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12 芽吹き(2)
蓮章は上目遣いに然韋を見た。そこには媚びや色気を超えた、策略家としての気質が露骨に冴えていた。
これは、今までの冷やかしのような安っぽいものではないと、然韋は瞬時に嗅ぎ取った。
毒だ。
神経を溶かす猛毒の微笑だ。
黙ることしかできなくなった然韋の前で、琴の調べを思わせる蓮章の語りが見事に響いた。
「俺も将軍閣下のことははいけ好かない。何かと俺の愛しい相手を口汚く罵る品格は、器の卑小さが知れる。だが、狭量で視野の開けぬ忠誠が、功をそうすることもある。こと、帝への疑うことのない盲目的な隷属だけは本物だと思っている」
痛烈な皮肉に、然韋は声を飲み込んだ。挑発しつつも、蓮章には弁舌で戦う者の凄みがあり、然韋はとっさに言い返す言葉が出てこなかった。
漏れ聞こえてくる二人のやり取りを、禁軍と左右の近衛が集まりつつ、一触即発になりはしないか、と、はらはらしながら伺っていた。
蓮章の演説とも言える言葉の披露は高く響いた。
「皇帝陛下の御子の命を奪いし罪のありか、それが誰のものであろうとも、真実を暴くは禁軍の使命であり、将軍閣下の望むことと心得る。その成就のためとなれば、己の欲望に惑わされ、罪なきものを大罪人に仕立て上げるほどの愚行には及ばぬのが、陛下の近衛をまとめる然韋将軍の真価と思うが?」
蓮章の言葉の渦に巻き込まれながら、然韋はもう一度、木簡の中程を読み返した。視線が流れ、心が時を遡った。そこには、毒に関わる食事との関係のみならず、然韋の胸中に隠し持っていた傷までが、伸びやかな筆致で余すことなく記されていた。
蓮章は止めとばかりに、声を低め、そして、ゆっくりと、
「そうだ。九年前、第一子の鹿紗王殿下が亡くなられたのも、同じ死因と記憶している」
傷口の底をえぐりとるような、情の一片もない残酷さだった。
「当時も、閣下は調査に当たられたと聞き及んでいる。そして、その結果、鹿紗王の死因は食毒、すなわち、食事と薬の誤った食い合わせによる不慮の事故とされた。誰にも殺意はなく、罪はなかった。防ぎようのない事故死であり、痛ましい悲劇」
大仰な言い回しで、蓮章は然韋を追い詰め、考える暇さえ与えなかった。
「どれほど口惜しくやりきれなかったことか。陛下に同じ悲しみを負わせることのなきよう、此度は明確な毒殺事件として調査に乗り出し、鹿紗王の仇まで討とうとは、さすが然韋将軍の執念と忠誠心のなせる技と頭が下がる」
蓮章に絡め取られている自覚はあるものの、その正確な指摘は然韋の心を揺さぶり、冷静さを失わせるに十分だった。
もう一押しだ。
蓮章は目まぐるしく思考を巡らせ、一つのほころびをも許さぬ完成度でまくし立てた。
「この度、悲劇が繰り返されたのは、九年前の因果によるもの。当時の皇子の死因と今回の死因には不思議なほどに符合が多い。詳細はそこに記した通り。一見すると誰に落ち度もなく、偶然の重なった事故に過ぎない。だがそれこそが、犯人の狙いに他ならぬ。誠に遺憾ではあるが、禁軍では事故死の結末にたどり着くのが限界。しかしそれでは、鹿紗王の不始末を繰り返すのみ。ここは己の矜持より、真実の追求を優先することこそ、まことの忠臣のあり方ではないか?」
「……間違いないのだな?」
呻くように言った然韋の目は、今までとはまるで違っていた。蓮章に対する蔑みなど忘れ、別の何かに対する激しい怒りが支配していた。
「間違いないく」
蓮章は、然韋の思考を正確に突いた。然韋は唇を舐めた。腹立たしいことだが、蓮章の言う通りだった。唇を歪めた然韋に、蓮章は一歩、寄った。
