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13 爆ぜ尽く息吹(2)

 蓮章の後ろの空席を、皆がやたらと気にしていていた。言わずと知れた、犀星の席だった。そこに座るはずの親王は今、紅蘭の辰巳ののどかな地で、湯に浸かっているはずだった。  報告の内容がわからない不安感は、人々の興味を煽った。満場に潮騒のような囁きが響いていた。  そのざわめきに、蓮章は耳を澄ませた。 「本当に歌仙様がやったのではないか」  誰かがまことしやかに言う声がした。 「しかし、あの方がそのようなことをなさるとは」  擁護の声も少なからずあった。 「だが、かつて侍童を殺したというではないか」  また、別の声が言った。 「おぬし、知らぬのか? あの真相は……」  本当に、話題に事欠かない人だ。  蓮章は真顔で聞き流しながら、じっと足元を見つめていた。  犀星の性格は、官吏たちもそれぞれに理解していた。  突飛で、何をしでかすかわからない危うさがある変わり者ではあったが、決して力で解決することはなく、ましてや暗殺などという手段を使う人間とは思われなかった。  それでも、然韋が犯人を暴いたと言うからには、よもや、との想像が働いた。  然韋の涼景嫌いは有名である。今回は、犀星もろとも失脚させる格好の機会といえた。それを逃すほど、然韋がお人よしとは考えられなかった。  犀星が皇子を殺したとなれば、近衛としてそれを止められなかった涼景も同罪、極刑は逃れられない。それは蓮章も同じであり、死装束とも見える今日の装いにも通じていた。 「はじめから、仕組まれていたのだ」  まことしやかに囁く者がいた。 「辰巳を領地に召したのも、反逆の足がかりとするため」 「遜梨花を生贄に、逃れるつもりだ」 「簡単にはいくまい」 「これで五亨庵も終わりか」  皇帝の登場を待つまでの間、人々の意見は自然とそちらへ傾いていた。  やがて、厳かに銅鑼がひとつ鳴らされた。  その余韻が消えるより早く、皆が正面を向いて口を閉ざした。  備拓に伴われた夕泉が奥の御簾を分けて歩み入り、上座から一段低くなった席に静かに腰を下ろした。その動きを気に留める者はいなかった。  もう一度、銅鑼が響き、然韋と共に宝順が姿を現した。  場の空気がさらに熱を帯びて、誰の肌にも汗が浮いた。  議場を見渡すことのできる高い位置で、宝順の黒と金の装束がざらっと擦れて音を立てた。  空席のそばに蓮章、夕泉のそばに備拓。そして、宝順を守るのは然韋だった。  禁軍の大将は、すなわち皇帝の近衛である。  然韋と宝順の関係が二十年以上に及ぶことを、その場の誰もが知っていた。然韋が決して宝順帝に逆らうことなく、その忠誠心が確固たるものであることは疑うべくもなかった。  銅鑼がまた一つ小さく鳴った。開始の合図だった。  静まってはいたが、我慢しきれない扇子があちらこちらで揺れていた。  然韋は、後ろ向きに身を低め、すり足で宝順の前から離れると、議場の中央で膝をついた。   補佐役の禁軍兵が歩み寄り、木簡の束を差し出した。然韋は受け取り、丁寧に宝順へと両手で捧げた。議場の両側に並ぶ官吏が、様子を見ようと身を乗り出した。  然韋は深々と頭を下げてから、木簡をゆっくりと開いた。からからと乾いた音を響かせ、色薄い木の板がずらりと広がった。  普段は軍事を語ることしかない然韋の声が、慣れない文体を静かに読み上げた。 「恐れながら、此度の皇子殿下|薨去《こうきょ》の一件につき、ご報告致します」  蓮章は、然韋が己の文字を正確に読み上げるのを、奇妙な気持ちで聞いていた。然韋は一通りの前置きの後、すみやかに本題に入った。 「第一に、当日殿下の御前に供された食膳の件にございます。こちらはすべて御膳房による献立にのっとり、食材の選定、調理、配膳に至るまで、狂いなく行われていたとのこと、房内および市場への聴取により明確となりましてございます」  御膳房に関わる数名の官吏が、ほっと息をつくのが聞こえた。 「第二に、邸内における膳の扱いについてでございます。こちらは毒見の証拠があり、内侍にもあやしきそぶりはなく、手ぬかりがないことの確認が得られましてございます」  青白くなっていた内侍長が、ほっと目を閉じた。 「第三に、医薬に関してでございます。殿下は日頃より強壮のため薬剤を服しており、その配剤は大医の記録により明らか。房外の医官に調合を確認したところ、不審な点はございませんでした」  臨席していた医官たちは、顔を見合わせて頷いた。然韋はさらに、 「以上の通り、毒物の痕跡は認められず、また調理器具、食材の残余を検しましたが、破損や腐敗も見受けられず。よって、当初、大医は殿下の御死去を意図的に混入された毒物によるものと疑いましたが、臣はこれを退け、不可避な事故と処断致します」  一度は安堵した場の空気が、瞬時に張り詰めた。 「この件に思惑はなく、何人も関与せず、根拠なき推論によって人を怪しむことは今後なきよう、謹んで願い奉ります」  然韋が、犀星の無実を語った。  その判断は、官吏たちを狼狽えさせた。皆の目が、互いの出方を伺って彷徨うな中で、蓮章だけは、じっと備拓の横顔を見つめていた。  