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12 芽吹き(1)

 その日はやけに昔が思い出された。  この時期になると、いつも決まって遠い時代のことが蘇るのだ。  頭上からまっすぐに落ちてくる太陽の熱は、いつも決まって遠い時代の匂いがした。  あれはもう、どれほど昔のことだろうか。  十三歳の夏、然韋は初めて宮中に上がった。九歳を迎えた宝順直属の近衛隊への配属だった。然韋の父は蕭白の近衛として長く勤めていた。然韋はそのつながりで、皇子のそば仕えの任に抜擢された。  まだ声も高く、幼いながらも、宝順の瞳には賢帝となり得る強い光があった。  然韋は、この親王に己の生涯を捧げることを誓った。  宝順が十一歳の時、運命的な出来事が起きた。  当時、幕環将軍としてその実力を認められ、周囲の信頼も厚かった犀遠の投獄である。  蕭白との関係が良くなかった宝順は、父に逆らい、犀遠を南陵郡歌仙へと逃した。  やがて、後宮で玲心が子を生んだ。それが男児であることを知ると、蕭白は後の災いを断つため、その殺害を命じた。  宝順はまたも、父に逆らった。玲心の妹・玲芳に赤子を預け、犀遠の待つ歌仙へと逃した。それが、のちの玲親王である。  この一連の出来事が、蕭白と宝順の間に大きな確執を生じさせた。宝順は世嗣ぎに定められたとはいえ、絶大な権力を持つ皇帝に逆らうことは容易ではなかった。  蕭白の体が衰え、衰弱死するまでの八年間、親子はことあるごとに対立を続け、その度に多くの命が二人の間ですり潰されて失われていった。  然韋は常に宝順の側にあり、どのような命令にも忠実に従った。時には、蕭白に仕える父親と対峙することさえあった。  そうして殺伐とした時代を過ごし、宝順は十八の時、正式に皇位を継いだ。  ようやく、自分たちの時代が来る。  然韋は長年の苦労が報われ、自らが奉じる宝順が国の頂点に立つことを誰よりも喜んだ。  だが、時代は決して安息は与えてくれなかった。  正妻の宇城が第一子を産むのを待たずして、次第と宝順の様子が変わっていったのを、然韋はすぐそばで見ていた。きっかけは、燕涼景との出会いだった。  家の勢いは衰えたものの、涼景の実力は当代一とも言われる傑出したものだった。蕭白との戦いの中で多くの人材が失われ、宝順は自らに従順な力を欲していた。涼景の存在を知った宝順が、放っておくはずがなかった。  心を問い、実力を問い、そこに満足するとそばに置いて忠誠を植え付けた。それは主従を超えて、あまりに歪んだ形へと変貌していった。  涼景が、宝順の心を狂わせた。  涼景一人の責任ではないと、然韋にもわかっていた。それでも、胸を裂かれるほどの痛みは、全て涼景へ向いた。そうすることでしか、変わりゆく主人のそばにい続けることができなかった。  然韋の歪んだ感情の吐露は、涼景だけではなく、つながりのある者たちにも及んだ。右近衛も、暁隊も、時には宝順が命を救った玲親王さえも、標的だった。  中でも、涼景を操るようにまとわりつく遜蓮章は、もともと文官の出自ということもあって、然韋には軍部をうろつく目障りな存在だった。  此度、宝順の皇子が命を落とした一件は、どこから湧き出した陰謀とも知れなかった。かつて宝順と蕭白が敵対したように、皇位争いは本人だけではなく、周囲の思惑によっても惨劇を産む。歴史は何度でも巡り、繰り返す。  重要なのは事実よりも、それがその後世に与える影響だった。皇子の死はきっかけにすぎず、それをどう、それぞれの野心に利用していくのかにこそ、皆の関心が集まっていた。  ただ一人、然韋を除いては。  