32 / 32

11 井中(1)

 雨音は次第に大きく、深夜まで降り続いた。  自分の屋敷の書斎で、木簡に書きものをしていた慈圓は、暗い欄間の向こうに視線を投げた。大粒の雨が空気を揺らし、油灯の火がせわしなく振れた。  夜深く、雨音がひたすら響き、延々と同じ瞬間が繰り返されている錯覚があった。そんな中、雨に混じって、物音が聞こえた気がした。  日頃から気難しい顔をさらにしかめて、慈圓は入り口を振り返った。  使用人たちは、とうに休ませていた。  慈圓は油灯の皿を持つと、書斎を出て、暗い回廊に向けた。裏口の方から、明らかに雨とは違う音が聞こえた。慈圓の皺の深い目元が、厳しく歪められた。  慈圓はそのまま、灯りを掲げ、すり足で回廊を奥に向かった。裏庭に抜ける土間があり、その先の戸にはいつも内側から閂が降ろされていた。  進むにつれ、雨音がその質を変えた。戸が半分開いたままで、直接、土を穿つ低い音が、足元を小刻みに揺らした。  慈圓は立ち止まり、前方に目を凝らした。  戸の脇の壁ぎわに、人影があった。こちらに向いていたそれが、わずかに動いた。慈圓は高く、油灯を掲げた。  弱々しい灯りの向こうに、見慣れた姿があった。  漆黒の髪と白い肌、目元はかすんでいたが、容貌は蓮章に違いなかった。だが、身にまとう気配は、別人の匂いがした。 「よぉ、爺さん」  蓮章を演じることもなく、慎は平然と慈圓を見据えて軽い口調で話しかけた。慈圓の知る蓮章よりも、わずかに声が低かった。 「この年で夜這いをかけられるとは思わなかったぞ」 「ご期待のところ悪いが、趣味じゃない」  乱暴な口調は蓮章のようでもあるが、あきらかに品位が低かった。 「相変わらず、素行は直らんようだ」 「あんたに言われたくないもんだ」  慈圓は眉をしかめた。 「何をしにきた?」 「脅しに来た」  慎は蓮章にそっくりな顔で、うっすらと笑った。 「単刀直入に言う。皇子を殺したのは、あんたか?」 「なるほど」  慈圓は息をついた。 「それはおまえの推論か? それとも、梨花の伝言か?」 「あんた、いい弟子を育てたな。必要とあらば、誰だろうと疑うらしい」  慎は壁にもたれ、腕を組んだ。雨でぐっしょりと濡れた着物から滴る水が、土間に黒く染みを作っていた。 「それで、あんたの仕業か?」  たったひとつの慎の目が怯むことなく慈圓を射抜き、老いてなお鋭い慈圓の双眸が正面から跳ね返した。  年齢も立場もあまりに違うふたりの間に、見えない振り子が大きく揺れていた。 「違う」  慈圓は顔をしかめ、 「わしの弟子なら、簡単に信じはすまいが」 「まぁな」 「無駄骨だったか?」 「いや、本当にやっていないか、それとも隠す気でいるか、という二択にはしぼられた」 「おまえも、神経質な主人を持つと苦労するな」  慎は雨に濡れた髪を掻き上げた。 「主人じゃない。懸想してるだけ」  その言い方は、蓮章のようであって、やはり慎だった。慈圓の苛立ちを見て、慎はにやりとした。 「そんな顔するな。リィの不利になることはしないさ。俺にとって、あいつは誰より大切だ」  蛾連衆の頭領として。  慎が蓮章のもとにとどまる大義名分は、決して形だけの言い訳ではなかった。  慎はかつて、宝順帝の制裁によって家族を惨殺され、自らも花街で地獄を舐めた。慎にとって、皇帝への復讐は生きる意味そのものであった。蓮章の影となる道を選んだのも、そのためだった。  そればかりとは言えないが……  慎は遠くへ向けていた視線を戻した。 「もうひとつ、あんたが否定したときは伝えるように言いつかっている」  慈圓は鷹揚に腕を組んだ。夏の湿った夜気が、香のようにたちこめていた。 