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11 井中(3)
夕餉の中で最大の皿には、鼈がいた。金色の坂付きには、花の香りを移した菊花酒が満たされ、そこに、濡れた黒色に照り焼きにした鼈と、深い赤の鹿肉、添えられた芹の淡緑が鮮やかな対比で鎮座していた。香り付けの山椒と陳皮は控えめで、食材の香りがすべて溶け合い、それだけで腹にずしりときた。
慎は自然と、腹が鳴った。今朝から、干し肉をかじったきりであった。食欲を振り切るように、慎は腰に手を当てた。
「この中のどれかに、毒が入れられていたということか……」
「もう一つある」
蓮章は、机の角の皮袋を目で示した。
慎は袋を手にとって、中を覗き、奇妙な声をあげた。
「なんだこれ、粟と胡麻の煎餅じゃないか」
「そうだ」
「こんなもの、わざわざ皇子様が食うか? 使用人の間食だろ?」
「そうだ」
「それをどうして……」
「好奇心。多分な」
「……面倒な。なら、これに毒が?」
「いや、無害だ」
慎は唸りながら、首を傾げた。
「どういうことだよ? どこにも毒がない?」
「あぁ」
蓮章は、机の隅に積み上げていた木簡を順に慎に渡した。
「これが、使われているすべての食材と薬剤だ。どれを食っても死にはしない。当然、水も調べたし、茶碗のすべても検証済みだ」
「じゃあ、やはり外から何か混ぜられたと考えるべきか」
「それもないと思う」
答えを聞きに来た、と口実をつけるように、慎は蓮章の横に交椅を移動させると、甘えて鼻を擦り寄せた。
「じゃあどうなってる? あんたのことだ、もう、予測はついてるんだろ? もったいぶらずに話せ」
「わからないか?」
「わからない」
「……順を追って説明する」
蓮章はゆっくりと、
「まず、食事に不審な点はない」
「それはわかった」
「それから、皇子は強壮薬を服用していたが、その使用にも問題はない。御膳房は薬を知った上で、それに合わせた献立を立て、提供していた。内侍も御膳房も相互監視で、毒を混入させるのは難しい。さらに、毒見役は必ずつき、皇子が人を介さずに何かを口にすることはない。つまり、皇子の死因は毒だが、殺害ではない」
慎は、こちらをじっと見ている蓮章の顔を見返し、ハッとした。
「事故……?」
慎は蓮章の意図を察した。思慮深く目を光らせ、確かめるように料理を見つめながら、
「毒が仕込まれたわけではない。ただ、食い合わせによっては、毒のような症状が出ることもある、ということか」
「ああ」
蓮章は頷いて、
「それぞれは安全でも、同時に摂取した時、症状が現れることがある。今回は、粟と胡麻の煎餅が決め手になった」
「まさか、御膳房も皇子の気まぐれまでは止められなかったということか」
「煎餅自体は、朱市で販売されている外部のものだ。それ自体に毒性はないし、使用人も気づいていなかった。なんなら、同じ商品は今も売られている」
「……単なる不運な事故、とはな……」
「……一見すると、な」
「え?」
一層わからない、と慎が混乱して首を振った。
「なんだよ、その妙は言い方は」
「妙なことになってるんだ」
「もったいぶらずに話せよ」
慎がしびれを切らした。
蓮章は、机の端にほおづえをついて、
「大医の報告書に不審な点がある」
蓮章が差し出した報告書の写しを、慎は目で追った。
「薬物による中毒死……」
「そうだ」
「どこが不審なんだ? 結果的に、食い合わせによる中毒だったんだろ? 見立てに間違いはないはず……故意ではなく事故だとしても、それを調べるのは禁軍であって、大医の責任ではない」
「その通りだ」
「だったら、何があるってんだよ?」
慎はいらいらしながら、煎餅を一欠片、かじった。
「……うまいか?」
