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11 井中(1)
雨音は次第に大きく、深夜まで降り続いた。
自分の屋敷の書斎で、木簡に書きものをしていた慈圓は、暗い欄間の向こうに視線を投げた。大粒の雨が空気を揺らし、油灯の火がせわしなく振れた。
夜深く、雨音がひたすら響き、延々と同じ瞬間が繰り返されている錯覚があった。そんな中、雨に混じって、物音が聞こえた気がした。
日頃から気難しい顔をさらにしかめて、慈圓は入り口を振り返った。
使用人たちは、とうに休ませていた。
慈圓は油灯の皿を持つと、書斎を出て、暗い回廊に向けた。裏口の方から、明らかに雨とは違う音が聞こえた。慈圓の皺の深い目元が、厳しく歪められた。
慈圓はそのまま、灯りを掲げ、すり足で回廊を奥に向かった。裏庭に抜ける土間があり、その先の戸にはいつも内側から閂が降ろされていた。
進むにつれ、雨音がその質を変えた。戸が半分開いたままで、直接、土を穿つ低い音が、足元を小刻みに揺らした。
慈圓は立ち止まり、前方に目を凝らした。
戸の脇の壁ぎわに、人影があった。こちらに向いていたそれが、わずかに動いた。慈圓は高く、油灯を掲げた。
弱々しい灯りの向こうに、見慣れた姿があった。
漆黒の髪と白い肌、目元はかすんでいたが、容貌は蓮章に違いなかった。だが、身にまとう気配は、別人の匂いがした。
「よぉ、爺さん」
蓮章を演じることもなく、慎は平然と慈圓を見据えて軽い口調で話しかけた。慈圓の知る蓮章よりも、わずかに声が低かった。
「この年で夜這いをかけられるとは思わなかったぞ」
「ご期待のところ悪いが、趣味じゃない」
乱暴な口調は蓮章のようでもあるが、あきらかに品位が低かった。
「相変わらず、素行は直らんようだ」
「あんたに言われたくないもんだ」
慈圓は眉をしかめた。
「何をしにきた?」
「脅しに来た」
慎は蓮章にそっくりな顔で、うっすらと笑った。
「単刀直入に言う。皇子を殺したのは、あんたか?」
「なるほど」
慈圓は息をついた。
「それはおまえの推論か? それとも、梨花の伝言か?」
「あんた、いい弟子を育てたな。必要とあらば、誰だろうと疑うらしい」
慎は壁にもたれ、腕を組んだ。雨でぐっしょりと濡れた着物から滴る水が、土間に黒く染みを作っていた。
「それで、あんたの仕業か?」
たったひとつの慎の目が怯むことなく慈圓を射抜き、老いてなお鋭い慈圓の双眸が正面から跳ね返した。
年齢も立場もあまりに違うふたりの間に、見えない振り子が大きく揺れていた。
「違う」
慈圓は顔をしかめ、
「わしの弟子なら、簡単に信じはすまいが」
「まぁな」
「無駄骨だったか?」
「いや、本当にやっていないか、それとも隠す気でいるか、という二択にはしぼられた」
「おまえも、神経質な主人を持つと苦労するな」
慎は雨に濡れた髪を掻き上げた。
「主人じゃない。懸想してるだけ」
その言い方は、蓮章のようであって、やはり慎だった。慈圓の苛立ちを見て、慎はにやりとした。
「そんな顔するな。リィの不利になることはしないさ。俺にとって、あいつは誰より大切だ」
蛾連衆の頭領として。
慎が蓮章のもとにとどまる大義名分は、決して形だけの言い訳ではなかった。
慎はかつて、宝順帝の制裁によって家族を惨殺され、自らも花街で地獄を舐めた。慎にとって、皇帝への復讐は生きる意味そのものであった。蓮章の影となる道を選んだのも、そのためだった。
そればかりとは言えないが……
慎は遠くへ向けていた視線を戻した。
「もうひとつ、あんたが否定したときは伝えるように言いつかっている」
