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13 爆ぜ尽く息吹(1)

 犀星たちが辰巳へ出かけている間、慈圓は一人、五亨庵に残っていた。  犀星への冷たい噂は、あれこれと形を変えて人から人へ行き交っていたが、確固たる証拠があるわけではなかった。本心から疑う者はなく、憶測を巡らすこと自体が目的であるように、人々は声を潜めて意見を交わしていた。  とかく、話題に事欠かない人よ。  慈圓は、犀星と初めて出会った日を思い起こした。  歌仙育ちの美しい親王は、当時から関心を集めていた。政所の建設地を選ぶには慣例を破って南区に定め、自ら設計を手がけて前代未聞の奇抜な庵を作り上げた。当時、わずか十五歳であった。  いつもより静かな五亨庵の明るい景色を眺め、慈圓は息をついた。  床から突き出す五つの石も、いつしかすっかり見慣れてしまった。  五石を奉じた庵。犀星が選んだその形に、重たい血の歴史を感じずにはいられなかった。  血にあらがい続けた友たちの面影がよぎり、慈圓は目を細めた。  逃れられぬのか。  寂寥を浮かべた目元を、高くから差し込む光が照らし出した。  蝉の声が混じった風が、静かに空気を押し流した。  気配を感じて、慈圓は首を上げた。  当然のような顔をして、紀宗がすり足で入ってきた。 「しばらく見なかったな」  慈圓は驚きもせず、迎え入れた。  紀宗はぐるりと見回した。 「忌み子がいたでな。無沙汰したわ」  くぐもった声が、かろうじて聞こえた。 「その呼び名は慎め」  眉をひそめ、慈圓は言った。 「お二人とも、芯の強い方だ。敬意を払うべきだろう」 「呼び名を変えたところで、実は変わらぬ」  紀宗は取り合わなかった。 「奴らがいては、何かと面倒が増えるゆえ」  苦い顔で慈圓が見守る中、紀宗は土色の石に触れた。  途端に、動くことの少ない表情が、くしゃりと歪んだ。 「随分と高まっておる」  細い目が珍しく開かれ、はっきりと慈圓を見た。 「よもや、傀儡喰らいがあったか?」 「かもしれん」  慈圓はさらりと答えた。 「わしも、四六時中見張っているわけではない」 「これ以上はならぬ」 「手に負えぬか?」 「もう、負えん」  紀宗は石から離れた。五色の石が、わずかに膨らんだように思われた。 「玄草、そなたの親王は、余計なことばかりしおる」 「それは、そちらも同じであろう」  慈圓は鼻を鳴らした。 「玄武池の一件、聞いておるぞ」 「わしとて、全てを御せはせぬ」 「命を脅かしては元も子もない」 「あちらはもう、手遅れ」  言って、紀宗はゆっくりと首をかしげて、 「このままでは、こちらも手遅れ」  紀宗は体を慈圓に向けて、わずかに肩を落とした。慈圓は几案の上の木簡を整え、背を正して紀宗と向き合った。 「どうにかならぬか。侶香の忘れがみだぞ」 「あやつへの義理もある。策を講じてはみるが、あとは忌子次第ぞ」  慈圓の目がきらりとした。紀宗もまた、細いまぶたの隙間から慈圓の顔を見つめた。  二人は、旧知だった。  犀星が生まれる前から、敵となり味方となりを繰り返し、今は敵でも味方でもない、ただ互いを知る者となっていた。 「此度、宮中を騒がす事態は、奏鳴宮か?」  慈圓の含みのある言葉が、紀宗の頭の周りで渦まいた。 「そうと、思う」  曖昧に、紀宗は答えた。曖昧なれど、それは紀宗の確信だと、慈圓は直感した。この陰陽官は決して、侮ってはならぬ相手だった。 「紀宗、そなたには止めようがなかったのか?」  責めるでもなく、慈圓は問いかけた。紀宗は相変わらず小さな声でぼそぼそと答えた。 「親王のすることに口を挟めぬは、そなたとて同じこと」 「だが、これは度が過ぎておる」  慈圓は犀星の席を見た。 「おかげで、こちらもとばっちりだ」 「そちらに責任が何もないとは思わぬが」  紀宗は思わせぶりに、 「確かに、少々、哀れとは思う」 「そなたに情けをかけられては、伯華様もやりきれんであろう」  慈圓は紀宗を苦手とする犀星のことを思い出した。紀宗も嫌われているという自覚があるようで、わずかに唇の端を釣り上げた。 「隙間に生きるのも楽ではない」  紀宗の言葉に慈圓も小さく笑った。 「紀宗、そなた、策を講じると言ったが、いかがするつもりだ?」  慈圓は順に巨石を眺め回し、最後に紀宗を見た。紀宗は狭い肩幅を一層縮めて、 「忌み子を一人、使おうかと思う。案ずるでない、新月には手は出さぬ」  どこか楽しげな紀宗の声に、慈圓は表情を曇らせた。 「これだから陰陽官は好かん」 「そなたとて人の弱みに漬け込むを得意とするではないか」  紀宗も負けてはいなかった。  二人の言葉の応酬は、距離を図るのみで踏み込むつもりはなかった。 「一つだけ確かなことは」  紀宗は背を向け、置き土産のように呟いた。 「これより、天が爆ぜる」 「どうあっても、五亨庵に平穏は来ぬ、か」  慈圓は目を伏せ、低く唸った。  右近衛が皆揃って睡眠不足となり、気力体力士気が落ち、残すは蓮章自らによる夜のねぎらいで癒す他にはないかと思われる頃、ようやく、旦次から待ちに待っていたものが届けられた。  粗雑な身なりの旦次は、右近衛の門番から怪訝な目を向けられた。