40 / 43

13 爆ぜ尽く息吹(3)

 蓮章の無礼は珍しくなかった。だが、この言動は明らかに常軌を逸していた。慎むべき線、それは自らの命をも危険に晒す一線。蓮章は、それを容易に踏み越えた。  暁将軍を支え続けた参謀の胆力は、今、剥き出しの牙となってぬるま湯にふやけた官吏たちの喉元に食らいついた。 「偶然を故意に引き寄せたか、それとも天の采配か、まことはいかに?」  蓮章の一声に、ついに備拓が顔を上げた。  夕泉へと向けられた疑惑の矛先は、確かにその急所を捉えていた。  然韋は震える目で、蓮章を見上げた。  美しい灰色の瞳が、一万の兵にも動じない輝きを放っていた。  これが、遜蓮章か。  畏怖とも思われる痺れが、然韋の全身を駆け抜けた。  官吏たちの視線が迷うように交差して、備拓の方へと注がれた。それを感じても、備拓は動かなかった。  備拓には、絡みつく人々の好奇の視線よりも、背後でただ静かに座っている夕泉の体温を感じとることの方が、はるかに意味があった。  殿下、私は、私の信じる忠義の道を選びます。  無言の備拓の決意は、変わらないその横顔にこそ、如実に表れていた。 「そなた、何を申しているか、わかっておろうな」  備拓の低い声が、真正面から叱責した。 「いかに玲親王殿下の寵愛厚い腹心とて、我が主人への冒涜、許しがたい」 「許しなど乞うてはおらぬ」  蓮章は真っ向から受けて立った。 「我が手の者が朱市を洗い、奏鳴宮につながるすべての商材を押収した。これより先、二度と同じ天災の降ることはあるまい」 「気が|狂《ふ》れたか、遜梨花! 夕親王殿下を公然と辱めること、命を持って償うこととなろう」 「もとより、承知」  蓮章の声が備拓を上回った。 「備拓様こそ、ご自身の失態をご理解なさっておいでか? 主人の暴挙を止められぬは臣下の罪、同罪と心得よ」  核心を得たり、と、蓮章は語気を強めた。 「備拓様はあくまで、夕親王の無罪、関与無しを貫かれると判断して相違ないな」 「無論のことだ。万が一にも、そのような現実が証明された際には、我が命もろとも、差し出す所存。主人の罪は近衛の罪。それくらいの忠誠心は心得て居る」  備拓もまた、一歩も引かなかった。引くどころか、さらに、前にのめった。 「遜蓮章、いかにしても、我が主人に罪を負わせるというのならば、覚悟を見せてもらわねばならぬ」 「真実のためならば、いかようにも成して見せよう。我が推論が的を得ず、夕親王殿下の冤罪を招き失脚を目論むに過ぎぬ浅慮とあらば、この場にて命を絶つ覚悟も辞さぬ」 「ならば絶て! これほどの侮辱、真偽のほどより既に重い」 「構わぬ。されど、それは備拓様も同じこと。近衛隊長の身にありながら、かような疑いを主人に負わせた罪、それはいかにして償うおつもりか」  自分も死ぬが、おまえも死ね。  端的なその応酬はすでに壁に当たっていた。ここから先は、本当に血を見る以外に道はなかった。  文官たちはがたがたと震えて声が出なくなくなっていた。然韋は、普段の穏やかさからは想像もできない備拓の激しさに驚愕した。そして、ゆらゆらと相手を狂わせ、調子を崩し、火の回りを飛ぶ羽虫のようだった蓮章の、炎そのものに変わって天を焦がす気迫に圧倒された。  もう、左右の近衛の衝突は避けられないかと思われた。  その時、 「お引きなさい」  高まり合う二人の近衛の間に、場違いなとろりと丸い声が差し込まれた。  きた。  蓮章と備拓は、それぞれの心で同じ言葉を叫んだ。それこそ、待ち望んでいた瞬間だった。  夕泉の衣が静かに擦れ、淡い音がした。 