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14 雲間から(1)

 玲凛が後宮の霊的な安定を図る|寿魔内侍《じゅまないし》として招かれたのは、紀宗の特別な計らいだった。宦官であり、陰陽官としても高位の紀宗は、後宮において大きな発言力があった。そこに、犀星の推薦というお墨付きが降れば、前例も実績もない玲凛であっても、登用されるのは難しくなかった。  天輝殿の裏を探る。  それは、玲凛個人の望みであり、時代の誘いでもあった。  女の巣窟、皇帝の庭。  そこに身を置くに当たって、玲凛が最も心配したのは、我が身の貞操より、愛馬・薫風の行く末であった。亡き犀遠の忘れ形見であり、玲凛の唯一の友、誰より気持ちを察して寄り添ってくれる薫風は、戦場では刀にも勝る頼みであった。  どうにかして手放さずに済ませられないものかと散々掛け合ってみたが、ついには折れるしかなかった。そもそも、女性が馬に乗ることが認められない社会において、後宮には馬を養う場所も制度も存在しなかった。玲凛は悔しさで震えながら、薫風を右衛房に預け、大量の注文をつけて東雨に世話を任せた。  そしてもう一つ、太刀についても一悶着あったことは、言うまでもない。当然、後宮内への武器の持ち込みは許されなかった。短刀一つ、身に付けることができないのがきまりである。そんな中、玲凛は寿魔刀だけは譲らなかった。玲凛の身分は、悪い気を払う寿魔内侍である。それにかこつけて、寿魔刀は玲家に伝わる神刀であり、祭具である、と言い張った。半分だけ、真実だった。  寿魔刀の特殊な形が幸いした。刀身は平たく端は丸く、刃物には該当しなかった。検分にあたる担当官たちは、非力な女に一本の模擬刀を与えても、害にはなるまいと持参を認めた。 「ありがとう」  いざとなったら、これで殴ろう。  許諾の印を押すのを見ながら、玲凛は澄ました顔の下で、そう、企んでいた。  薫風も、武器も、玲凛にとっては難関だったが、厄介な問題は他にもあった。  玲陽である。そして、故郷の母・玲芳である。  玲凛の決定を知れば、この二人が力づくでも引き止めることは目に見えていた。  玲凛は考えた末、一計を案じた。それは蓮章から見れば策謀とは呼べない乱暴なものだった。  まず、玲凛は玲陽に甘えた。そして、一時的に歌仙に里帰りをしたい、母上に会いたい、と心にも無いことを言ってのけた。当然、玲陽は別れを惜しんだが、三月で戻るから、という約束をさせて、どうにか屋敷を出してくれた。  つぎに、玲芳の対策だった。母から文が来た場合は、犀星が文面を考え、他者の筆跡を真似ることが得意な東雨がそれを木簡に記すことに決めた。これは半ば脅しだった。全ては、玲陽には知られないよう、こっそりと隙を見て行う必要があった。犀星も顔を引きつらせたが、一度言い出した玲凛を説得することはできなかった。  玲陽に知られてはならない。  玲陽が勘づくより先に、知るべきことを全て集め、素知らぬ顔で戻らねばならない。途中で気づかれたが最後、玲陽の怒りは想像を絶した。  味わったことのない緊張感で、犀星も東雨も気が気ではなかった。犀星は宮中で学んだ鉄面皮を装い、東雨は間者時代の仮面を復活させた。しかし、勘のいい玲陽に悟られるのは時間の問題だった。  三ヶ月だけだから。  そうやって、周囲を巻き込み、兄と母を欺きつつ、玲凛は宝順帝の後宮へと乗り込んだ。その顔は好奇心と、戦いに向かう高揚感に上気していた。  夏の終わり、軒下に涼しい陶器の鈴が揺れ、残暑の名残をあらゆる香と茶の香りで遠ざけながら、表向きは静かに、その裏に底知れぬ感情の激流を迸らせる豪奢な宮殿が、玲凛を迎えた。