34 / 43

11 井中(3)

 夕餉の中で最大の皿には、鼈がいた。金色の坂付きには、花の香りを移した菊花酒が満たされ、そこに、濡れた黒色に照り焼きにした鼈と、深い赤の鹿肉、添えられた芹の淡緑が鮮やかな対比で鎮座していた。香り付けの山椒と陳皮は控えめで、食材の香りがすべて溶け合い、それだけで腹にずしりときた。  慎は自然と、腹が鳴った。今朝から、干し肉をかじったきりであった。食欲を振り切るように、慎は腰に手を当てた。 「この中のどれかに、毒が入れられていたということか……」 「もう一つある」  蓮章は、机の角の皮袋を目で示した。  慎は袋を手にとって、中を覗き、奇妙な声をあげた。 「なんだこれ、粟と胡麻の煎餅じゃないか」 「そうだ」 「こんなもの、わざわざ皇子様が食うか? 使用人の間食だろ?」 「そうだ」 「それをどうして……」 「好奇心。多分な」 「……面倒な。なら、これに毒が?」 「いや、無害だ」  慎は唸りながら、首を傾げた。 「どういうことだよ? どこにも毒がない?」 「あぁ」  蓮章は、机の隅に積み上げていた木簡を順に慎に渡した。 「これが、使われているすべての食材と薬剤だ。どれを食っても死にはしない。当然、水も調べたし、茶碗のすべても検証済みだ」 「じゃあ、やはり外から何か混ぜられたと考えるべきか」 「それもないと思う」  答えを聞きに来た、と口実をつけるように、慎は蓮章の横に交椅を移動させると、甘えて鼻を擦り寄せた。 「じゃあどうなってる? あんたのことだ、もう、予測はついてるんだろ? もったいぶらずに話せ」 「わからないか?」 「わからない」 「……順を追って説明する」  蓮章はゆっくりと、 「まず、食事に不審な点はない」 「それはわかった」 「それから、皇子は強壮薬を服用していたが、その使用にも問題はない。御膳房は薬を知った上で、それに合わせた献立を立て、提供していた。内侍も御膳房も相互監視で、毒を混入させるのは難しい。さらに、毒見役は必ずつき、皇子が人を介さずに何かを口にすることはない。つまり、皇子の死因は毒だが、殺害ではない」  慎は、こちらをじっと見ている蓮章の顔を見返し、ハッとした。 「事故……?」  慎は蓮章の意図を察した。思慮深く目を光らせ、確かめるように料理を見つめながら、 「毒が仕込まれたわけではない。ただ、食い合わせによっては、毒のような症状が出ることもある、ということか」 「ああ」  蓮章は頷いて、 「それぞれは安全でも、同時に摂取した時、症状が現れることがある。今回は、粟と胡麻の煎餅が決め手になった」 「まさか、御膳房も皇子の気まぐれまでは止められなかったということか」 「煎餅自体は、朱市で販売されている外部のものだ。それ自体に毒性はないし、使用人も気づいていなかった。なんなら、同じ商品は今も売られている」 「……単なる不運な事故、とはな……」 「……一見すると、な」 「え?」  一層わからない、と慎が混乱して首を振った。 「なんだよ、その妙は言い方は」 「妙なことになってるんだ」 「もったいぶらずに話せよ」  慎がしびれを切らした。  蓮章は、机の端にほおづえをついて、 「大医の報告書に不審な点がある」  蓮章が差し出した報告書の写しを、慎は目で追った。 「薬物による中毒死……」 「そうだ」 「どこが不審なんだ? 結果的に、食い合わせによる中毒だったんだろ? 見立てに間違いはないはず……故意ではなく事故だとしても、それを調べるのは禁軍であって、大医の責任ではない」 「その通りだ」 「だったら、何があるってんだよ?」  慎はいらいらしながら、煎餅を一欠片、かじった。 「……うまいか?」  突然、蓮章が言った。 