「遜軍師よ。そなた、奏鳴宮より下げたすべてを押収したと申されたな?」  夕泉は、自分にかけられた疑いに対する苛立ちなど、微塵も感じさせない穏やかさで言った。蓮章は瞬時に集中し、慎重に語を選んだ。 「奏鳴宮より賜った食材、道具、それらを使った商材に至るまで、そのすべてを引き上げてございます」 「それはそれは」  夕泉は扇を広げて、首元に寄せた。  その場の誰もが、夕泉の顔を見ることはできない中、声だけが、感情を読み取る手段だった。しかしその声も、夕泉に特有の、敵も味方も作らない、形は丸く角がないが、中身もすっぽりと空洞の、無意味に反響する声なのだ。 「備拓よ、此度は収めよ」  夕泉は、おだやかというより無味だった。 「かくも、朱市を改めてくれたのだ。それは並大抵のことではなかったであろう。そうまでして真実を探ろうとする遜軍師の探求は、陛下への揺るがぬ忠義の証。臣としてのその|篤《あつ》き心、賞賛されようとも断じられるべきにあらず」  備拓は夕泉の言葉を、まるで別の誰かのもののように聞いていた。  夕泉は体を傾けた。着物が揺れて、蓮章にもそれがわかった。 「そなたが言った通りならば、百合の粉の混じるものは朱市よりすべて消えたことになる。わが温情が招きし悲劇に胸は痛めども、そなたによって脅威は取り除かれた。礼こそ申せ、責めはせぬ」  夕泉は淡々と続けた。 「奏鳴宮の《《過失》》をそなたが補ってくださった。礼をせねばなるまい」  言葉こそ平坦だったが、そこには、自らの関与を完全に打ち捨てた姿勢があった。  本当に、単なる偶然か。  官吏たちは疑惑に捕らわれたまま、誰も何も言えなかった。 「これにて、ことは幕を引いた。私を陥れるべく再現しない限りは」  それは、夕泉が発した、議場の全員に向けての警告だった。 「わたくしを陥れる心ある者には、奏鳴宮の名の下に、最後の裁きを受けていただく」  すでに緊張の限界を超えていた官吏たちは、さらなる困惑に突き落とされた。  自分は無罪。今後に起きることは、自分を陥れる他者の罪。  すべて、道連れ。  夕泉の宣告は、あまりに粗野で唐突、横暴にも思われた。だが、それがもたらす心理的効果は高かった。  これから先、官吏たちは互いを警戒し、巻き添えを喰らわぬように、探り合うことになるだろう。相互監視の圧力は今まで以上に増し、夕泉は一時の屈辱と引き換えに潔白の口実を得た。  然韋はわずかに膝を崩した。いつしか、呼吸が浅く、意識が朦朧としていた。舌戦が終わっても、蓮章の気配は弱まることなく、目には一切の油断もなかった。  凄まじい熱と冷気、言葉と感情のぶつかり合いのなか、宝順だけは、終始、一言も発しはしなかった。何も見ず、何も思わない無表情で、別の空間を見つめ続けていた。  やがて、硬く守られていた議場の扉が開放された。  暑過ぎる刻限は過ぎ、誰もが汗で冷え切った体を抱えて、逃げるように天輝殿を離れて行った。  最後に残った蓮章は、色を変えつつあった空の下へ、ゆっくりと歩み出た。  ぬるい風は、今の蓮章には心地よく体に染み込んで、身を潤すようだった。  頼る背中もなく、声もなく、つなぐ手もない。一人で立つことだけで精一杯の思いがした。  早く。  正体の知れない何かを求めて、蓮章は大階段を一歩ずつ降りた。警備の禁軍兵が心配そうにこちらを見ていたが、首を振って助けを断り、蓮章は孤独に歩んだ。  前庭で、ぽつんと一人、立ち尽くしている者がいた。すぐに誰かわからず、蓮章は目を細めた。  待っていたのは、備拓だった。  