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10 湯に赴けば火を蹈まん(3)

 玲陽は、自分を威圧するようなことはしない。あくまでも、導くように手加減し、東雨の呼吸に合わせてくれた。無駄に怖がらせることも、恥をかかせることもないという安心感があった。  玲陽の思いは、純粋に、東雨と二人の時間が欲しいだけの、対等な甘えだった。東雨とて、玲陽が相手ならば恐ろしくはなかった。ただ、周囲は自分よりもはるかに力量のある者ばかりである。その彼らに恥ずかしい姿は見られたくなかった。  複雑な思いを抱えつつ、東雨は剣を構えた。  回廊に座る犀星の横に、守るように涼景が立ち、こちらを見ている気配がした。玲凛は柱に興味を示しながらも、ちゃんと東雨のやられっぷりを見届けようとしているのがわかった。  犀星の気配だけが、なぜか遠く感じられて、東雨は何か勝手が違う気がした。 「ゆっくりでいいですから」  玲陽はすべてを見通して、東雨を促した。  今こそ、東雨の微々たる成長に気付いてもらう時だった。湖馬の熱心な指導と、真面目な東雨の気性のおかげで、近衛が儀式で行う刀の扱いは理解していた。寸分たがわず、理想的な呼吸やしぐさを、よく覚え、思い出すことができた。  だが、頭でわかることと体が動くことは別だった。相変わらず、その動きはぎこちなかった。  東雨は構えをとって、動きを止めた。玲陽は一度刀を下ろして、東雨の腰に手を添えてそっと直した。丁寧に動きを確かめ、繰り返し確認していく。玲陽が求めているのは東雨と心が寄り添う時間であり、激しい打ち合いではなかった。次第と緊張が緩み、笑い声を立てながらやりとりする二人を、犀星は無表情の笑顔という、独特の眼差しで見つめていた。  大切な人が皆、そばにいる。  このつかの間のあまりにも完璧な時間が、犀星には恐ろしく思われた。  その胸のざわめきが伝わったのか、玲凛は建物の確認作業を終えて、真顔で犀星の隣に立った。玲凛が犀星のそばに来たことを確かめ、涼景が安心したように庭に降りた。ぎくしゃくと動きがまとまらない東雨に、涼景は自ら並んで型を見せた。短いその剣舞に、東雨は呆然として見惚れた。湖馬が見せてくれる模範演技とは、まるで違う鋭い動きだった。  玲陽と、東雨と、涼景と。  のんびりと庭の隅に溜まる光のような光景を、犀星は視界の中央で大切に見つめていた。  いつまでもこうしていたい、そんな気持ちにさせてくれる眺めだった。 「星兄様」  呼ぶ声にゆっくり振り返ると、黒い目が、昔の玲陽のように自分を映していた。  犀星の脳裏に、数多の断片的な記憶が鋭い針のように飛び回り、頭の後ろ側に無作為に突き刺さった。犀星のそばに、玲凛は近く座った。勢いよく燃える火のように、存在が熱かった。犀星は目線を揺らせた。玲陽たちに惹きつけられる自分と、隣に迫る玲凛に向き合うべきだと感じる自分が、犀星の胸に迷いを降らせ、それは風に大きく乱れた。 「星兄様に、お聞きしたいことがあります」  二人きりになる時を狙っていたのだろう、玲凛は抑えた声で言った。  犀星は覚悟を決め、玲凛に体を向けて、黙ってわずかに首を傾げた。その仕草は玲凛の記憶する玲陽の仕草と重なった。  惹かれ合うと、こうも似るものだろうか。  ふと、そんなこと思って、玲凛は息をついた。 「星兄様は」  玲凛は声を低めて、玲陽たちには聞こえないように、注意深く問いかけた。 「星兄様は、五亨庵の桜について、何かご存知なのではありませんか?」  あまりにまっすぐな問いに、犀星の目が瞬いた。玲凛という天性の勘を持つ少女に、嘘やいいのがれなど通用しないことは明らかだった。真実を語りたくなければ、ただ沈黙するのが犀星の手段だったが、玲凛はその沈黙すら、許す性格ではなかった。 「小径の山桜、か」  犀星は、玲凛にだけ聞こえる声で、 「もう随分古く、寿命は過ぎている。そろそろ、伐採せねば、倒木で事故になりかねないと、玄草に言われていたところだ」 「伐採? でも、星兄様には、切る気はないのでしょう? いつも話しかけるほどに気に入っていたと聞きました」  玲陽の声に合わせて、東雨の威勢のいい掛け声が響いた。そこに、おおらかな涼景の笑い声が続いた。