「禁軍がどれほど周囲を調べたところで、証拠を得るどころか、冤罪を作り出すのみだ。将軍様は警護においては隙の無い無双の御仁なれど、それゆえに通れぬ道もあるというもの。ここはひとつ、色滴る享楽の庭に咲く花に問いかけてみるも、懸命な判断と思われる」
然韋が渡された木簡には、この事件の真相が事細かに記されていた。
「だが、証拠はない」
最後のあがきのように、然韋は言った。
「貴様のような色狂いが、下卑た妄想の果てに書き散らかした悪書に乗せられ、うつけを演じるなどお断りだ」
「将軍閣下の言う色狂いが、これまで暁将軍を支え、国を支えてきた事実をどう捉える?」
蓮章の言い分はもっともだった。
国の転機のたびに、蓮章の知略と涼景の人望が、局面をひっくり返してきた。
それは然韋にとっては面白くない出来事ばかりだったが、結果として時代が動いたのは紛れもない事実だった。
然韋は獣のように唸って、木簡をじゃらりとまとめた。蓮章は横目で見ながら、
「手柄は譲っていやる。本来なら、俺の文は涼にしか読ませないのだが、今回は閣下の方が適任だ。声がでかいからな。光栄に思え」
然韋は蓮章を睨んだが、それは今までとは別の意味を持っていた。
「遜蓮章、これがいかに愚策か教えてやろう。こいつはただの推論に過ぎぬ。証拠がない」
「これから、用意する」
蓮章はにやりとした。
「あんたはそのでかい声で、皆の前で読み上げてくれればいいだけだ。後のことは俺がやる」
「……最後にひとつ」
慎重に、然韋は言った。
「策が成ったとして、貴様はまた敵を増やすのだぞ」
「俺の味方は、最初から涼だけだ」
蓮章は即答した。
「敵の数など、知ったことではない」
「……だが、相手が悪い」
きた、と、蓮章は用意していた最後の言葉を口にした。
「絶好の機会ではないか。将軍様が恨んでいるのは、涼だけではないだろう」
蓮章は止めを刺した。あからさまに、然韋は目を見開いた。
「俺は最後の仕上げをしてくる。議場の手配はお任せする」
蓮章は踵を返した。
敵の敵は味方であるようで、やはり敵なのだ。
然韋は木簡を握りしめた。
味方など、ここにはいない。
ゆっくりと階段を下りながら、蓮章は南の空を見た。
頭も体もくらくらと煮えていた。
時々気が遠くなり、吐き気と寒気が断続的に襲ってきた。
体に溜まった熱を追い出すように、東雨は精一杯に唸り声をあげた。抜けていく息の分だけ、楽になる錯覚があった。
東雨が寝かされていたのは、辰巳荘の休湯室だった。薄暗く静かな部屋の隅は、磨き上げられた白木の衝立で仕切られ、一段低く設計された涼しい陰の場所だった。肌触りの良い薄手の毛氈が膝下にかけられ、入浴後の体が冷えすぎないように労わられていた。足元に、畳んだ毛氈が差し込まれ、頭より少し高くして血の巡りを助けていた。
床と壁の隙間に設けられた通風口から、新しい空気が流れ込んできた。決して冷たくはないが、今の東雨には心地よい温度だった。
天井近くの欄間や高窓が開け放たれ、湯殿から流れてくる湿気と熱を効率よく外へ逃がしていた。
顔のそばに、清涼感のある香が置かれていた。
「だるい……」
たまらず、東雨は口走った。その声は上ずって、舌が重たかった。
「馬鹿な真似をするからだ」
すぐ横で、優しい低音が言った。
東雨は酷く痛む頭を横に向けて、億劫そうに目を開いた。顔からは血の気が引き、土壁のように青白かった。
体温は高いはずなのに、指先や肩が小刻みに震え、額やうなじにねっとりとした冷や汗が浮いていた。
「俺……死ぬのか?」
「死なない」
呆れ顔で、涼景は言った。以前にも、似たやり取りをしたことを思い出した。