慈圓は鷹揚に腕を組んだ。夏の湿った夜気が、香のようにたちこめていた。
「死亡確認をした、||太医署《たいいしょ》の典医の記録が欲しい。それから、||尚薬局《しょうやくきょく》の物品の出入りも知りたい、と。薬蔵もだ。あと、||御膳房《ごぜんぼう》に知人がいれば紹介してくれ、と」
「あいつは、本気で禁軍を敵に回す気か」
慈圓は額を抑えた。
慎は不機嫌を隠さず、慈圓を睨みつけた。
「俺だって止めた。だが、言って聞くやつじゃない」
「……よかろう」
慈圓は低く唸り声を発した。
「手筈は整えてやる。だが、書状は直接、梨花に渡す。五亨庵へ来いと伝えろ」
「無理だ。本当に人手が足りない。今月は天輝殿もある。親王不在を理由に五亨庵と朱市まわりは暁隊で補完したが、皇子たちの身辺警護で総員が動いている」
慈圓は唸った。
「その上、さらに目立つことを……」
「仕方がない、それがリィだ」
慎は鋭く息を吐き、首を横に振った。
「蛾連も動き出す。あんたにも働いてもらうぞ」
「慎」
慈圓は声を低めた。
「何かあったのか? あれだけ渋っていたあいつが、今になって急に動くなど」
腕を掴む指に力を込めて、慎はわずかに顎を引いた。
「今まで散々急かしてきたのは、あんたじゃないか」
慎は目をそらした。
「勝手なことばかり言いやがって……」
苛立ちを剥き出しに、慎は遠くを睨みつけた。
それ以上、何を言っても慎から言葉を引き出すことはできないと、慈圓にはわかっていた。感情がほとばしる慎の顔。その中で、薬で潰した灰色の瞳だけが、借り物のように異質だった。
忠誠と呼ぶにはあまりに個人的な蓮章に対する慎の執着は、年々その激しさを増すように思われた。
「……頼みのものは、明後日には用意する」
「わかった」
慈圓は黙って、雨の闇に紛れて行く慎を見送った。すぐにそれは見えなくなり、また、雨音だけが支配した。
恩があだにならねば良いが。
慎を突き放せない蓮章の優しさは、完璧な宝石についた埋められない傷だった。
慈圓は、蓮章の胸中を案じた。
湯の香りが白い湯気に絡んで、東雨はうっとりと息を吐いた。
「俺、こんなにゆっくり、湯に入ることなんてありませんでした」
肩まで浸って、東雨は深い息を漏らした。
辰巳荘の湯殿は、都の屋敷とは比べものにならない広さがあった。
「同時に二十名は入れます」
東雨は、緑権が自慢げに説明していたのを思い出した。
湯殿の隣、厚い石壁の向こうに、浴槽の一部に接した釜室があり、直接湯を温める仕組みになっていた。温められた湯は浴槽の形に沿って少しずつ循環するよう、内側に凹凸が刻まれていた。
東雨は柔らかい湯のぬくもりを肌に感じて、思い切り四肢を伸ばした。袖のない湯衣の脇から、直接肌に触れてくる湯の感触がこそばゆかった。
「屋敷の湯船では、こうはいきません」
東雨は三段の浴槽の中段を独占して、縁に腕をかけ、顔を乗せた。
「うちは燃料代節約のため、湯は最小限で済むように船形ですから、浅いし幅は窮屈ですし」
「少し、熱い」
犀星は一番上の高温の湯から、東雨の中段に下がってきた。
「若様は、ぬるいお湯に慣れすぎです」
「節約」
「今日くらい、贅沢してください」
犀星は東雨の周りの湯加減を確かめてから、少し考え、下段へと降りた。とっぷりと肩を沈めるその背中を、東雨は満面の笑みで食い入るように見つめた。
犀星の青みのある髪は束ねられ、頭の後ろで結い上げられていた。まとまりきらない毛先が行く筋がうなじに張り付き、白い肌が湯に濡れて光っていた。湯衣をまとっていても、露わになった二の腕の筋肉の形が艶かしく、目を開いているだけで眩しかった。
「これは、のぼせる」
東雨は小さく独り言を漏らした。