壁際には水盤が置かれて花が添えられていた。玲凛はいつか見た、花街の金魚を思い出した。  紀宗の後について、玲凛は|梅香館《ばいこうかん》を進んだ。木造の大殿は等間隔に朱塗りの柱が屋根をささえ、白壁のいたるところには華やかな色彩の布がかけられていた。その隙間には明かり取りの窓がくりぬかれ、その上には巻き上げられたすだれが見えた。すだれを束ねる紐すら、高級な品であった。  見上げる天井は低く、藍塗の梁が走り、幅の広い欄間には幾種もの花の透かしが並んでいた。  香炉が複数置かれ、嗅いだことのない香木が焚かれていた。  まさにそこは、宝順の女たちの陳列棚だった。  着飾る者もいれば、そうしたくてもできない者もいた。母方の権力が側室や妾の地位をそのまま表し、それは着物にも装飾にも、そして沈んだ表情にも現れた。  全部で、二千人以上、だっけ。  玲凛は圧倒的な数を思い出した。  当然、宝順が女のすべてを把握することはなく、生涯、一度も会うこともなくただ名を連ねるだけで終わる者が大半だった。そのような者たちは、妾とされつつも、事実上の官女を務めた。  広大な後宮はには炊事処から洗濯場、暇を過ごす庭園までが用意され、下級の妾たちは仕事を与えられて秩序を担っていた。そこは宮殿というよりも、女だけの町と言えた。  その中でも、梅香館に集められたのは、選び抜かれ、個室を与えられた三百ほどの上位の側室たちだった。三百の軍勢ならば恐れるに足りない、と眼を光らせる玲凛も、三百の香を焚きしめた色とりどりの女たちには、どう、対処すべきか迷った。  以前、辰巳で湯治場の警護役として名乗りを上げた女たちは、誰もがよく日に焼けて、力仕事も恐れない豪胆な者たちだった。玲凛も暁隊に接するのと同じく、遠慮なくよく笑い、体術や棒術、連携を教えることを楽しんだ。  だが、後宮はまるで違う。  屏風や帳で視線や空間が区切られ、明らかに、区分けされる文化が見られた。  梅香館にずらりと揃った女たちは、入口から奥へ進むにつれて、次第に深衣の色彩が華やかになっていくのがよくわかった。  入口の近くは、形だけ妾として連なる者たちの領域だった。板の床に敷かれた敷物も、庶民には縁が遠いとはいえ、後宮で見るには質素だった。どうにか一族のためにと後宮送りにされたものの、宝順の手がつくこともなく、年々生気が失せていた。当然、目的であった家の繁栄など望めるはずもなく、後宮の隅の相部屋で、鬱々と暮らす余生だけが彼らのすべてだった。それでも、まとう着物はすべて、絹の光沢を放っていた。  衝立を超え、中ほどまで進むと、気配も匂いも変わってきた。  わずかずつ、姿勢がよくなり、胸を張る者も増えてきた。側室たちだった。  なりあがる為ではなく、もともと家柄には恵まれ、世継ぎを生む可能性を期待されて送り込まれた者たちである。  妾がはかない希望にすがる中、側室はそれなりに人としての誇りを持っていた。宝順の手つきになるのは当然のこと、すでに子を持つ者もいた。  玲凛は、妾も側室も一様に、似たような布を帯に飾っているのを見た。そういう着飾り方なのか、とも思ったが、どうやらそれだけではなさそうだった。妾は黒の細布の先に白い輪を通した飾りで統一されていた。側室は、布の色も輪の色も様々だが、大別して、黄色の者が多く、次いで、赤、最も少ないのは紫だった。座る位置によってそれらの宝飾も揃っていた。  なるほど、位がある、ということね。  玲凛は面倒そうに目をそらした。  表面上は静謐だが、嫉妬や派閥意識が感じられた。宦官や宮女が壁際や柱の陰に控え、女たちと、玲凛とに警戒の目を向けていた。  噂以上に、最悪。  玲凛は、静かすぎる空間に胸がむかついた。  