「朝からほとんど食ってなかった」 「味は?」 「食えりゃいい。毒じゃないんだろ?」 「おまえに味を尋ねるのは無意味か」  むっとした慎には構わず、蓮章は続けた。 「その煎餅を焼く際、粟を粉にしてつなぎに使う」 「馬鹿にしてるのか? それくらい知って……」 「そこに、仕込まれてた」  慎は思わず、むせ返った。 「何が!」 「心配するな、死にはしない。食い合わせだと言っただろう?」 「何が入ってたんだよ!」 「……百合の澱粉」  慎は必死に咳を繰り返しながら、 「相変わらず、とんでもない味覚だな。……でも、どうしてそんな高級なもんが、朱市の安菓子に混ざってんだ?」 「不審、だろ?」  蓮章は目を細めた。 「今、旦次に出所を洗わせている。安珠様に伺ったところ、この百合の澱粉と、皇子だけが服用していた強壮剤。このふたつが、中毒の原因らしいことが見えてきた」  慎は冷めた茶で喉のつかえを流し込んだ。 「リィ、あんた、奏鳴宮を疑っているのか?」 「あくまで、調べているだけだ」 「あんたさぁ、夕泉憎さに何でもかんでもそこに結びつけてないか?」 「俺もそう思う」  素直に、蓮章は認めた。 「だがどうやら、俺の暴走ではなさそうでな。ここで、備拓が出てきた」 「備拓?」 「大医に、他殺の可能性を残せと言いつけたのは備拓だそうだ。そうでなければ、もっと早くに事件は片付いていた」  慎は、気難しい備拓と、そして口の悪い慈圓の顔が思い浮かんだ。 「……爺さん連中ってのは、余計なことをするために長生きしているんじゃないのか?」  慎は思わず呟いてから、慌てて蓮章を見た。幸い、特に気にしたそぶりもなく、蓮章は黙って考えこんでいた。 「……それで、どうして備拓は毒殺にこだわるわけ?」 「おまえ、そろそろ自分で考えろ」  蓮章は静かに、 「単なる偶然が重なった事故。そうなれば、捜査も曖昧なまま終わる。だが、他殺の可能性があれば、禁軍が動き、やがては真相が見える可能性がある。備拓は、何かを知っていたのだろう」 「つまり……」  慎は、蓮章が言うより先に答えにたどり着こうと急いで考えた。 「備拓は、百合の澱粉の存在に勘付いていた。そして、それを明らかにしたかった。だから、調査を止めたくなかった、と?」  慎はどさくさに紛れるように、蓮章の肩に背中を持たれかけて、 「真相を知るための時間稼ぎ……」 「そう考えられる」 「だとしたら、備拓が疑っているのは……」  慎はいかめしい表情で唸った。 「だが、禁軍が動いたとしても、本当に備拓の思い通りに進むとは限らないだろう? あいつら、あんたよりはるかに無能だぞ」 「だから、噂を流した。歌仙親王が犯人ではないかと」 「それもあいつかよ?」 「推測の域を出ない。だが、疑いの目を親王に向けることには意味がある。親王や涼景の無実を証明するためとなれば、俺が動くと読んでいたはずだ」 「備拓は、あんたを利用した、と」 「まぁ、踊らされているとわかって乗ってやったんだが」 「ああ! もう、わけがわからねぇ!」  慎が闇雲に蓮章に絡みついた。蓮章は息をついて首を振った。 「おまえは俺の影だろう? これくらい、察していてくれないと……」 「難しいことを要求するな」 「難しくない」 「俺には難しい!」  若輩のようにふてくされた慎を、疲れた蓮章の微笑みが振り返った。それに気づくことなく、慎は低く問いかけた。 「どうするんだ? 今度は備拓に直接聞くのか?」 「考えているところ」 「まだ考えるのかよ」  慎は投げ出した。蓮章は独り言のように、 「今回の多忙期、備拓は左近衛を警備に貸し出してくれた。もしかすると良心の呵責ってやつか。それに、もし俺が備拓の立場なら、もう一つの目的も考える」 「あんたは考えすぎ」 「俺たちの動きを知るため。