然と後ろに下がった東雨は、呆れた顔で涼景と目配せした。
緑権の明るい声が、青空によく響いた。それを半分聞き流しながら、犀星は道の脇からこちらを見る人々に顔を向けた。目が合えば、嬉しい驚きに歓声が上がった。
歌仙親王は、辰巳の象徴であった。
今まで、どこにもその権勢を伸ばさなかった犀星が、初めて都の外にその名を掲げた。最初の直轄地として選ばれたことは、集ってきた人の多さからも、伺い知れた。
特に、町の中心となっていた大店の主人は熱心だった。農地の真ん中に宿を出して数年、ようやく、その努力が認められた気がした。胡断の襲撃では玲陽たちに命を救われたこともあり、是非ともにと協力を願い出た。
犀星が賄賂になびかず、民に熱心で生真面目だという話は、昔から有名だった。その信頼を得るためには、全面的に協力する必要があった。
主人は、もとからあった建物を改装し、湯治場の土台として差し出した。
湯治場に限らず、用水路や水運整備の資金も、すべてこの主人が手を貸してくれた。いつなん時も金銭難にあえいできた五亨庵にとって、これはかつてない僥倖だった。
こうして、予定よりも早く計画は進んだ。
「こちらです」
目を輝かせて、緑権は両手を掲げた。
犀星たちは足を止めた。
中庭と裏庭を備えた辰巳荘は、町の中心に堂々と門を構えていた。柱に、年輪の美しい木板が打ち付けられ、辰巳荘の名が溝に流された深い黒で示されていた。
東雨はわずかに首をすくめた。
「本当に、そのままの名前にしちゃったんですね」
「覚えやすいでしょう?」
自信に溢れた笑顔で、緑権は頷いた。
素朴な丸木の門をくぐると、広々とした前庭が広がっていた。馬を止めるための簡易的な杭が並び、数名の職人が声を掛け合いながら柱を立てていた。
東雨の目が輝いた。馬留のそばには池があり、すぐに水を使えるよう、桶や藁が整頓されて専用の柵にかけられていた。その配置は、東雨が長年かけて五亨庵の馬屋に作った置き方にそっくりだった。
「謀児様、憶えていてくれたんだ……」
急に自分が認められた気がして、東雨は嬉しかった。犀星は、あえて何も言わなかった。緑権が五亨庵の設備を真似たのは、ただ純粋に考えるのが面倒だっただけだと、犀星にはわかっていた。緑権は誰よりも、諦めることに抵抗のない潔い人物であった。
前庭の先に、幅のある院作りの本館が両翼を広げていた。両開きの門は、夜間には宿泊者を防ぐために閉ざされることになっていた。
犀星は宿泊施設にすることは、かたくなに避けた。
もともと、この町は宿で成り立っている。湯屋だけならば共存できるが、宿屋を兼ねては旧店の経営を脅かしかねなかった。歌仙親王の経営する湯治場ともなれば、その影響がどれほどか読めなかった。人々の平穏のため、犀星の配慮は徹底していた。
「ここが、|湯籍所《とうせきじょ》です」
緑権は、入り口を入ってすぐの受付台を指した。
「ここで、入湯料をいただく前払いです。提携宿を使う客は、半額で利用できます」
「安いのはいいですけど、採算は取れるんですか?」
東雨は、内部の高い天井を見上げた。
「儲けろ、とは言いませんけど、せめて運営していくくらいは稼げないと」
「それだから、東雨は甘いというんです」
緑権はやれやれと首を振った。
「いいですか、お金よりも、大切なものが……」
「わかりますけど、お金も大事です」
東雨は、二十八文の日々を思い出していた。
「泥炭燃料の方は、すぐに採算は取れませんから、こちらでどうにかしてもらわないと……」
「さぁ、次へ参りましょう!」
話題を振り切って、早足に緑権は奥へ進んだ。犀星と玲陽は顔を見合わせ、何かを言いかけてやめた。
湯籍所の先の部屋は二手に分かれて、男女で区分されていた。その片方へと、緑権は案内した。壁の二面に木架が備え付けられていて、そこには竹で編んだひと抱えの籠が伏せて並べられていた。
「こちらは|衣舎《いしゃ》衣舎です。ここで湯衣に着替え、荷物を預けることになっています。貴重品がある場合は、係りの者がお預かりして、こちらの部屋へ」
緑権は、男女の衣舎を仕切る壁の間の戸を開いた。中の小部屋にも棚が据え付けられ、重たそうな箱が積み上げられていた。
「ここの警備は?」
涼景が、刀を撫でながら、
「男の方は人を立たせることもできるだろうが、女側はどうする?」
「ご心配なく」
緑権は涼景を振り返った。