天輝殿の正門で周囲を睨みつけていた然韋の表情がさらに険しくなったのは、強い日差しのせいではなかった。  白昼堂々、闇色の馬が一騎、軽快に駆けてきた。藍染の流しに白の肩布をなびかせて現れたのは、然韋の宿敵ともいうべき蓮章であった。  蓮章は舞うような軽やかさで馬を降りると、階段の下から然韋を見上げた。  今、蓮章は多忙を極めていた。従来の天輝殿警備の当番月にあたり、二交代の夜を回した。禁軍が事件捜査にあたる分、従来よりも多くの兵を要求された。  宝順の皇子の警備もまた、重責だった。彼らの住まいは中央区に点在しており、そのすべてに十人単位の右近衛を配置した。邸宅の立地も構造も、皇子たちの行動や性格も実に様々である。そのすべてに最適な計画を立て、適正を熟慮して兵を選び、負担が偏らないよう、役割を配分した。実際に現地を順に回り、その場での対応に心を砕くのも蓮章の役目だった。  犀星を涼景に一任したことで、五亨庵の警備は薄くすることができた。人手が足りない近衛の代わりに暁隊を常駐させ、朱市の見回りもそちらに任せた。当然、本来の市中の仕事とかけ持つ暁隊の忙しさも増し、悶着があると蓮章は日に何度も宮中と都を馬で往復した。  然韋の狙いは的中していた。涼景と蓮章を忙殺することで、禁軍の事件捜査に介入する隙を与えないよう、画策した。  だが、現実には、ふたつの誤算が生じていた。  一つは、備拓が蓮章に左近衛兵を貸したことだった。そしてもう一つは、然韋が思う以上に、蓮章の手腕が並外れていたということであった。  挑まれたならばすべて受けて立つ。それが蓮章だった。美女のごとき儚さと柔らかな物腰からは想像もできない業火が、身のうちに音を立てて燃えていた。  然韋は知らぬことだったが、涼景は親友の性格を心得ていて、止める無意味を知っていた。ただ、手段を選ばぬ強行に走ることだけを心配した。 「絶対に無理はするな」  辰巳に旅立つ前、涼景はひたすらそれだけを蓮章に約束させた。それでも、必要とあれば己が命も平気で囮にする蓮章の性格は、どうしても曲げることはできなかった。  出発の直前になっても、蓮章は計略の一片も伝えなかった。 「おまえたちは、問題が片付くまで帰ってくるな」  残酷なまでに徹底した蓮章の指示に、涼景は信頼と甘えと、そして友の身を案じながら頷いた。  蓮章はこの状況下でも、一切動じなかった。  行動も言葉も常軌を逸しているが、蓮章が巡らせる策はあまりに精緻に組み上げられた金細工のように美しかった。  涼景たちが辰巳に発つと、蓮章はすぐに行動を起こした。  近衛と暁隊を動かしつつ、同時に慎を使って慈圓から得ていた人脈を頼りに、事件の真相に一気に食らいついた。  誰よりも、蓮章には時間が貴重だった。  捜査は禁軍の担当であり、本来、蓮章が口を挟む余地はなかった。だが、然韋に任せていれば、涼景が求めた勝利条件を全うできる保証はなかった。蓮章には、体裁や慣例、危険性などより、涼景が何を望むか、それだけが行動の理由だった。  涼景の不在による蓮章の精神的な負担は大きかった。常に相手がそばにいて、何かが起きれば二人で臨む。その協力が崩れてしまうと、心に抱える重荷はいつも、想像以上に膨れ上がるのだ。  然韋は、報告に集まっていた部下たちを遠ざけると、蓮章と向き合った。話を始める前から、すでに二人の間には一騎打ちの気迫があった。 「何をしに来た?」  風さえ避けて通り過ぎ、木陰の蝉も声を潜めた。ただ、白過ぎる雲だけが、ゆっくりと足元に影を落としていた。 「おまえもさっさと逃げたらどうだ?」  然韋は、余裕のある声で言った。 「親王たちを辰巳へやったのは、逃がすためだと思ったか?」  