突然、蓮章が言った。
「朝からほとんど食ってなかった」
「味は?」
「食えりゃいい。毒じゃないんだろ?」
「おまえに味を尋ねるのは無意味か」
むっとした慎には構わず、蓮章は続けた。
「その煎餅を焼く際、粟を粉にしてつなぎに使う」
「馬鹿にしてるのか? それくらい知って……」
「そこに、仕込まれてた」
慎は思わず、むせ返った。
「何が!」
「心配するな、死にはしない。食い合わせだと言っただろう?」
「何が入ってたんだよ!」
「……百合の澱粉」
慎は必死に咳を繰り返しながら、
「相変わらず、とんでもない味覚だな。……でも、どうしてそんな高級なもんが、朱市の安菓子に混ざってんだ?」
「不審、だろ?」
蓮章は目を細めた。
「今、旦次に出所を洗わせている。安珠様に伺ったところ、この百合の澱粉と、皇子だけが服用していた強壮剤。このふたつが、中毒の原因らしいことが見えてきた」
慎は冷めた茶で喉のつかえを流し込んだ。
「リィ、あんた、奏鳴宮を疑っているのか?」
「あくまで、調べているだけだ」
「あんたさぁ、夕泉憎さに何でもかんでもそこに結びつけてないか?」
「俺もそう思う」
素直に、蓮章は認めた。
「だがどうやら、俺の暴走ではなさそうでな。ここで、備拓が出てきた」
「備拓?」
「大医に、他殺の可能性を残せと言いつけたのは備拓だそうだ。そうでなければ、もっと早くに事件は片付いていた」
慎は、気難しい備拓と、そして口の悪い慈圓の顔が思い浮かんだ。
「……爺さん連中ってのは、余計なことをするために長生きしているんじゃないのか?」
慎は思わず呟いてから、慌てて蓮章を見た。幸い、特に気にしたそぶりもなく、蓮章は黙って考えこんでいた。
「……それで、どうして備拓は毒殺にこだわるわけ?」
「おまえ、そろそろ自分で考えろ」
蓮章は静かに、
「単なる偶然が重なった事故。そうなれば、捜査も曖昧なまま終わる。だが、他殺の可能性があれば、禁軍が動き、やがては真相が見える可能性がある。備拓は、何かを知っていたのだろう」
「つまり……」
慎は、蓮章が言うより先に答えにたどり着こうと急いで考えた。
「備拓は、百合の澱粉の存在に勘付いていた。そして、それを明らかにしたかった。だから、調査を止めたくなかった、と?」
慎はどさくさに紛れるように、蓮章の肩に背中を持たれかけて、
「真相を知るための時間稼ぎ……」
「そう考えられる」
「だとしたら、備拓が疑っているのは……」
慎はいかめしい表情で唸った。
「だが、禁軍が動いたとしても、本当に備拓の思い通りに進むとは限らないだろう? あいつら、あんたよりはるかに無能だぞ」
「だから、噂を流した。歌仙親王が犯人ではないかと」
「それもあいつかよ?」
「推測の域を出ない。だが、疑いの目を親王に向けることには意味がある。親王や涼景の無実を証明するためとなれば、俺が動くと読んでいたはずだ」
「備拓は、あんたを利用した、と」
「まぁ、踊らされているとわかって乗ってやったんだが」
「ああ! もう、わけがわからねぇ!」
慎が闇雲に蓮章に絡みついた。蓮章は息をついて首を振った。
「おまえは俺の影だろう? これくらい、察していてくれないと……」
「難しいことを要求するな」
「難しくない」
「俺には難しい!」
若輩のようにふてくされた慎を、疲れた蓮章の微笑みが振り返った。それに気づくことなく、慎は低く問いかけた。
「どうするんだ? 今度は備拓に直接聞くのか?」
「考えているところ」
「まだ考えるのかよ」
慎は投げ出した。蓮章は独り言のように、
「今回の多忙期、備拓は左近衛を警備に貸し出してくれた。もしかすると良心の呵責ってやつか。それに、もし俺が備拓の立場なら、もう一つの目的も考える」
「あんたは考えすぎ」