「死亡確認をした、||太医署《たいいしょ》の典医の記録が欲しい。それから、||尚薬局《しょうやくきょく》の物品の出入りも知りたい、と。薬蔵もだ。あと、||御膳房《ごぜんぼう》に知人がいれば紹介してくれ、と」 「あいつは、本気で禁軍を敵に回す気か」  慈圓は額を抑えた。  慎は不機嫌を隠さず、慈圓を睨みつけた。 「俺だって止めた。だが、言って聞くやつじゃない」 「……よかろう」  慈圓は低く唸り声を発した。 「手筈は整えてやる。だが、書状は直接、梨花に渡す。五亨庵へ来いと伝えろ」 「無理だ。本当に人手が足りない。今月は天輝殿もある。親王不在を理由に五亨庵と朱市まわりは暁隊で補完したが、皇子たちの身辺警護で総員が動いている」  慈圓は唸った。 「その上、さらに目立つことを……」 「仕方がない、それがリィだ」  慎は鋭く息を吐き、首を横に振った。 「蛾連も動き出す。あんたにも働いてもらうぞ」 「慎」  慈圓は声を低めた。 「何かあったのか? あれだけ渋っていたあいつが、今になって急に動くなど」  腕を掴む指に力を込めて、慎はわずかに顎を引いた。 「今まで散々急かしてきたのは、あんたじゃないか」  慎は目をそらした。 「勝手なことばかり言いやがって……」  苛立ちを剥き出しに、慎は遠くを睨みつけた。  それ以上、何を言っても慎から言葉を引き出すことはできないと、慈圓にはわかっていた。感情がほとばしる慎の顔。その中で、薬で潰した灰色の瞳だけが、借り物のように異質だった。  忠誠と呼ぶにはあまりに個人的な蓮章に対する慎の執着は、年々その激しさを増すように思われた。 「……頼みのものは、明後日には用意する」 「わかった」  慈圓は黙って、雨の闇に紛れて行く慎を見送った。すぐにそれは見えなくなり、また、雨音だけが支配した。  恩があだにならねば良いが。  慎を突き放せない蓮章の優しさは、完璧な宝石についた埋められない傷だった。  慈圓は、蓮章の胸中を案じた。  湯の香りが白い湯気に絡んで、東雨はうっとりと息を吐いた。 「俺、こんなにゆっくり、湯に入ることなんてありませんでした」  肩まで浸って、東雨は深い息を漏らした。  辰巳荘の湯殿は、都の屋敷とは比べものにならない広さがあった。 「同時に二十名は入れます」  東雨は、緑権が自慢げに説明していたのを思い出した。  湯殿の隣、厚い石壁の向こうに、浴槽の一部に接した釜室があり、直接湯を温める仕組みになっていた。温められた湯は浴槽の形に沿って少しずつ循環するよう、内側に凹凸が刻まれていた。  東雨は柔らかい湯のぬくもりを肌に感じて、思い切り四肢を伸ばした。袖のない湯衣の脇から、直接肌に触れてくる湯の感触がこそばゆかった。 「屋敷の湯船では、こうはいきません」  東雨は三段の浴槽の中段を独占して、縁に腕をかけ、顔を乗せた。 「うちは燃料代節約のため、湯は最小限で済むように船形ですから、浅いし幅は窮屈ですし」 「少し、熱い」  犀星は一番上の高温の湯から、東雨の中段に下がってきた。 「若様は、ぬるいお湯に慣れすぎです」 「節約」 「今日くらい、贅沢してください」  犀星は東雨の周りの湯加減を確かめてから、少し考え、下段へと降りた。とっぷりと肩を沈めるその背中を、東雨は満面の笑みで食い入るように見つめた。  犀星の青みのある髪は束ねられ、頭の後ろで結い上げられていた。まとまりきらない毛先が行く筋がうなじに張り付き、白い肌が湯に濡れて光っていた。湯衣をまとっていても、露わになった二の腕の筋肉の形が艶かしく、目を開いているだけで眩しかった。 「これは、のぼせる」  東雨は小さく独り言を漏らした。  