暁隊は乱暴者揃いで騒々しく、静けさとは無縁の激しさがあった。しかし、そこに裏はなく、どこまでも明朗で単純だった。  それに対し、梅香館は真逆だった。玲凛の好みに反する社会であることは間違いがなかった。  私が祓うのは、穢れより、こいつらの邪念だわ。  好き勝手に思いながら、玲凛は素知らぬ顔をして、北側中央の御簾の前で立ち止まった。  御簾の左右には、装飾艶やかな衝立を背にして、高位の妃が座っていた。絹張の深衣には色とりどりの刺繍が施され、床に弧を描いて伸びていた。官位を示す帯の布にも模様があった。結ばれた石の輪にすら細工の掘り込みが施されて艶を際立たせ、後宮の頂点にいる自信が特徴的な化粧の様子にも現れていた。  玲凛は一目見て、思わず吹き出しそうになった。必死に飲み込んだが、隠しきれない動揺は唇をひきつらせた。  いかに後宮で美しいとされる顔立ちも、玲凛には狐と鹿を合わせた模様そっくりに見えた。  やはり、私、ここに来てよかった。  玲凛は、当初の目的も忘れて、珍しいものを見られたことを素直に楽しんでいた。  しかし、事態は玲凛が思うより、ずっと重苦しく、深刻だった。  紀宗が深く腰を曲げて頭を下げた。玲凛も、とりあえずは、と礼をして見せたが、視線だけはじっと御簾の向こうへ向けていた。 「この良き日に、後庭の邪気を払うにふさわしき方をお連れいたしました」  紀宗のぼそぼそ語る様子は変わりなかった。  玲凛はどうしたものか、と一瞬迷ったが、すぐに口を開いた。 「玲仲咲と申します」  一斉に、身を縮ませる音が聞こえた。  玲凛は思わずあたりを見回した。誰もが顔を伏せ、落ち着きを失っていた。 「私、悪い事言った?」 「そなたは黙っていろ」  紀宗が早口に言った。 「こちらでは、皇后陛下のお許しのない者は、声を発してはならぬ」 「では、いろいろ話したいから、許可をお願いします」  玲凛にとっては精一杯の丁寧な物言いだった。  どっと、周囲からため息のような低い音が押し寄せた。紀宗は細い目を開ける事も諦めて、ただ、首を振った。  御簾の向こうに座った正室の|宇城《うき》が、微動だにせずにこちらを見ている気配があった。 「あの……寿魔内侍として、よくないものを鎮めに来ました」  玲凛はさらに続けた。 「幽霊を見る、とか、姿はないのに声が聞こえる、とか、皆さんが怖がっていらっしゃると聞き……お伺いしまして」  言葉を気にして、言いたいことの半分も話せなかった。  玲凛は、言葉遣いに厳しかった母を思い出した。もう少し真面目に習っておけばよかった、と後悔したが、今更遅かった。 「……かような訳でございます」  紀宗があとを引き受けた。 「皇后陛下におかれましては、これにて心安くお過ごしいただけることと存じます。まずは手始めに、例の産屋を清めさせますれば、今後、悪しき気に煩わされることもないかと」  玲凛はちら、と紀宗を睨んだ。 「聞いてないわよ」 「今、申した」  紀宗は軽くあしらった。  皇帝と、皇家の血にまつわる因縁を調べるため、玲凛は紀宗との取引に乗った。紀宗は玲凛が後庭の邪気を払うことを条件に身分を与え、こうして正室との対面までの段取りをととのえた。  玲凛も、平然とした顔でここまで来た。  ところが、である。  実のところ、玲凛には浄化などという特殊なことは微塵もできなかった。寿魔刀で傀儡を切ることはできても、傀儡化しない情念など、手の出しようがなかった。  耳に静かで心に騒がしい梅香館を後にした玲凛は、ようやく、青空の下に解放されて、思い切り伸びをした。

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