熱い湯よりも熱い東雨の視線に気づきもせずに、犀星はじっと、流しにいる玲陽を見つめていた。
|皂莢《そうきょう》の実で泡立てた手ぬぐいを握りしめ、玲陽は中空を見つめたまま、もう、ずいぶん長いこと、固まっていた。
開かれた跳ね窓から差し込む日差しが、湯けむりの中で玲陽の金色の髪を明るく輝かせていた。
体の傷を隠したい玲陽を気遣って、犀星も見つめるだけで近づくことは遠慮していた。だが、いつになっても玲陽は動かなかった。
深く考えに沈む時、玲陽は決まって時が止まる。
確かに今、玲陽は考えていた。いや、悩んでいた。
玲陽にとって、玲凛に近づく男は皆、敵であった。残念ながら、涼景や蓮章もまた、その点においては敵、しかも、かなりの難敵だった。いくら武術の腕が立つとはいえ、苛烈な策謀の渦巻く宮中を生き延びてきた二人の手管には、可愛い玲凛も無事とは限らない。
「ああ……」
悲嘆とも困惑ともつかないため息が、玲陽の口からこぼれた。犀星が、首を傾げた。
「陽、どうした?」
|郭公《かっこう》や|子規《ほととぎす》の声が、空の向こうで響いていた。
「凛どのは、どちらが好きなのでしょう」
悲しそうにつぶやき、玲陽は我が身を抱いた。
「どちらとは?」
犀星がさらに首をかしげて、
「凛なら、槍か戟か、と問われれば、戟を選びそうだが」
「肉か魚なら、肉が好きだと言ってました」
東雨が犀星に続いた。
玲陽はようやく少し首を動かして、恨めしげに二人を見た。
「そんな話ではありません」
玲陽は首を振った。
「涼景様と蓮章様」
「あの二人がどうかしたか?」
犀星は、我慢ならない様子で、浴槽の端に腰掛けた。体に沿って湯が流れ落ち、湯衣越しに体の線が見えて、東雨は顔を覆った。
玲陽は苦しそうに、
「思い起こせば、歌仙にいた頃から、凛どのは涼景様のことを尊敬し、憧れていたように思うのです。剣士としてだけではなく、もしかしたら…… 涼景様も凛どのを気に入り、願わくば隊に迎えたいとの熱意。これは、非常に、危険です。仕事だ武術だ、を言い訳とした口説きとしか思われません」
ころころと音を立てて湯が巡っていた。東雨は指の間から、玲陽と、そしてどうしても見たい犀星を覗いた。
「陽様、一体何の話です?」
玲陽は悲しそうに眉を寄せて、
「蓮章様だって……最近、花街の事件や紅花祭の関係で、接する機会が増えました。華やかな街の雰囲気、蓮章様の魅惑的な身のこなし、何より、外面からは想像もできない情の厚さ。心優しい凛どのが、つい、気になってしまってもやむをえぬこと」
一部表現に疑問を感じながらも、東雨はようやく合点がいった。
「考え過ぎです。あの凛に限って、そんな話にはなりませんってば」
こくん、と犀星も頷いた。だが、玲陽にとって、こればかりは楽観的になれなかった。
「凛どのの恋路を、邪魔するつもりはありません」
全力で阻止するつもりだろう。
犀星と東雨は同じことを思って、顔を見合わせた。構わず、玲陽は続けた。
「涼景様も蓮章様も、立派な方だとは思います」
二人のことを悪く言いたくはないが、玲凛が関係するとなれば、自然と玲陽の評価が厳しくなるのも、仕方のないことだった。
玲陽は眉間にしわを寄せながら、
「涼景様は人格的にも落ち着いていますし、同じ歌仙出身。身辺もすっきりしていて、性格的にも合うと思います。武人としても申し分なく、凛どののことも信頼し、戦友として対等に接してくださる」
「まぁ、そうだな」
早く体を洗い終わってそばに来て欲しい、と願いながら、犀星は相槌を打った。
玲陽はもう一段、考え込んだ。
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