熱い湯よりも熱い東雨の視線に気づきもせずに、犀星はじっと、流しにいる玲陽を見つめていた。  |皂莢《そうきょう》の実で泡立てた手ぬぐいを握りしめ、玲陽は中空を見つめたまま、もう、ずいぶん長いこと、固まっていた。  開かれた跳ね窓から差し込む日差しが、湯けむりの中で玲陽の金色の髪を明るく輝かせていた。  体の傷を隠したい玲陽を気遣って、犀星も見つめるだけで近づくことは遠慮していた。だが、いつになっても玲陽は動かなかった。  深く考えに沈む時、玲陽は決まって時が止まる。  確かに今、玲陽は考えていた。いや、悩んでいた。  玲陽にとって、玲凛に近づく男は皆、敵であった。残念ながら、涼景や蓮章もまた、その点においては敵、しかも、かなりの難敵だった。いくら武術の腕が立つとはいえ、苛烈な策謀の渦巻く宮中を生き延びてきた二人の手管には、可愛い玲凛も無事とは限らない。 「ああ……」  悲嘆とも困惑ともつかないため息が、玲陽の口からこぼれた。犀星が、首を傾げた。 「陽、どうした?」  |郭公《かっこう》や|子規《ほととぎす》の声が、空の向こうで響いていた。 「凛どのは、どちらが好きなのでしょう」  悲しそうにつぶやき、玲陽は我が身を抱いた。 「どちらとは?」  犀星がさらに首をかしげて、 「凛なら、槍か戟か、と問われれば、戟を選びそうだが」 「肉か魚なら、肉が好きだと言ってました」  東雨が犀星に続いた。  玲陽はようやく少し首を動かして、恨めしげに二人を見た。 「そんな話ではありません」  玲陽は首を振った。 「涼景様と蓮章様」 「あの二人がどうかしたか?」  犀星は、我慢ならない様子で、浴槽の端に腰掛けた。体に沿って湯が流れ落ち、湯衣越しに体の線が見えて、東雨は顔を覆った。  玲陽は苦しそうに、 「思い起こせば、歌仙にいた頃から、凛どのは涼景様のことを尊敬し、憧れていたように思うのです。剣士としてだけではなく、もしかしたら…… 涼景様も凛どのを気に入り、願わくば隊に迎えたいとの熱意。これは、非常に、危険です。仕事だ武術だ、を言い訳とした口説きとしか思われません」  ころころと音を立てて湯が巡っていた。東雨は指の間から、玲陽と、そしてどうしても見たい犀星を覗いた。 「陽様、一体何の話です?」  玲陽は悲しそうに眉を寄せて、 「蓮章様だって……最近、花街の事件や紅花祭の関係で、接する機会が増えました。華やかな街の雰囲気、蓮章様の魅惑的な身のこなし、何より、外面からは想像もできない情の厚さ。心優しい凛どのが、つい、気になってしまってもやむをえぬこと」  一部表現に疑問を感じながらも、東雨はようやく合点がいった。 「考え過ぎです。あの凛に限って、そんな話にはなりませんってば」  こくん、と犀星も頷いた。だが、玲陽にとって、こればかりは楽観的になれなかった。 「凛どのの恋路を、邪魔するつもりはありません」  全力で阻止するつもりだろう。  犀星と東雨は同じことを思って、顔を見合わせた。構わず、玲陽は続けた。 「涼景様も蓮章様も、立派な方だとは思います」  二人のことを悪く言いたくはないが、玲凛が関係するとなれば、自然と玲陽の評価が厳しくなるのも、仕方のないことだった。  玲陽は眉間にしわを寄せながら、 「涼景様は人格的にも落ち着いていますし、同じ歌仙出身。身辺もすっきりしていて、性格的にも合うと思います。武人としても申し分なく、凛どののことも信頼し、戦友として対等に接してくださる」 「まぁ、そうだな」  早く体を洗い終わってそばに来て欲しい、と願いながら、犀星は相槌を打った。  玲陽はもう一段、考え込んだ。

ともだちにシェアしよう!