見届けねばならない。  ここから先へ踏み込むのは、備拓の決意でもあった。 「お鎮まりを。まだ、終わってはおりませぬ」  然韋が声を上げた。 「事故ではあれど、ひとつ、留め置きたき報がございます」  慎重に、然韋は木簡を読んだ。 「大医は誤りを犯してはおりませぬ。原因を毒としたことは的確、そこに落ち度はございませぬ」 「何を言っている?」  左相の趙教が口を挟んだ。 「そなたが今、毒は出なかったと申したではないか」 「見る角度にございます」  然韋は木簡を辿った。腹立たしいことではあったが、この場を切り抜けるには、蓮章の文字に頼る他になかった。 「御膳以外に、殿下が自ら口にされた物が一つございます」  一同が、息を詰めた。 「粟と胡麻を焼いた菓子にございます」  驚きか嘆息か、議場の空気が揺れた。然韋はそれが静まってから続けた。 「これは御膳房の調理に属するものではなく、皇子が偶然に内侍の持ち物に気づき、所望されたとのこと。私物であり、市中より求めた間食の類でございました」 「内侍がそれに、毒を仕込んでいたのか!」  趙教の叫びに、然韋は首を振った。 「これは、無害にございます」  真相を待ちきれない趙教は、顔を引きつらせた。 「では、毒はどこだ? いや、毒はない……?」 「結局、どういうことだ?」 「大医の見立てが間違っていたために起きた混乱ではないか」  趙教に乗じて、取り巻きの何人かが、口々に大医を責め立てた。趙教は、白い髭を蓄えた大医を見た。 「そなたの過ちが、陛下のお心を痛め、国を混乱させた。この償いはどうなさるおつもりか!」  大医はかすれた声で唸って、然韋を見た。それから蓮章と備拓を順に見て、最後は腕を組んで黙ってしまった。  しびれを切らした趙教が結論を急いだ。 「今回のこと、大医が判断を誤っただけの、事故であったということだ。散々に振り回されて迷惑な」  保身に走った官吏たちの野次が大医に向いたとき、 「待たれよ」  喧騒を貫いて、澄んだ高い声が鳴った。  蓮章だった。  一斉に振り返って、また違うささやき声が白波のように音を立てた。  蓮章は、空席の前に膝をついたまま、背筋を伸ばして議場を一回り、ゆったりと見回した。正装をまとった右近衛副長は、まるで別人のようであった。 「大医どのの検分に過ちはなく、皇子殿下のお命を奪った原因は確かに毒。されど、そこに故意はなく、天の悲運が招いた末路」  蓮章はそばに置いていた木箱を手に取ると、膝の前に押し出し、紐を解いて蓋を外した。藁に包まれた素焼きの小壺を両手で取り上げ、戻した蓋の上に乗せた。 「壺の粉は、朱市で取引されていた澱粉。さて、ご一同、厨房の事情にはお詳しいか?」  料理など、出されるものを食べるしか知らない官吏たちは、視線を彷徨わせるだけだった。返事を待たず、蓮章は続けた。 「此度、内侍が所持していた菓子は、高位の口に入ることのない簡素な品。されど、使われていた澱粉は、百合より抽出した高価なものであった。そして、こちらが皇子殿下が召されていた強壮剤と同じもの……」  言いながら、蓮章は懐から粉薬の包みを出し、壺に添えて置いた。 「この百合澱粉と強壮剤の組み合わせが毒となる。それゆえ、御膳房では使用されぬが必定とされる。疑われるなら、どなたか、お試しになるか?」  蓮章はひやりとする笑みを浮かべた。夏の暑さが一瞬で凍り、然韋までが悪寒を覚えた。  派手な容姿と素行の悪さ。それゆえに軽んじられることの多かった蓮章の見違える姿。暴力的なまでの美しさと迫力に、誰もが圧倒されて話に引き込まれていた。  蓮章は備拓へと視線を送った。 「朱市に出回っていたこの百合の粉、もとを辿れば昨年の秋、奏鳴宮より市場へ払い下げたものとわかった。民への温情があだとなりましたこと、明らかにするのも心苦しいところなれど、見過ごすことかなわぬ事態となりましたゆえ」  備拓の目が、ゆっくりと蓮章を映した。瞬きすらためらわれる沈黙に耐えかねて、趙教がうめきを上げた。  蓮章は立ち上がると、形だけ宝順に頭を下げ、それから無遠慮に然韋によって、木簡を引き取った。さらさらと字面を追って目的の箇所を見つけると、片足を引いて斜めに構えた。 「一見すれば、ただ偶然が重なっただけの事故と見える。しかしながら、過去の記録を照らすとき、この見立てには看過し難き符合がある」  蓮章は、一呼吸を置いて、 「九年前、鹿紗王殿下が薨去された折、その死因もまた食毒、それも、此度と同じ取り合わせ」  議場の空気がさらに冷え、誰一人、みじろぎのできない緊張が蜘蛛の糸のように張り巡らされた。その印象的な双眸は、まっすぐに夕泉へと向けられていた。  官吏たちが一斉に息を呑む中、蓮章だけが息を吐いた。蜘蛛糸に宿る朝露にも似た、艶のある蓮章の声が響き渡った。 「高潔なる血を継ぐ方が命を狙われるは世の習い。されど、この符合は、偶然の一語をもって片付けるには、あまりに整い過ぎている。夕親王殿下の御心に問いたく」  不敵な笑みが、蓮章の顔に浮かんだ。議場全体が軋む音がした。

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