蓮章は周囲を見回した。 「左近衛はどうなされた?」 「先に、奏鳴宮へ戻らせた」  備拓は、一歩、蓮章に歩み寄ると、深々と頭を下げた。 「梨花どの、この度のこと、何と詫びて良いか……」 「詫びも感謝もいりません」  蓮章は先ほどまでの気迫が嘘のように、静かにため息をついた。備拓もまた、落ち着いた声で頷いた。 「俺はただ、望んで利用されただけ」 「梨花どの……」 「自身の目的を叶えるために動いたまでのことです。それが偶然、備拓様にとっても望ましい行動となったまでのこと」 「しかし、それでも、そなたに重責を強いたことは変わらぬ」  備拓は、心から、そう言った。 「俺は、慣れています。お気になさらず」  蓮章は、むしろ、備拓の方を案じて顔を傾けた。 「これで、良かったのですか?」  蓮章は、いつもの口調に戻っていた。  備拓は、伺うように顔を上げた 蓮章の頬に青い美しさが揺れていた。 「まさか、備拓様がここまで大胆なことをなさるとは、ひたすら驚くばかりです」  蓮章の声ははっきりとよく耳に響いたが、奇妙に細かった。 「私自身のけじめであった」  備拓の思いつめた声に、蓮章はわずかに顎を引いて振り返った。 「備拓様ならば闇に伏すこともできたはず。それを、あえて自ら白日のもとに晒そうとなさった。それも、他者に暴かせ、ご自身までが責任を負うお覚悟で」 「やはり、梨花どのには隠せぬな」  自嘲して、備拓は首を振った。 「すまぬ」 「命がけの茶番に付き合わされたわけですね」  蓮章の言葉は決して、恨んではいなかった。 「嫌いじゃない。こういう賭けは」  風に揺れた蓮章の髪が、備拓には眩しかった。  蓮章の卓越した理詰めと短期間で整えた証拠、狂気じみた気迫、正装に象徴される覚悟の果たす役割は大きかった。それがあったからこそ、この舞台は成立した。  備拓は声を抑えて、 「いかに殿下とて、命をかけた疑いを突きつけられては、無関心を貫くことは難しいだろうと思ったのだ。沈黙はすなわち肯定とみなされる。あの方が認めれば、殉ずる覚悟であった」 「だが、認めなかった」  蓮章の一言には、釘を打ち込むような強さがあった。 「あくまでも逃げるつもりだ。だが、たとえ宝順が黙殺しようとも、俺は……」  口走りかけて、最後の理性がそれを止めた。  蓮章の肩が、波のように震えていた。備拓はそれを見て見ぬ振りしながら、 「殿下は、すべてを諦めたようであり、その実、譲れぬ何かに固執し続けていらっしゃる。こうなったからには、私はそれを見届けたい。それはおそらく、梨花どのも知りたいことであるはず」  蓮章は何も言わず、風の行く先を見ていた。  第一線には立たぬ、目立つことのない左近衛隊長と、底知れぬ才能を軽薄な衣で隠し続けた右近衛副長の大芝居は、真実と虚構が見事に組み合って場を制した。  二度と、こんな暑い日はないだろう。  煮え狂う感情が、蓮章の胸をひたすらに乱した。  自分が望んだのは、こんな結末ではなかった。  だが、これで良かったのだ。  涼、俺は、やったぞ。  蓮章は目を閉じた。  息が焼けついて、体が冷えた。 「備拓様。近衛は主人に尽くすものかもしれない。だが、その命は己のもの。最後の使い方は、己で決めて良い」  備拓は、ただ、首を垂れた。蓮章は、最後の息を振り絞った。 「備拓様。どうか、お命を粗末になされませぬよう……」  ふわりと体が崩れて、目の前が真っ暗になり、硬い石が背中を打った。自分を呼ぶ何人もの声が聞こえたが、そこに、本当に聞きたい人の響きはなかった。

ともだちにシェアしよう!