真相にどれだけ近づいたか、聞き出しやすくなる……」 「で、結局、どうすんだよ」  慎は結論にしか興味がなかった。蓮章はまだ、推論の道の半ばだった。 「このまま偶然の事故にしてしまうことはたやすい。真犯人の思い通り。もし、犯人が夕泉だとしたら、備拓はどうしてそれを暴こうとしている? なんの為に主人を罪人にする必要がある? なんにせよ、すべてを明らかにして親王の無実を証明できれば、涼景を呼び戻せられない。会いたい……」 「ああ! もう!」  慎は、ついにしびれを切らした。 「どうでもいいけどよ、あんた、ちゃんと、眠れてないだろ?」  慎は無理やりに蓮章を思考の沼から引き上げた。 「考えるより、寝ろ」 「少しは寝られるようになった」 「あんたのは寝てるんじゃない。気を失ってるんだ」 「似たようなものだ」  触れられたくない、と顔を背ける蓮章をじっと見てから、慎は箸を手に取ると、料理をつまんで口に放り込んだ。冷めてはいたが、味は決して悪くなかった。同じ皿から肉をつまみ、唐突に蓮章に突きつけた。 「食え」  蓮章は唖然として、目の前に料理を指差す鏡写しの自分を見た。 「眠れ、の次は食え、かよ」  あからさまに蓮章は身を引いた。 「抱かれろ、よりマシだろ」  箸の肉を突きつけられて、思わず蓮章は顔を背けた。 「いらない」 「自分で食えないなら、口移しで食わせてやろうか?」  慎ならば、やりかねない。  背に腹は変えられず、蓮章は仕方なく口を開いた。  言葉遣いとは裏腹に、優しく、慎は蓮章の舌の上に肉を乗せた。  蓮章は横を向いて何度か顎を動かし、ようやく喉が動いて飲み込んだ。  その様子を慎は目を細めて見ていた。 「これも……」  慎は、戸惑う蓮章の口元に、次から次へと料理を運んだ。  二日ぶりの食事を、蓮章は与えられるままに食べ続けた。慎は終始、嬉しそうにいたずらな笑みを浮かべていた。 「なんだか、ひな鳥に餌をやってる気分だ」  わずかに蓮章の頬が赤らんだ。それは久しぶりに見る命の色であった。 「ちょうど当番だ。天輝殿へ行く」  蓮章は逃げるように立ち上がり、木簡を一つにまとめると布で包み、胸に抱えた。 「どうすんだよ、リィ?」 「毒殺だろうと事故だろうと、俺はどちらでも構わない。俺がやるべき事は親王の疑いを晴らすことだ。真犯人が誰なのかは、後からでも充分間に合う」 「確かに一理あるが」 「これを然韋の所へ持っていく」  慎は食べる合間に口を開いた。 「正気か? リィ、動くなら俺が出る。今のあんたじゃ、気を保ってるのも辛いだろ」 「おまえじゃ、然韋を言い負かせない」 「それは……そうだが」  不本意を顔に浮かべて、真は鹿肉を噛んだ。 「だが、然韋が受け取ると思うか? 第一、犯人を探している備拓まで敵に回すぞ」 「わかっている」 「リィ、もしかして涼景を遠ざけたのは、この暴挙にあいつを巻き込まないためか?」 「俺一人が憎まれれば済むことなら、いくらでも憎まれてやるさ」  慎は黙り込むとじっと料理を見つめた。 「慎」  ぴくりと、慎は顔を上げた。まっすぐに自分を見る蓮章が好きだった。 「おまえは、備拓のところへ行け。今なら、西の館の警備だろう」 「……行って、どうしろと?」 「理由を聞いてこい」  緩んでいた慎の顔が、緊張でこわばった。 「理由? なんの?」 「備拓がどうして、主人である夕泉に不利なことをするのか、問いただしてこい。抜かるなよ」  蓮章は、蓮章として、堂々と部屋を出て行った。残された慎は、口の中に残った料理の塩味を飲んだ。めったに口には入らない料理をほおばりながら、その表情は決して満足してはいなかった。

ともだちにシェアしよう!