旦次も負けずに睨み返しながら、ずかずかと右近衛の前庭に入った。ちょうど出かける支度をした蓮章が、奥から馬を引いてきた。 「梨花……?」  旦次は見知った顔を見つけて大声をあげ、それからあんぐりと口を開いた。   蓮章といえば、昔からそのいでたちは特殊である。  日常でも議論の席でも、軍人らしからぬ衣を好んだ。戦場でさえ、鎧どころか、心臓を覆う御心鏡すら身につけなかった。  暁将軍は戦場で鎧をまとわず先陣を走る、という現実離れした噂は、蓮章の服装と混同されたものかもしれない。  その蓮章が、完璧な近衛副長の装束を身につけている姿は、玲凛の花嫁衣装を想像するより恐怖だった。一目見て、旦次は頭の中が吹き飛んだ。 「待っていたぞ」  蓮章は気にした様子もなく、旦次の手から木箱を受け取り、中身を覗いた。素焼きの壷が、藁に包まれて並べられていた。 「これで、揃った」  素早く馬の鞍に箱を固定して、蓮章は鞍上に上がった。 「何が何だがわからないんだが?」  旦次は口を曲げた。蓮章は長い睫毛を少し伏せた。 「気にするな。澱粉餅を焼こうと思っただけだ」 「いや、そっちじゃなくて」  旦次は、蓮章の正装姿に釘付けだった。  髪は首の後ろで束ねて毛先を逆立て、根本には珊瑚の櫛と揺れる小さな玉飾りがあった。  色彩を排除し、細かい折り目と光沢ある白を基調とした長袍は、右近衛の象徴そのものだった。副隊長の地位を示した小さな翼紋が青白く、背に見えた。  袖や裾に翻る裏地の淡い銀は、蓮章の特徴的な瞳と重なった。象牙色の帯には薄い金の刺繍、際立って白い襟には白銀の糸による花の模様が透けるように光っていた。  腰の直刀とともに漆塗りの指示杖が、刀より智で支える者であることを表していた。  鞍上で手綱を引くと、右肩にかけた短い披風が軽く風をはらんでふくらみ、蓮章の細い体を際立たせた。銀の飾鋲には、白房の玉佩が小さく揺れた。そこには燕の尾羽が二枚、控えめにそえられていた。 「梨花、その格好、決闘でもする気か?」  真顔で旦次は言った。途端に、カッと表情が激しくなった。 「それなら言えよ、水臭い! 仙水が留守なんだから、俺があんたを守ってやる」 「いらない」  蓮章は首を振った。 「それより、明日の朝一番に、辰巳に知らせを送ってくれ。すぐに帰ってこい、と」 「え?」  展開についていけず、旦次はまた、狼狽えた。 「でも、歌仙様の疑いが晴れるまで帰れない、とか言ってなかったか?」 「晴れるさ、明日は」  まるで天気の話でもするように、蓮章は軽く言うと、馬を走らせた。  困惑して見送る旦次の横に、惚けた顔をした近衛がひとり、近づいてきた。湖馬だった。 「なんか、今回の副長、すごく素敵なんです」 「はぁ?」  旦次は、ひとまわり以上年下の湖馬を見た。蓮章の馬影を見つめながら、湖馬は口元に手をやった。 「副長が素敵なのはいつものことなんですけど、いつも以上というか、本気というか、全力というか」 「俺には、単に追い詰められているようにしか見えないぞ」  早く仙水を呼び戻した方がいい。たとえ、明日、晴れなくても、だ。  旦次は急いで、暁番屋へ戻っていった。  毎日が濃密で、同時に慌ただしかった。朝には不明とされていたことが、昼にはつまびらかにされ、夕刻には、それが公然の事実として記録に残された。  皇子暗殺の事件が起こって以来、何人もの関係者が、軍律堂に呼び出され、禁軍による執拗な聴取が行われた。  だが、どこからも皇子を死にいたらしめた毒の流れは見つからなかった。皇子の亡骸を確かめた医者が死因を毒と断じた以上、然韋は、是が非でも犯人を突き止めねばならなかった。  様子を伺うばかりで、誰もが調査の進捗を尋ねる事はしなかった。  関わり合いになれば、そこから己の首が締まるであろうことを、皆、よく心得ていた。合議を欠席しただけで疑われた犀星の例もある。周囲に同調し、動かないことこそが賢明な判断と言えた。  進展もないまま、ただ日々だけが過ぎていった。  終わりが見えない閉塞感が強くなり、夏の暑さも重なって、皆が苛立ちすら覚え始めた頃、突然に然韋から、事件解決の報がもたらされた。  事前に、それらしい噂はひとつもなかった。あまりに唐突な展開に、官吏たちは好奇心をかかえて、天輝殿の内議場に急いだ。  日差しが入り口の石段を焼き、陽炎のように空気が揺れていた。  始まる前から扇子がひらひらと、そこかしこでひらめいていた。それぞれが身にまとう香の匂いが混ざり合い、そこに汗も化粧も混ざり込んだ。一呼吸するごとに違う香りがして、蓮章は胸が悪くなった。  今日の蓮章の姿は、旦次や湖馬ばかりか、他の誰をも驚かせた。一度で蓮章とわからず、二度見されることもしばしばだった。そして多分に漏れず、耳打ちの話題にされるのだ。  確かに珍しい。  蓮章は他人事のように振り返った。  式典はいつも涼景に任せきりで、自分は同時刻、暁隊をまとめていることが多かった。  初めてかも……いや、初めて、か。  冷静に、蓮章はそんなことを考えていた。足元には、旦次が届けた木箱があった。

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