「湯籍所から女性の衣所に続く通路には、特に信頼の置ける見張りを置きます。相互監視できるよう、湯籍所内に世話役も複数配置します。また、女性の衣舎には地元の女性を雇用して、見張りにあたってもらうことになっています」
「その者たちに、護身術の指南をつけるのも有効だな」
涼景は、強すぎる少女のことを考えながら、
「女だからと言って、身を守るのに遠慮することはない」
「それはいいですね。女性相手ですから、指南役は仲咲様にお願いしてみます」
貸し出される湯衣の肌触りや、籠の編み目の繊細さを楽しんでいた玲陽は、玲凛を指名されて、顔を上げた。何か言いたげだったが、ぐっとこらえた。
緑権は、止めどなく施設の説明を続けながら、犀星達を連れ回した。湯殿の石組みに苦労したこと、湯気抜きの高窓の構造と、建物全体の風の流れ、|休湯室《きゅうとうしつ》の柔らかな毛氈が特注であること、|湯膳所《とうぜんじょ》で出される養生食の献立、|医監房《いかんぼう》に常駐する医者による煎じ薬、薪の一本すら無駄にしない湯沸かし釜とそこからの湯の導線。
町の周囲をふたまわりした玲凛が辰巳荘に入ったのは、緑権の熱い口上がようやく一区切りついた後だった。
頭が痛くなるほど大量の情報を聞かされずに済んだ玲凛が、東雨は羨ましかった。
延々と続いた緑権の説明に、一同はすっかり疲れ果てていた。玲凛だけは落ち着きなく、建物の柱や天井を見上げて、まるで猫のように匂いを嗅いでいた。
湯殿の方から、段取りを指示する緑権の声が聞こえ、中庭のどこかで蝉が高く鳴き交わしていた。
紅蘭の夏は歌仙より短い。一瞬に燃え上がって引いていく盛夏は、目を離せば二度と見つけられない木々の中の鳥のようだった。
午後の回廊の陽だまりにずらりと座れば、もう、そこには穏やかな世界が広がっていた。犀星の親王という立場も、涼景の近衛という距離感も、玲陽に刻まれたさだめも、東雨が背負った痛みも、玲凛が掴もうとしている棘のある未来もすべて消えて、皆の影が少しずつ重なり合う虹の色彩に似ていた。
辰巳荘探索の余韻が落ち着くと、玲陽はそっと、横を見た。自然と手を重ねていた犀星の横顔を、食い入るように見つめ続けた。土から沸き立つ熱気を映しても、犀星の目は尚も青く冷たかった。
軽口を叩いて甘噛みするような東雨と涼景の声がしたが、玲陽の耳には届いてはいなかった。
ひたすらに、蝉の声という静寂。
知らず知らずのうちに、握りしめる指に力がこもった。犀星が気付いて、不思議そうに玲陽を見た。その距離が胸が乱れるほど近く、玲陽は慌てて前を向いた。
辰巳荘の中庭は広く、今はまだ、空き地だった。緑権の予定では、じきに土を起こして畑を作り、薬草を育てることになっていた。
広く平らな場所があれば、誰からともなく、自然と刀を振るうのがこの顔触れの習いになっていた。それは五亨庵でも、都の邸宅でも、こうして離れた湯治の場でも変わる事はなかった。
犀遠から譲り受けた濃紺の刀を一撫でして、玲陽は、白日のもとに引き抜いた。
それは、まさに陽光と呼ぶにふさわしい輝きだった。刃物を怖がる東雨でさえ、見とれるほどに美しかった。
犀星のあれこれを想像して胸が騒がしい玲陽は、それを忘れるように、柄を強く握って東雨を振り返った。東雨は思わず、自分の腰の刀を庇うように斜めに後じさった。
「東雨どの、お手合わせを」
「そんな……それは、いろいろ、無理です……」
玲陽の柔らかく心を包み込む笑顔が、東雨を無力にさせた。
そんな笑顔で誘われたら、断りようがないではないか。
東雨は、ちらりと犀星と玲凛に目を向けた。救いを求めるようでもあった。
ふと、後ろから涼景が顔を近づけ、
「なんだ、東雨、陽が怖いのか?」
「え?」
「それとも、断ることなどできないほどに、惹かれるか?」
「! 涼景!」
瞬く間に顔を火照らせ、東雨は涼景を本気で睨みつけた。だが、東雨の剣幕など、涼景にとっては涼風よりぬるかった。
「どうして俺の周りには、こんな扱いにくい大人ばかり……」
ぶつぶつの不満を噛み締めながら、東雨は庭へ降りた。
大人気なく打ち込んでくる玲凛や、明らかにからかうように弄ぶ涼景を相手にするより、玲陽ははるかにましだった。
剣術に疎い東雨にさえ、三者の力量が質の違うものだということは、直感的にわかっていた。
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