玲凛は周囲の喧騒など、一切聞いてはいなかった。 「星兄様は、あの木を、切りたいですか?」 「……寂しい気がする。だが、伐採は必要だと思う」 「古くて危険、だから?」 「いや、古くて、知りすぎているからだ」  意味を含ませた犀星の返答に、玲凛はある種に確信を得た。 「星兄様は、祇桜をご存知だったんですね」  犀星に、驚いた様子はなかった。玲凛ならば、真実にたどり着くのは時間の問題だった。 「……声」  犀星は、一言だけ、答えた。  親しみを感じていた山桜の正体を知ったのは、ごく最近のことであった。耳鳴りとともに告げてくる、死者の声は、知りえないことを犀星に伝えてきた。望まないことさえ、容赦なく聞かされ、逃れることはできなかった。 「決して、悪いものとは思わない。あの山桜は、ただ静かにいにしえの景色を話してくれた。俺にとって、寂しさを埋めてくれる存在に違いなかった」 「でも、もう、やめましょう。あの木、いずれ、私が切ります」  玲凛が、厳かな口調で宣言した。 「星兄様は手出ししないでください。良くないことが起こるかもしれませんから」  犀星は頷いた。 「そういえば……」  玲凛は、先日、東雨が言っていたことを思い出した。 「星兄様が私を気にしていた、って東雨から聞きました。私、また何かやりました? いろいろ心当たりがありすぎて」 「……ああ、そんなこともあったな。俺が凛を探していたのは、そういうのではなく……」  犀星は膝に重ねていた手を握りしめた。 「代償」  玲凛の目が鋭くなった。 「……もしかして、石巡りの?」  小さく、犀星は頷いた。 「気のせいかと思ったが、おそらく、これがそうなのだと思う」 「何が起きたんです?」 「……忘れた」  犀星が真面目なことは、玲凛にもわかっていた。だが、返す言葉がなかった。妙な沈黙に、犀星は気づいて、首を振った。 「だから、忘れたんだ」 「……よく、わからないんですけど?」 「俺も、よくわからない」  二人は再び、見つめ合った。 「若様、見ててくれました? 今の!」  突然、東雨が犀星の膝に飛びついてきた。反射的に犀星は頷いたが、事態が飲み込めていなかった。 「俺、転ばないで一演武、できましたよね!」  玲陽と涼景が、ほっとした顔でこちらへ戻ってきた。 「俺の教え方がいいからだな」 「東雨殿も頑張りました」 「陽様が一緒だったからです」  別の空気が混ざり合って、犀星と玲凛は自分たちの話題を棚に上げた。 「大丈夫です。私がどうにかしますから」  玲凛は、犀星ににこりと笑いかけた。  幼い日の玲陽の面影に、犀星の心臓が音を立てて縮んだ。思わず握りしめた手を、玲陽は不思議そうに見た。  飛び跳ねるように、玲凛は庭に降りた。すたすたと中央まで行くと、くるりと振り返った。 「涼景様、次は私。お願いします」  眩しい青空を背負って、玲凛は涼景に体を向けて、まっすぐに立った。そこにはいつもの鋭さとは違う、また、別の覚悟と、真剣な想いが溢れていた。  涼景は息を吐き切った。その間が、続きを知っているかのようだった。  ざっと土が鳴った。涼景は庭に降りると、ゆっくりと玲凛に歩み寄った。  距離を取り、庭の中ほどで向かい合う。  犀星と玲陽は回廊に並んで座ったまま、ふたりの様子を景色とひとつにして眺めていた。  玲陽が止めないことを確かめると、玲凛は左手を鞘に添えた。  正午のまっすぐな日の光が、高くから降り注いだ。影が短く、色濃く、土に落ちた。  涼景の気配が、一段、殺気を帯びた。  承諾の意。  玲凛の目元が喜悦の色を発し、わずかに右足を引いた。  間合いをはかる緊張が、一瞬で二人の間の空気を固く凍らせ、踏み込みがたい見えない壁となって、二人を隔てた。  かたや、気力体力の全盛期にある、暁将軍。かたや、不利を有利に昇華させた戦場の天才。斬るか斬られるか、命を賭けても悔いなき一戦が、二人を思う友人たちに見守られて、静かに幕を開けた。  風はすべてを心得ているように、周囲に渦をまいた。砂埃が立ち、他者が立ち入ることのできない境界を描いた。  涼景は一歩も動かず、ただそこに立つだけで、玲凛の気迫ごと、場を飲み込んだ。経験によって培われた揺るぎない自信と隙のない眼差しが、無言の圧力で玲凛を押さえつけていた。  