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12 芽吹き(3)
「|竜脳《りゅうのう》だ。まるで、氷のようだろう? 真夏の行軍の時には、非常に重宝する。樹液を固めて作るんだ」
東雨は目線だけで、香炉を追った。
もっと見たい。
東雨の考えていることなど、涼景には全てお見通しだった。
涼景は香炉を東雨の目の前に近づけ、中身を傾けて覗かせた。氷の欠片のような半透明の見た目が美しかった。火を通さずとも、そばにあるだけで肌を刺す鋭い清涼感が放たれていた。
「冷たさだけじゃない。意識をはっきりとさせ、熱を鎮める効果が非常に高い。のぼせて朦朧としているおまえには、ぴったりだ」
涼景は指先で砕いた竜脳を、ひとかけら、東雨の鼻に近づけた。その突き抜ける強烈な刺激に、東雨の鈍っていた頭が目を覚ました。
「……きつい。いきなりはやめろ」
「よかった。おまえが文句を言うと、安心する」
涼景は意地悪く、しかし心底嬉しそうに笑った。
どう返していいかわからず、東雨はただ、涼景を睨みつけた。頬がまた熱くなったのは、湯あたりのせいではなかった。
二人きり、広い部屋の隅。
人々の喧騒から隔離された空間。
まるで、意図的に作られた舞台のような、何者かの意図が感じられた。
もしかして……全部、わざと?
犀星が自分を置いて行ったのではない、と、東雨は悟った。
若様に、見透かされてる……
嫌ではなかったが、手に負えない状況に追い込まれたことは確かだった。
沈黙は愛しいようでもあり、恐ろしくもあった。
途端に、涼景の顔をまっすぐに見られなくなり、東雨はもぞもぞと身をよじって寝返りを打った。
「なんだ、今度は腹でも痛いか?」
「違う……」
痛むのは腹ではなく、胸の奥だった。
涼景がまた、扇子を揺らした。だが、すぐにその風が止んで、代わりに、背中ごしに布が擦れる音がした。恐る恐る振り返ると、すぐ隣に、天井を見上げて涼景が寝転んでいた。
東雨の頭が、また、茹で上がった。
ばくばくと心臓が沸いて、さっきまで冷たかった手足が火照って辛かった。
「不用心だぞ……」
東雨は精一杯に憎まれ口を叩いたつもりだったが、それは自分でわかるほどにかすれていた。
「何に用心しろと?」
涼景が喉の奥で笑った。
「それは……いろいろ……」
もう、何を言っても墓穴を掘るだけだと観念して、東雨は口を閉じた。
蝉の声も、鳥の声も、風に舞った砂が外壁に当たる音も、何もかも、ずっと聞いていたかった。
涼景が一つ、深呼吸した。
それだけのことで、東雨はさらに焦った。
目を閉じれば、そのまま眠れそうだった。心は跳ね上がっていたが、体の辛さは随分と楽になっていた。
夏風と梢のざわめき、特別な想いを募らせる人の気配。
だめだ、俺、だめになる。
混乱して、東雨の思考はぐるぐると回っていた。回りながら螺旋を描き、やがて、一つの集束点へと定まっていった。それは自分の急所に狙いを定めているようでもあった。
「なぁ」
背を向けたまま、東雨は囁いた。聞こえなければそれでもいい、という、臆病な声かけだった。
「うん?」
暁将軍は鋭敏だった。東雨の儚い声を、逃しはしなかった。
東雨は半分目を閉じたまま、
「涼景って、好きな人、いないのか?」
「……なんだ、急に?」
本当に驚いたのか、涼景の声にため息が混ざった。東雨は真剣だった。
「いつも、思ってた。涼景は、燕家の跡取りなんだろ? 十分に宮中で出世もしたし、もう、いい年齢なんだし、いつまでも一人でいるの、変だなって思ってて……」