「俺たちの動きを知るため。真相にどれだけ近づいたか、聞き出しやすくなる……」
「で、結局、どうすんだよ」
慎は結論にしか興味がなかった。蓮章はまだ、推論の道の半ばだった。
「このまま偶然の事故にしてしまうことはたやすい。真犯人の思い通り。もし、犯人が夕泉だとしたら、備拓はどうしてそれを暴こうとしている? なんの為に主人を罪人にする必要がある? なんにせよ、すべてを明らかにして親王の無実を証明できれば、涼景を呼び戻せられない。会いたい……」
「ああ! もう!」
慎は、ついにしびれを切らした。
「どうでもいいけどよ、あんた、ちゃんと、眠れてないだろ?」
慎は無理やりに蓮章を思考の沼から引き上げた。
「考えるより、寝ろ」
「少しは寝られるようになった」
「あんたのは寝てるんじゃない。気を失ってるんだ」
「似たようなものだ」
触れられたくない、と顔を背ける蓮章をじっと見てから、慎は箸を手に取ると、料理をつまんで口に放り込んだ。冷めてはいたが、味は決して悪くなかった。同じ皿から肉をつまみ、唐突に蓮章に突きつけた。
「食え」
蓮章は唖然として、目の前に料理を指差す鏡写しの自分を見た。
「眠れ、の次は食え、かよ」
あからさまに蓮章は身を引いた。
「抱かれろ、よりマシだろ」
箸の肉を突きつけられて、思わず蓮章は顔を背けた。
「いらない」
「自分で食えないなら、口移しで食わせてやろうか?」
慎ならば、やりかねない。
背に腹は変えられず、蓮章は仕方なく口を開いた。
言葉遣いとは裏腹に、優しく、慎は蓮章の舌の上に肉を乗せた。
蓮章は横を向いて何度か顎を動かし、ようやく喉が動いて飲み込んだ。
その様子を慎は目を細めて見ていた。
「これも……」
慎は、戸惑う蓮章の口元に、次から次へと料理を運んだ。
二日ぶりの食事を、蓮章は与えられるままに食べ続けた。慎は終始、嬉しそうにいたずらな笑みを浮かべていた。
「なんだか、ひな鳥に餌をやってる気分だ」
わずかに蓮章の頬が赤らんだ。それは久しぶりに見る命の色であった。
「ちょうど当番だ。天輝殿へ行く」
蓮章は逃げるように立ち上がり、木簡を一つにまとめると布で包み、胸に抱えた。
「どうすんだよ、リィ?」
「毒殺だろうと事故だろうと、俺はどちらでも構わない。俺がやるべき事は親王の疑いを晴らすことだ。真犯人が誰なのかは、後からでも充分間に合う」
「確かに一理あるが」
「これを然韋の所へ持っていく」
慎は食べる合間に口を開いた。
「正気か? リィ、動くなら俺が出る。今のあんたじゃ、気を保ってるのも辛いだろ」
「おまえじゃ、然韋を言い負かせない」
「それは……そうだが」
不本意を顔に浮かべて、真は鹿肉を噛んだ。
「だが、然韋が受け取ると思うか? 第一、犯人を探している備拓まで敵に回すぞ」
「わかっている」
「リィ、もしかして涼景を遠ざけたのは、この暴挙にあいつを巻き込まないためか?」
「俺一人が憎まれれば済むことなら、いくらでも憎まれてやるさ」
慎は黙り込むとじっと料理を見つめた。
「慎」
ぴくりと、慎は顔を上げた。まっすぐに自分を見る蓮章が好きだった。
「おまえは、備拓のところへ行け。今なら、西の館の警備だろう」
「……行って、どうしろと?」
「理由を聞いてこい」
緩んでいた慎の顔が、緊張でこわばった。
「理由? なんの?」
「備拓がどうして、主人である夕泉に不利なことをするのか、問いただしてこい。抜かるなよ」
蓮章は、蓮章として、堂々と部屋を出て行った。残された慎は、口の中に残った料理の塩味を飲んだ。めったに口には入らない料理をほおばりながら、その表情は決して満足してはいなかった。
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