玲凛はその本気の気配と実力のほどを、天性の直感で感じ取った。正面突破の通じない相手、だが、からめとろうにも、側面にすら弱さはなかった。  まさに、難攻不落ってこのことね。  玲凛は久しぶりに全身が興奮に震え、生きている実感が強く脈打つのを感じた。空気が硬質になり、涼景の呼吸の流れさえ、肌で感じた。  抱き合っているみたい。  玲凛は、油断のない心の底で、そんなことを思った。  それは、涼景も同じだった。  自分よりはるかに体の小さな、そして、実戦不足の少女の眼差しが、狂おしいほどに心を貫いた。胸の底の、戦いとは無縁の場所で、この場にはあまりに似つかわしくない蜜壺の中に沈むような錯覚があった。  欲しい。  言葉にすれば一言で消えた。  ここではない別の世界で出会ったならば、まったく違う関係で結ばれた確信があった。それは涼景だけの思い込みか、それとも、玲凛も共有する幻覚か、確かめることは永遠にない。  今だけは。  涼景の指が、鍔を弾いた。その時、すでに玲凛は今までの場所にはいなかった。小柄な体躯と大太刀の重さを利用し、独楽のように体を回転させて、涼景の懐に飛び込んだ。  真正面だった。  遠心力による一撃を、涼景は引き抜きざまの太刀筋で受け流した。ぐぐっと、重たい力が上半身にかかり、涼景は後ろに引いた足を踏ん張った。受けられることを想定していた玲凛は、涼景の力をばねにして飛び上がると、斜め背後に着地した勢いで姿勢を低め、一気に死角へ横ざまに刀を振った。片足を軸に身を返して、涼景は下がった。が、そこに思わぬ方向から、脇腹に衝撃がきた。玲凛が左手の鞘で突いた一撃だった。  一瞬、目の前が暗くなった涼景が顔を上げたとき、視界から玲凛が消えていた。ゾッと背が冷え、振り向いた。植木の幹を駆け上がり、高く跳ねて両手で構えた大太刀と共に、玲凛が涼景の頭上に落ちてきた。涼景は刀身を掲げた。受けるのではなく、手首をひねって刀身に陽光を反射させ、白い閃光が玲凛の目元を見事に照らした。が、すでに彼女は目を閉じていた。  凄まじい金属音が響き渡り、涼景の体が土の上を滑った。全体重を乗せた玲凛の一撃を受けきって、太刀から胸まで、しびれが走った。  危ない。  涼景は震えた。  玲凛の動きは確実に相手を翻弄し、すべてをねじ伏せる。意表を突き、訓練された者ほど冷静さを失う。だが、捨て身である。  その型を崩した動きは、一見自由奔放に見えて、根幹には、同じ師に沿うた戦いの軸が通っていた。  涼景は、短刀を抜いた。  もはや、稽古ではなかった。  素早い動きで突きと薙ぎ、体術を交えて肉迫する玲凛を、涼景は懐深く受け止め、確実に跳ねのけた。大太刀と小太刀は交差したかと思うとすぐに翻り、縦横無尽に玲凛を追い詰めた。鬼気迫る眼差しが互いを刺し合い、同時に、その奥には興奮と喜悦の炎が燃え上がった。  玲凛の太刀が涼景の頬をかすめた。一切動じることなく、涼景は次の態勢へと体重を移動させ、わざと流れを乱した。間合いがずれて、玲凛が遅れた。その背中に、短刀の柄が打ち込まれ、乱れた靴音がたたらを踏む。そのまま、玲凛は土を蹴り上げた。攻勢に入った涼景がひるみ、目を細めた瞬間に、喉元に大太刀の一打ちが走る。涼景はのけ反って体を回すと、太刀を捨て、両腕で玲凛の首を背後から締め上げた。玲凛は体を丸めて弾みをつけると、涼景の腹を両足で蹴りとばした。玲凛の体が、涼景の緩んだ腕をすり抜けた。反射的に追って伸ばした涼景の腕が、引き遅れた玲凛の手首を掴んだ。勢いで引き寄せられ、玲凛の体が涼景の胸に抱きしめられた。  呼吸と匂いと鼓動と熱が、ひとつに溶けた。  それは、ほんのわずか、夏風が木の枝をゆっくりと二回、揺する間の間隙だった。  黙って見守っていた玲陽が、ぴくりと、顔をゆがめた。息を止めていた東雨の喉が、こくん、と動いた。 「そこまで!」  犀星の透き通る声が響き、夏の日差しが庭に戻ってきた。蝉が再び鳴き始め、土は静かになり、緑権が茶を乗せた盆を捧げて回廊の角から姿を見せた。  辰巳荘の看板の文字が、熱に浮かされたように揺れていた。

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