対する蓮章もまた、微塵も口調を乱さなかった。  単騎、乗り込んできた蓮章の姿を、禁軍兵たちは遠巻きに耳打ちしあい、伺っていた。真夏の日差しに汗ひとつ見せず、飄々たる冷気を纏う蓮章の気配は、本能的に目を引いた。冴えた銀の瞳が、わずかに細められた。 「お偉方が、優秀な右近衛に名誉ある任務を授けてくださったからな。そこに専念できるよう、涼一人に親王を背負わせただけのこと。おかげで、近衛に余裕が生まれ、親王の屋敷当番を外れた暁隊を南区に当てるゆとりができた。軍の采配の基礎を踏んだまで」  蓮章の説明は明確だった。然韋は鼻で笑った。 「その割には、随分と疲れているようだが? 花街狂いも収まらぬ貪欲、見る価値のない手本そのもの」  然韋は笑ったが、さすがの蓮章も花街まで手は回っていなかった。その代わり、然韋の懐深くに踏み込んでいた。  禁軍になど任せていては、解決がいつになるやら知れたものではない。 「前置きはこれまでだ。こちらもさっさと終わらせて、涼を呼び戻さねば寂しくて狂いそうだ」  どこまでが本気とも取れない調子で、蓮章は言った。真昼だというのに、蓮章の口調は閨の枕のように妖艶だった。然韋は眉を歪めた。 「とっくに狂って色香に惑う下賤が」 「花を愛でる暇もない勤勉な禁軍隊長どのには、世を疑うという常套も欠けていると見える」  生粋の武人である然韋を前にしても、蓮章は物怖じすることはなかった。すでに、駆け引きは始まっていた。 「此度の件、大医の見立てでは、皇子の死因は毒によるものとのことだったな」 「それがどうした? 貴様が口を出す領分ではない」  然韋は煩わしさを隠そうともせずに、 「すべては我々の範疇である。貴様は次の失態の心配でもしておけ」  不機嫌な然韋に構わず、蓮章は肘を抱いて斜めに構えながら、 「光栄にも御子の邸を任されたおかげで、幾重にも安全策がとられていることを身を持って知った。食膳はすべて御膳房の献立、食材は厳選され、毎回複数の毒味役が当たっている」 「だからどうした?」  然韋は語調を強くした。 「そんなことは貴様に言われずともわかっている。今、屋敷の給仕から側仕えの内侍まで、一人ずつ、徹底的に調べているところだ。必ず、五亨庵とのつながりを暴くゆえ、覚悟するがいい」 「だから、急いでいるんだ」  捲したてる然韋に反して、蓮章は声を落とした。 「禁軍の的外れな追求で、嘘の自白と巻き添えの被害者が出る前に、さっさと真実を渡してやる」  蓮章は自分から然韋に近づくと、腕に抱えていた木簡の包みを差し出した。 「子を亡くされた陛下のお心を、一時でも早くお慰めするのが、臣下の使命たるもの。手段などという些細なことに目くじらを立てたりはすまいな?」  然韋の、宝順帝への実直すぎる忠誠心を、蓮章は執拗に刺激した。然韋はじろりと蓮章の顔と包みを見比べた。蓮章は薄い嘲りを浮かべ、 「将軍閣下は武に長じることに執心で、字を学ばなかったか。ならば俺が読んで聞かせてやろうか?」  然韋は包みをひったくると、乱暴に結び目を解いた。丁寧に綴られた木簡が、陽の光を弾いてすだれのように垂れた。  しぶしぶと読み始めた然韋だったが、先へ進むにつれ、みるみるうちに顔色が失せていった。 「なんだ、これは……」  一気に最後まで読みきって、然韋は声を震わせた。満足そうに、蓮章は微笑した。 「残念だが、俺は禁軍より優秀なんだ」 「ふざけるな!」  然韋は怒鳴ったが、その声は悔しさに揺れていた。 「これを、信じろと? ありえないだろう」 「信じてもらえるなどと、自惚れていないさ」

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