「ただの湯あたりだ」
「でも……」
東雨は不安そうに自分の体を見た。 四肢から力が抜け、指一本動かすのも辛いほどの脱力感に見舞われていた。
目を開けていても焦点が合わず、涼景の顔もぼやけ、時々火花のような光が散った。
「息だって、苦しい」
「無理をして、熱い湯に浸かるから」
涼景は、広い扇子を休むことなく動かし、東雨の首筋や脇の下を狙って風を送り、冷やした手ぬぐいを額にあててくれた。
「まったく、何を考えているんだか」
呆れながらも、涼景の目は注意深く東雨の呼吸を数えていた。
東雨は目をそらして、自分の喉元を見た。襟は緩められて開かれ、帯の結び目は完全に解かれ、あまりに無防備な姿だった。熱がこもらないための配慮だとわかったが、思わず羞恥の表情が浮かんだ。
「自業自得だ」
東雨の顔を見て、涼景はあっさりと、しかし、親しげに言った。そうしながら、東雨の白い肌に浮いた汗を、手ぬぐいで丁寧に拭った。麻を細くより合わせた布の感触は柔らかかった。
「そんなの、自分でできる……」
東雨は意地を張ったが、体を起こすと一気に吐き気とめまい、暗転に襲われた。ふらついた東雨を支えて、涼景はまた、横にした。
「そんな元気があるなら、これを飲め」
涼景は、湯のみに注いだ|甘草湯《かんぞうとう》を、そっと東雨の口元に近づけ、背中に自らの腕を差し入れて首を支え起こした。
「少しずつ、な」
ずるずると、東雨は不器用にそれをすすった。ぬるい湯は、不思議な冷たさのある味がした。
「少し、触るぞ」
涼景は慣れた手つきで東雨の手首を取った。力強い手に、東雨は黙って横を向いた。
「この辺りを押すと、吐き気やめまいを鎮めることができる」
涼景の太い親指がじっと動かず一点を押さえ、東雨の脈動を確かめていた。
「だいたい、どうして熱い湯に長居などした? おまえは中段が体に合うと言っていただろう」
東雨は、その質問には答えたくなかった。
犀星が、涼景は高温を好むと教えてくれた。それに張り合って勝ちたかった、などと言えば、間違いなく笑われるに決まっていた。
「ちょっと、寝てた」
「……溺れるぞ」
苦し紛れの言い訳は、どちらにせよ、失笑された。東雨は口を尖らせた。
「俺のことは放っておいてよ」
「星の指示だ。怪我人や病人が出ると、俺が駆り出されるのはいつものことだろう」
悪い気はしないが、という態度が、涼景の声に表れていた。
東雨は、ハッと我に返った。
「そうだ、若様は? 午後から出かけるって言ってた……」
涼景は丁寧に手首を撫でながら、
「とっくに出た。警備は凛に任せてある。謀児様と陽と四人で町を見て回るそうだ」
「俺を置いて?」
思わず、泣きそうな悲鳴をあげて、東雨はさらに具合が悪くなった。涼景は軽く笑った。
「仕方がないだろう? 遊びに来ているわけではない。住人の話を聞くのも、今後の具体的な計画を相談するために必要なことだ。金を出している商人にも会わねばならんし、おまえのように、湯に溺れているやつを待っているほど、暇じゃないんだ」
「いろいろ、酷い……」
泣きそうに、東雨は顔を崩した。犀星たちの行動は最もで、そこに責めるべき理由はないのだが、参加できない自分の情けなさ、浅はかさが悔しくてならなかった。
悲しみと苛立ちと湯あたりでぐったりしていた東雨の鼻に、冷えた香りが忍び込んできた。
「わかるか?」
涼景が、青磁の香炉を掲げて見せた。
すっと胸が冷たくなり、息が楽に通った。重厚で、透明感のある香だった。
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