次第と消え入る東雨の声を、涼景は最後まで聞き届けた。
「確かに、言われることもある。さっさと子を成せ、と」
覚悟していたはずの東雨の胸に、鋭い痛みが走った。それは胸を突き抜けて、背中から頭のてっぺんまで走り抜けた。
「それは当然だ。涼景なら、ちゃんと後継ぎを……」
努めて、東雨は知ったような口ぶりで、
「そうするべき、だろ? 相手が好き、とかそうでもない、とか関係なくさ、家のために、というか……」
「ほう?」
面白い、というように、涼景は唇の端で笑った。
「おまえが、そんな貴人みたいなことを言うとは思わなかったぞ」
「一緒にするな!」
とっさに叫んで、東雨は自分の大声に頭痛を覚えた。また、くらりとめまいがした。
「そんなんじゃない。俺は、涼景を心配して……」
「おまえが俺を心配?」
吹き出すように、涼景は言った。
しまった、と東雨はゾッとした。
「まさか、おまえが? それは随分優しくなったものだ」
「ふ、ふざけるな! 俺は、ただ……」
「心配してくれたんだよな」
まるで、決定的な弱みを握った、というように、涼景はいたずらに東雨を覗き込んだ。逃げ場がなく、東雨は背を向けて体を丸めた。
「ずるい! やっぱり、大人はずるい!」
自暴自棄になって、東雨は怒鳴った。頬に刺した朱色が可愛らしく、涼景は目を離せなかった。
「おまえだって、もう、大人だろ」
ふっと、耳に直接声を吹きかけられて、東雨の身体が大きく跳ねた。
「馬鹿野郎!」
具合の悪さも吹き飛んで、東雨は涼景を睨みつけた。
想像以上の反応に、涼景も一瞬、呆然としてから、決まり悪そうに頭をかいた。
「俺にそういう口をきいてくれるのは、嫌いじゃない」
「……!」
東雨は唇を引き結んで、わなわなと震えた。
「本当に、安心できる」
「……え?」
不意に見せた涼景の横顔は、胸を締め付けるほど懐かしかった。
気まずく、こそばゆく、愛おしい沈黙に、蝉の声は一筋の現実感を添えていた。
「俺が、一人なのは」
蝉の音に隠れるように、涼景は低く言った。
「許されない相手を想っているから」
東雨の背中がスッと冷えた。
蓮章様?
とっさに、美しい灰色の瞳が東雨の脳裏に浮かんだ。血の断絶よりも優先される想い。
東雨はそっと胸を押さえた。
犀星も、玲陽も、同じだった。特に玲陽には、周囲からの期待が大きかった。玲芳は何も言わないものの、親族からの圧力は送られてくる木簡からもうかがい知れた。だが、玲陽が選んだのは、犀星だけだった。
「……そう、なるよな、うん、自然だと思う」
東雨は、それ以上、言えなかった。感情が大きくえぐり取られて、何を考えたら良いのか、わからなくなっていた。
ちら、と、涼景が東雨の動揺に気づいて、眉を寄せた。
「東雨、おまえ、誰を想像してる?」
「え?」
息を止めて、東雨は涼景を見つめ、ひたすら、目を瞬いた。涼景は、今日一番に深く息を吐き出した。
「言っておくが、蓮とはそんな関係じゃないぞ」
「……え?」
うろたえる東雨の心境は、すべて涼景に筒抜けていた。
「確かに、あいつは特別だ」
涼景はあぐらをかいて座ると、両手で顔を一撫でした。
「俺がどんなに好き勝手しても、いつも支えてくれるのはあいつだ。頼りにしている。しすぎるほどに、寄りかかっている自覚がある」
東雨は返事もできずに、足を崩して座りながら、着物の裾を直した。
「蓮は、強い。それに甘え過ぎて、きっといつか……」
涼景が喉を詰まらせた。
珍しいことだった。
東雨は顔を歪めた。
「まだ、間に合うよ」
心の古傷が、軋むように痛んだ。目の奥に熱い涙がこみ上げて、東雨は歯を食いしばった。
「涼景はさ、みんなのこと、守ってくれる。それは、わかってる。でも、涼景のことを守ってくれるのは、それができるのは、蓮章様だけなんだろ?」
泣きそうに、胸が震えていた。東雨は必死に嗚咽を殺した。
「俺じゃ……」
「…………」
「俺じゃ、涼景の力になりたくたって、何も……できない」
「そんなの、気にしなくていい。期待なんてしていない」
「それじゃ嫌だって、言ってんだよ!」
ぷつりと何かが切れて、東雨は叫んだ。
「俺のことは、本当に、放っておいていいから……」
最後の一矢を放って切れた弦のように、東雨は肩を落とした。ぽろりと、頬に涙がこぼれた。
困惑した涼景のため息が聞こえた。それでも、東雨の涙は止まらなかった。
東雨自身にも、何が言いたかったのか、わからなかった。ただ、突き放してしまいたかった。近づけば近づくほど、怖くてたまらなかった。
「東雨」
呼ばれるだけで、どうしようもないほどに気持ちが乱れた。
いつも力強く、快活で堂々と誇り高い涼景は、東雨にとって、眩しい存在に違いなかった。犀星に抱く思いとは別の感情によって、確かに惹かれていた。
しかし、冷静に見つめなおせば、東雨と涼景では、あまりに生きる世界が違っていた。
かつて、皇帝の密使として敵対していた頃の方が、そばにいられた気がした。今の自分は、涼景が気にとめる必要もないほど、価値のない存在になったようで、たまらなく寂しかった。敵である方が、無関心よりはるかに意味があった。
「ごめん」
細く、東雨は謝った。
「違うんだ。俺は、なんだか、最近、おかしいだけ」
「…………」
「あれを飲んでから、心の中で何かが騒ぐ」
「あれ?」
涼景は自分の喉に軽く触れながら、
「凛が言っていた、玄武池の傀儡か?」
「……うん」
東雨は頷いた。
「別に、侶香様みたいになってしまうわけじゃないし、俺は俺だよ。陽様だって、取り憑かれてはいない、って言ってくれた。でも、何だかもやもやする。小さな感情が、勝手に大きく膨らんで、自分でも止められないことがある……」
話しながら、東雨の喉から言葉がするすると引き出されてきた。心配をかけまいと、犀星にも話したことのない不安が、まるで告げる相手を得たとばかりに、止まらなかった。
「涼景」
半分泣きつくように、東雨は呼んだ。
「俺、どうなっちゃうんだろう」
「どうにもさせない」
迷いなく、涼景は言った。それは、本心からの宣言だった。まるで、近衛として犀星を守るような、使命とも誓いとも取れる覚悟が見えた。
東雨は体を傾けて、涼景を見上げた。真上から覗き込む茶色がかった瞳が、まっすぐ刺さった。
久しぶりに、見てくれた。
また、涙が目尻を伝って耳の中へ溢れた。
「怖がらなくていい」
前髪を撫でるような涼景の声に、何も言えず東雨はしゃくり上げた。
泣くことが、恥ずかしいとは思わなかった。涙は、弱さではないと知っていた。それでも、涼景の前で流すのは、拭ってくれることを期待した、甘えた涙だった。それが、悔しかった。
すべてを背負いすぎている涼景の負担になりたくないと思いながら、負担であったとしても見ていて欲しかった。
ごめんなさい。
自然と距離が縮んで、涼景は東雨を抱き寄せた。慰めるだけの、他意のない仕草であっても、東雨には待ち焦がれた温もりだった。憧れ続けた強い胸で、一層、東雨の涙は止まらなくなった。
「俺、きっと、必ず、強くなるから。負けないくらい、強くなるから」
溢れ出した東雨の気持ちは、東雨自身をも驚かせた。
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